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route:00  作者: レイレイ
第1章 学園編
PR
23/43

空欄

route:00


17話「空欄」



午後。


講義棟第五区画。


アニカは、

空いた席に座っていた。


隣の席は、

空いている。


月は、

海沿い24居住区へ向かった。


レイも、

危険区域実地調査の事前準備で席を外している。


いつもより、

教室が少し広く見えた。


前方では、

進路適合補助講義が行われている。


先生の声が、

静かに響いていた。


先生

「適性とは、

個体の可能性を狭めるものではありません」


「可能性を、

寿命内で最も深く使用するための

補助線です」


空間に、

複数のルートが表示される。


分岐。


補正。


到達。


収束。


先生

「旧文明期の個体は、

自身の適性を経験によって探索していました」


「選び、

失敗し、

傷付き、

再選択する」


「それは尊い過程でしたが、

同時に膨大な損失を伴いました」


映像が変わる。


進路相談。


学校見学。


職業体験。


適性試験。


自己分析。


面接練習。


迷っている人。


決められない人。


それでも、

何かを選ぼうとしている人。


先生

「現在文明では、

個体が無限に迷わなくて済むよう、

管理システムが適性幅を算出します」


「ただし、

適性とは固定された命令ではありません」


「個体が最も深く潜れる範囲を

示すものです」


アニカは、

静かに聞いていた。


最も深く潜れる範囲。


自分には、

それがあるのだろうか。


それとも。


まだ、

見つかっていないだけなのだろうか。


それとも。


そもそも。


無いのだろうか。


先生

「適性が未確定である個体は、

不足個体ではありません」


「観測値が足りていない状態です」


「反応」


「継続」


「拒否」


「興味」


「違和感」


「それらを収集し、

個体固有の補助線を生成します」


違和感。


その言葉だけが、

少し強く残った。


アニカは、

自分の端末を開く。


個体記録。



NAME:

ANIKA


分類:

観測継続個体


進路適性:

