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第5話 Excelが生む、信頼の構造

新卒で入社したのは、いわゆる“安定企業”。

日課のランニングを終えてから通勤ラッシュに揉まれ、真新しいスーツを着て、定時より早く出社する——そんな生活が、あかりの新しい日常になった。


けれど、思っていたよりずっと、職場は“ふんわり”していた。


「この申請、どこ通せばいいかは……まぁ、空気読んで」

「とりあえず、前任者のファイル見てみたら?」

「いや、それより今はC案件が最優先って感じになってるかも」


ロジックのようでロジックでない。


数理論理を学び、証明と命題に囲まれていた大学生活。

論理の美しさに魅了された日々から一転、いま彼女の前にあるのは、曖昧な指示と“なんとなくの優先順位”。


内心、あかりはつぶやいていた。


「これ、多変量で回帰分析かけたら“空気感”が主因になりますね……」


──そんなある日、部内ミーティングで小規模な業務改善プロジェクトが立ち上がった。


各部署が出してきた“改善案”が十数件。

誰もが「これは重要」「いや、こっちが緊急」と声を上げるが、話は一向にまとまらない。


「結局、全部やらなきゃじゃん」

「いや、まずA案だろ」

「え? Bじゃないの?」


混迷する会議。


そのとき、あかりがExcelの画面を共有した。


「すみません、ちょっと整理してみました」


提案一覧に対して、あかりは独自の優先スコアを作っていた。


・実行コスト(作業量・外部委託費用)

・効果期待値(KPI=成果指標への影響度/1〜5点)

・展開力(他部署標準化の可能性/重み係数)


それを「効果期待値 ÷ 実行コスト × 展開力」でスコア化。


条件付き書式で高スコアは濃い緑、低スコアは薄い赤。

並んだ棒グラフの中で、B案のバーだけが右端まで伸びている。

「重要」と叫ばれていたA案は、左端で小さく沈んでいた。


数字は万能ではない。

けれど整えることに意味がある。


静かに、しかし確かに空気が変わった。


「ああ……これは、説得力あるな」

と、最も寡黙で強面の部長がつぶやいた。

その声が妙に優しくて、あかりはちょっとだけ戸惑った。


それ以降、あかりは“複雑な問題を解決できる人”として認識されはじめた。


「ロジックだけで話す子かと思ったけど、見やすいんだよな、あのフロー図」

「なんか、頭いいのに押し付けてこないのが良いよね」


少しずつ、彼女の周囲が整理されていく。


——Excelは、あかりの武器になった。


あかりがExcelで構造の綻びを指摘し、改善案を提示する。

すると──なぜか、意思決定者の男性たちは迷わず受け入れる。

そんな光景が、何度も、積み重なっていった。


最近は仕事もうまく回り、上司からも信頼されている。


けれど、あかりは夜、ふと思う。


「こんなに順調なのに、なぜか落ち着かないのは……」


方眼ノートにそっと書く。


『経験則に反例がないとき、人は次の一撃を恐れる。これは帰納の罠。』


扱う問題が多岐に渡るにつれ、あかりは手札が足りなくなると感じた。


経済や制度設計にも踏み込む必要に備え、

そう気づいたとき、彼女は新しい分野を一枚ずつ、自分の地図に描き足していった。

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