ーー解析継続中ーー


【オーダー内容:閲覧権限なし】



いつもの画面。


静かな白。


何度見ても、

同じ。


けれど今日は、

すぐには閉じなかった。


月には、

行く場所がある。


何を学び、

どこへ行き、

何を報告し、

どこへ戻るのか。


それが、

既に存在している。


レイにも、

任務がある。


観測し、

記録し、

必要な情報を持ち帰る。


迷いなく動けるだけの構造がある。


でも。


アニカには、

無かった。


先生

「補助線は、

表示されるものだけではありません」


「自己反応を抽出し、

仮の線を生成することもできます」


アニカは、

画面を見つめた。


仮の線。


自分で、

生成する線。


講義が終わる。


生徒たちが、

静かに席を立つ。


端末を閉じる音。


椅子が床を滑る音。


小さな話し声。


アニカは、

すぐには立ち上がらなかった。


月がいれば、

きっと今ごろ、

机に突っ伏していた。


レイがいれば、

きっと講義内容を整理して、

必要な項目だけを淡々と提示した。


でも今は、

どちらの声もない。


アニカは、

端末の検索欄を開いた。


検索。


適性未確定個体。


検索。


仮補助線生成。


検索。


自己反応ログ抽出。


候補が、

空中へ並ぶ。



【短期実習照合】


【自己反応分類】


【補助線生成試験】


【内面演算室 利用申請】



指が、

ひとつの項目で止まった。



内面演算室。



Deeper。



アニカは、

その名称を見つめる。


思考深度を加速する装置。


研究個体や、

適性未確定個体の補助に使われる部屋。


「あー。

一部のロスト文明オタクが勝手に、

“精神と刻の部屋”って呼んでるやつ」


天音が、

前にそう言って笑っていた。


天音

「なんか、

めちゃくちゃ考えられる部屋らしいよ」


「絶対疲れるやつじゃん」


レイ

「正式名称は内面演算室だ」


「だから、それがかたいんだって」


そんな会話を、

どこかで聞いたことがある。


アニカは、

説明を開いた。


【内面演算室 Deeper】


思考補助と深層解析を行う装置。


思考・感情・記憶反応を

リアルタイムで読み取り、

AIによる多層的な応答を

即時にフィードバックすることで、

試行回数と内面深度を上昇させる。


【使用目的】


適性変化可能性の観測。


適性確認。


思考整理。


内面対話。


判断補助。


反応ログ抽出。


補正訓練。


深層適性試験。


アニカは、

ゆっくりと読み進める。


【使用方法】


視線、脳波、生体信号、

心拍、呼吸、皮膚温、

眼球反応を同期。


提示された選択肢は、

視線停滞により選択される。


選択後、

次の分岐が即時生成される。


思考。


選択。


分岐。


再選択。


それを高速で繰り返す。


アニカは、

画面に表示された図を見た。


いくつもの線が、

中心へ潜っていく。


深く。


さらに深く。


自分の内側へ。


【注意事項】


深度上昇に伴い、

時間感覚の変化、

軽度の解離、

記憶断片の浮上、

情動反応の増幅が発生する可能性があります。


連続使用には、

監督官の同席が必要です。


アニカは、

そこで少しだけ指を止めた。


記憶断片。


浮上。


自分には、

浮かぶものがあるのだろうか。


それとも、

何も出てこないのだろうか。


画面の下に、

申請ボタンがある。



【適性未確定個体向け

短時間デモンストレーション申請】



アニカは、

しばらく動けなかった。


月はいない。


レイもいない。


誰にも聞けない。


聞かなくてもいい。


そう思った。


これは、

自分で探すものだ。


アニカは、

申請ボタンへ触れた。



【申請理由を入力してください】



空欄。


アニカは、

少し考える。


適性を知りたいから。


自分の線が欲しいから。


必要とされたいから。


回収されたくないから。


どれも、

間違いではない気がした。


でも、

それだけでは足りなかった。


アニカは、

ゆっくり入力する。



【自分が何に反応しているのかを知りたい】



少し迷って、

もう一行足す。



【正しいのに苦しいものを、

なぜ見てしまうのか知りたい】



送信。


画面が、

淡く白く光った。



【申請を受理しました】


【監督官を照合中】



数秒。


静かな待機表示。


そのあと、

新しい通知が灯る。



【監督官:海】


【第零演算室へ移動してください】



アニカは、

小さく息を吸った。



第零演算室。


学園の下層にある部屋だった。


普段使う講義棟よりも、

空気が少し冷たい。


白ではなく、

深い青。


壁面には、

細い光の線が静かに流れている。


水中にいるみたいだった。


アニカが扉の前に立つと、

認証音が鳴った。



【ANIKA】


【適性未確定個体】


【短時間デモンストレーション申請】


【承認済】



扉が開く。


中には、

海先生がいた。


海先生は、

いつものように穏やかな顔で、

端末を見ていた。


海先生

「来たね」


アニカ

「はい」


海先生

「ひとりで申請したんだね」


アニカは、

小さく頷いた。


アニカ

「自分で、

知りたいと思いました」


海先生は、

少しだけ目を細める。


海先生

「いいことです」


「ただ、

Deeperは答えをくれる装置じゃありません」


「自分の中にある反応を、

速く、深く、見せる装置です」


アニカ

「適性が分かるわけではないんですか?」


海先生

「分かる場合もある」


「でも、

適性というのは、

名前がついたあとに分かるものでもあります」


アニカ

「名前がついたあと……」


海先生

「まだ名前のない反応は、

装置にも読めないことがある」


「それが適性なのか、

記録なのか」


「それとも」


「還りそびれたものなのか」


アニカ

「還りそびれたもの?」


海先生

「今は、

難しいかもしれませんね」


「だから、

無理に理解しなくていい」


アニカは、

演算室の中央を見る。


そこには、

大きな椅子があった。


椅子というより、

小さな装置。


頭部を包む視線・脳波センサー。


腕に接続される栄養補給ユニット。


胸部へ取り付ける生体信号パッド。


脚部の筋肉刺激補助。


周囲には、

半透明の画面がいくつも浮かんでいる。


思考を映すための部屋。


内面を、

外へ出すための部屋。


アニカは、

少しだけ喉が渇いた。


海先生

「怖い?」


アニカ

「少し」


海先生

「怖いなら、

正常だよ」


「深く潜る時は、

怖さが境界になる」


「怖さが無くなったら、

戻る場所も分からなくなる」


アニカは、

その言葉を聞いて、

少しだけ息を整えた。


海先生

「今回は短時間デモンストレーション」


「通常領域は、

ベータ波とアルファ波の範囲で行います」


「考える」


「選ぶ」


「また考える」


「そこまでは、

日常の延長です」


海先生は、

端末を操作する。


画面に、

波形が浮かび上がる。


海先生

「けれど、

思考が深くなると、

シータ領域へ入ることがある」


「記憶や感情が、

言葉になる前の形で出る」


「さらに深く落ちると、

デルタ領域へ近づく」


「そこは、

眠りや無意識に近い」


「個体によっては、

自己帰還反応が弱くなる」


アニカ

「自己帰還反応?」


海先生

「自分が、

今ここにいると分かる反応」


海先生は、

少しだけ声を柔らかくした。


海先生

「深く潜っても、

戻れる個体は」


「自分の現実側に、

ちゃんとアンカーを持っている」


「音」


「匂い」


「声」


「場所」


「誰かと過ごした記録」


アニカは、

なぜか月の声を思い出した。


「これで頑張れる」


三日月型端末を、

両手で受け取った時の顔。


レイの部屋。


天音の軽い声。


レイの淡々とした返答。


そういうものが、

一瞬だけ浮かんで、

すぐ消えた。


海先生

「始めようか」


アニカは、

椅子に座った。


頭部センサーが下りる。


視界の端に、

薄い光が灯る。


腕に接続感。


胸部に、

小さな冷たさ。


脚部に、

微かな刺激。


機械音声が、

静かに告げる。



【内面演算室 Deeper】


【短時間デモンストレーション】


【使用個体:ANIKA】


【監督官:海】


【開始します】



視界が、

暗くなる。



最初に現れたのは、

白い空間だった。


そこに、

文字が浮かぶ。



【あなたが続けられるものは?】


選択肢が、

淡く並ぶ。


観測。


記録。


対話。


育成。


管理。


分析。


支援。



アニカは、

目で追った。


観測。


選択。


次の分岐。



【観測対象として関心が高いものは?】


ヒト個体。


AI人間。


生活空間。


感情変動。


水循環。


危険区域。



選択肢は、

次々に出てくる。


アニカが見るだけで、

選択される。


見たくないものは、

見なければいい。


そう思った。


最初は、

順調だった。



【関心反応:情動変動】


【関心反応:生活判断】


【関心反応:適合不一致】



言葉が、

浮かび上がる。


アニカは、

それを追う。


考えるより速く、

答えが出る。


答えが出るより速く、

次の問いが出る。


少しだけ、

身体が軽くなる。


思考が、

ほどけていく。


深く。


さらに深く。



【あなたが苦しいと感じるものは?】


整いすぎた部屋。


正しい言葉。


笑っていない顔。


誰も悪くない状況。



選択肢の中に、

一つだけ、

空欄があった。


アニカは、

それを見ないようにした。


正しい言葉。


選択。


次の問い。



【あなたが目を逸らせないものは?】


壊れかけた関係。


止まった生活。


泣けない個体。


役割の中にいる個体。



また、

空欄がある。


アニカは、

別の選択肢を見る。


泣けない個体。


選択。


次の問い。



【あなたが知りたいものは?】


正しい答え。


本人の希望。


行動できない理由。


空欄。


空欄。



アニカは、

少しだけ眉を寄せた。


空欄が増えている。


でも、

装置は止まらない。


選択肢は、

次々に表示される。



【正しさとは?】


必要なもの。


安全なもの。


損失を減らすもの。


全体を守るもの。


空欄。



【それでも苦しい理由は?】


理解不足。


感情負荷。


役割不一致。


環境不適合。


空欄。


空欄。



アニカは、

空欄を避け続ける。


見なければ、

選ばれない。


選ばなければ、

進まない。


そう思っていた。


でも。


次の問いで、

選択肢がすべて空欄になった。



【あなたは何を見たい?】


空欄。


空欄。


空欄。


空欄。



アニカは、

動けなかった。


どれも、

何も書かれていない。


なのに。


全部、

違うものに見えた。


ひとつは、

怖い。


ひとつは、

懐かしい。


ひとつは、

苦しい。


ひとつは、

呼ばれている。


アニカは、

一番近い空欄を見た。


何も書かれていない。


なのに、

そこには温度があった。


冷たい。


熱い。


濡れている。


乾いている。


同じ空欄のはずなのに、

見るたびに違う。


冷たいものは、

内側へ沈んでいく。


熱いものは、

外へ押し出そうとする。


乾いたものは、

輪郭を作ろうとする。


湿ったものは、

境界をなくして混ざろうとする。


文字ではない。


選択肢でもない。


でも、

何かがそこにある。


言葉になる前のもの。


記録になる前のもの。


星座になる前のもの。


天体になる前のもの。


誰かが、

まだ星へ還せていないもの。


アニカは、

息を止める。


これは、

私の反応なのだろうか。


それとも。


私の中にある、

誰かの反応なのだろうか。


アニカ

「……なに、これ」


声が、

白い空間に落ちる。


その瞬間。


空欄の一つが、

勝手に光った。



監督室。


海先生の前で、

複数の波形が跳ねる。



【視線選択:未定義領域】


【選択肢ラベル:生成不能】


【深度上昇】


【θ帯域、規定値接近】



海先生は、

表情を変えずに画面を見る。


海先生

「……早いね」


機械音声。



【思考分岐数、上限接近】


【未定義反応、継続】



海先生

「補正を弱めて」



【補正低下】



数値が、

一瞬だけ落ちる。


でも、

すぐにまた上がる。



【深度上昇】


【θ帯域持続】


【δ帯域移行予測】


【眼球反応低下】


【自己帰還反応、低下】



海先生の指が、

端末の上で止まった。



【緊急停止を実行した場合、

覚醒復帰失敗リスクが上昇します】



海先生

「……やはり、こうなりますか」


その声は、

驚きではなかった。


確認に近かった。



アニカは、

白い場所にいた。


何もない。


でも、

空っぽではない。


白い。


何もないはずなのに、

音がした。


遠くから。


とても遠くから。


誰かを呼ぶ声。


誰か。


誰かいませんか。


それは、

アニカを呼んでいるようで。


アニカではない誰かを、

探しているようでもあった。


アニカは、

振り返る。


そこには、

知らない景色があった。


廃墟。


割れたガラス。


傾いた建物。


焦げた空。


水のない川。


誰かが走っている。


誰かが抱きしめている。


誰かが奪っている。


誰かが祈っている。


誰かが、

誰かの名前を呼んでいる。


見たことはない。


でも、

知っている。


そんなはずはない。


アニカは、

一歩進む。


足元には、

何も持っていない手があった。


自分の手。


違う。


誰かの手。


泥がついている。


震えている。


涙が落ちる。


涙。


誰の。


私の?


違う。


でも。


胸が痛い。


生きている。


そう思った。


アニカは、

息を吸おうとする。


息が入らない。


白い景色が、

さらに白くなる。


遠くで、

誰かの声がした。


月の声のような。


違う。


もっと古い。


もっと遠い。


でも、

知っている。


ああ。


そこに、

いた。



【高周波活動を検出】


【γ帯域、局所同期】


【記憶統合領域、過活動】


【自己同一性境界、不安定】


【未分類記録反応を検出】


【帰還類似反応、上昇】



脳波の推移データが、

高周波帯へ昇っていく。


地面から離れて、

空へ溶けていくように。


監督室の警告音が、

低く鳴る。


海先生は、

端末を切り替えた。


通常の停止はできない。


引き剥がせば、

戻れない可能性がある。


なら、

戻る場所を作る。


海先生は、

保存記録群を開く。



【ANIKA 安定時記録】



候補が並ぶ。


講義室。


食事記録。


移動経路。


課外授業ログ。


その中に、

ひとつの記録があった。


提出者。


レイ。


分類。


非公開観測ログ。


記録名。


アンドロイド科居住区

個室内相互作用記録。


海先生は、

それを開いた。


レイの部屋。


淡い照明。


月の声。


「それ好きって言うの!」


天音の笑い声。


天音

「レイ、それ今の言い方ちょっと人っぽい」


レイ

「意味不明」


アニカの笑う声。


小さな食器の音。


誰かが座る気配。


近い距離。


安全な空間。


海先生は、

その記録を調整する。


音量を下げる。


光量を落とす。


呼吸リズムに合わせる。



【安定記録を提示】


【自己同一性アンカー生成】


【α帯域誘導開始】



白い場所に、

音が混ざった。


月の声。


天音の声。


レイの声。


自分の笑い声。


アニカは、

ゆっくり瞬きをする。


廃墟の景色が、

少し遠ざかる。


焦げた空が、

薄くなる。


手元の泥が、

消えていく。


代わりに。


あたたかい部屋。


レイの端末の光。


月の髪についた小さな三日月。


天音の水色の髪。


誰かが、

すぐ近くにいる。


戻る場所。


そう思った。


誰の声か分からない声が、

遠くなる。


「アニカちゃん」


それは、

記録の中の声だった。


でも、

アニカはその声に反応した。


呼吸が、

少し戻る。



【α帯域、再出現】


【眼球反応、回復傾向】


【自己帰還反応、上昇】



海先生

「今なら、止められる」



【緊急停止プロトコル実行】


【Deeper停止】


【接続解除】



黒。


次に、

白。


消毒の匂い。


柔らかい布。


遠くで、

機械音。


アニカは、

目を開けた。


白い天井。


医務室だった。


しばらく、

何も分からなかった。


自分が、

どこにいるのか。


なぜ眠っていたのか。


何を見たのか。


分からない。


ただ、

胸の奥だけが、

まだ少し震えていた。


身体は重い。


でも、

胸の奥だけが、

妙に軽かった。


アニカは、

ゆっくり息を吸う。


ちゃんと、

入ってくる。


横を見ると、

海先生が椅子に座っていた。


海先生

「起きたね」


アニカ

「……私」


声が掠れる。


海先生

「Deeperのデモンストレーション中に、

深度が上がりすぎた」


「今は医務室」


「身体状態は安定している」


アニカは、

目を伏せる。


記憶が、

薄い。


白い場所。


知らない街。


泣いている人。


手。


声。


月の声。


どこまでが、

本当に見たものなのか分からない。


アニカ

「私、

何を見たんですか」


海先生は、

すぐには答えなかった。


少しだけ、

窓の方を見る。


アニカも、

つられるように視線を向けた。


窓の外には、

満月が浮かんでいた。


白く。


丸く。


静かに。


まるで、

全部を見ていたみたいに。


海先生

「まだ、

言葉にしなくていい」


「覚えていないものを、

無理に掘り起こす必要もありません」


アニカ

「でも……」


海先生

「ただ、

ひとつだけ覚えておいて」


海先生は、

アニカを見る。


海先生

「あなたは、

適性が無いから空欄になったわけじゃない」


アニカは、

息を止めた。


海先生

「今の分類では、

まだ名前を付けられない反応があった」


「それだけです」


アニカは、

自分の手を見る。


何もついていない。


泥も。


涙も。


何も。


でも、

手のひらの奥に、

まだ何かが残っている気がした。


アニカ

「……私は」


「何に向いているんでしょうか」


海先生

「さあ」


あまりにも軽い声だった。


アニカは、

少しだけ驚く。


海先生

「それを知りたくて、

潜ったんでしょう?」


アニカは、

黙る。


海先生

「なら、

答えを急がなくていい」


「ただし、

もう待っているだけではなくなった」


海先生が、

端末を差し出す。


画面には、

ひとつの表示がある。



【未確定個体向け短期観測候補】


【照合中】



アニカ

「これは……」


海先生

「あなたが申請した補助線の続きです」


「Deeperは途中で止めたけれど、

反応ログは残っている」


「そこから候補が出る」


アニカは、

画面を見つめる。


まだ、

何も決まっていない。


でも。


白い空欄ではなかった。


アニカは、

小さく頷く。


海先生

「今日は休みなさい」


アニカ

「はい」


海先生

「月さんも、レイくんも、

まだ戻っていない」


「だから、

今は無理に言葉にしなくていい」


月。


レイ。


その名前を聞いた瞬間、

アニカの胸の奥が少しだけ動いた。


戻る場所。


そう思った。


でも、

なぜそう思ったのかは、

分からなかった。


海先生は、

立ち上がる。


扉へ向かう前に、

少しだけ振り返った。


海先生

「アニカさん」


アニカ

「はい」


海先生

「あなたが見ようとしたものは、

正解ではないかもしれない」


「でも、

あなたが目を逸らせなかったものです」


扉が閉じる。


医務室に、

静けさが戻る。


アニカは、

もう一度、

窓の外を見る。


満月。


月は、

まだ帰っていない。


レイも、

まだ帰っていない。


今日の記憶は、

ところどころ曖昧だった。


けれど。


端末の画面には、

小さな表示が残っていた。



【候補ケース:照合中】



アニカは、

その文字を見つめる。


自分の線は、

まだ見えない。


でも。


どこかで、

何かが始まった気がした。


窓の外で、

満月が静かに光っている。


白く。


まぶしく。


何も知らないふりをしているみたいに。





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