プロローグ
——刺せ、刺せ、刺せ、刺せ! 殺せ!
俺の手に握られているのは兄さんの剣。鍛錬用の木刀などではなく、まさしく真剣を手にしている。刃渡りは俺の腕ほどの長さがあり、一振りで容易に人を殺せる代物だ。
小さな入り口からの仄かな明かりしかない薄暗い地下室。そこで、俺は突っ立ったまま兄さんの背中を見つめていた。
兄さんは、父さんから頼まれた薬草を棚に並んだ壺の中身を摘んだり覗き込んだりして、薬草の選定をしている。
『——刺せ! 刺せ! 八つ裂きにして殺せ!』
その後ろで俺は、亡霊のような気色の悪い声にただ呆然と立ち尽くしている。
『——刺せ、刺せ、刺せ、刺せ! 殺せ! その剣で!』
頭の中を何度も響くその声は、俺が心の奥に留めていた兄さんへの嫉妬心を触発する。
自分の薄汚くて下衆な部分を兄さんにも家族にも見せないために、隠し続けている兄さんに向けての感情——
(どうして兄さんだけなんだよ。なんで、俺には憑いて無いんだよ。……ずるい、ずるい! どうして、俺は《《ただの人間》》なんだよ!)
いつのまにか柄を握る手に力が入っていた。
『——さぁ! 奪いつくして殺せ!』
「何で母さんも、父さんも誰も俺を見てくれないんだよ!」
喚き叫ぶように兄さんの背に理不尽な怒号を飛ばした。
それでも、兄さんは俺に背を向けたまま何事もないように薬草の方を向いている。
俺は自分の奥底にある感情にだけ従い、体を突き動かした。
力強く握っていただけの剣が、誰かに引っ引き寄せられるように、導かれるように、兄さんの背中に向かっていく。そのまま、突き刺した剣の切先が兄さんの背中を抉る。握っている剣に力を込めて、服、皮膚、肉と突き刺して──そして胸元まで穿った。
「ぐぁッ……」、か細く呻いた声が兄さんの口から洩れる。
兄さんの体が、肩から腰そして足と崩れて、自分の腕元に倒れ込んできた。兄の重みにそのまま押されて、地面にドタッと尻餅をつく。
胸元へ倒れ込んできた兄さんの顔を俺は無意識に覗き込んでいた。
その顔からは覇気が感じられず。表情はいつもの兄さんらしさが、微塵もない。
兄さんの胸元に刺さった剣のふちから、血が溢れ出てくる。その血は服へと染み込んで広がっていく。
俺の視界までも赤一色に滲んだ。
その光景から一刻も目が逸らせられない。
俺の目に兄さん以外のものは映らない。
次第に血飛沫が激しくなり俺の腕にも飛びかかってくる。その血は、気味が悪いほどに生ぬるい。
腕にかかった血の感触が、俺を少しずつ正気を取り戻していく。
ようやく自分が行ったことへの理解が追いついてくる。脳が自分の行動を反芻して、より正確に記憶しようとしている。
俺はそれを受け入れられず抵抗しようとしていたが、兄さんを刺した感触も頭に残って俺に問いかけてくる。頭から離れない。
「…まえ……っ…な……んな…か……で…」
兄さんの口が動いた気がした。まだ意識が混濁している俺にそれだけがはっきりと理解できた。
「…っと…てい………ら……ラルス…」
虫の息である兄さんからの声が全て明瞭に聞こえたわけではない。だが、俺の名前を読んだ声だけは鮮明に聞こえてきた。
自分の名前を呼んだ時の兄さんの口の動きが、脳裏に焼き付いて離れない。いつも当たり前に聞いていたのさんの声が、今日は遠くて、そしていつもからは考えられないほど弱々しく聞こえた。
それを最後に、兄さんの口が二度と開こうとはしなかった。顔には憎しみや怒りは一切含まれておらず、少し安らぎ、微笑んでいるようにも見えた。それからはいつもの兄さんの温さが感じられた。
その声とその顔が語りかけるように俺ヘ訴えてくる。そして、俺が認めまいとしていた現実が重くのしかかるように頭にやってくる。否定したくても、しきれない。
ただ泣き喚くことしか出来なかった。身体の中から濁りきった不純物を吐き出すようにして咽んだ。
俺の喉から発せられる絶叫は、言葉にし難いほど惨めで、壁を反響して聞こえるその叫び声が俺の耳を劈いてくる。
呼吸を直さずに叫び続けたせいで、息が苦しくなり声が詰まる。痛みつけられた喉は枯れて、咳が止まらない。
まともに息が出来ない俺を他所に、叫喚に呼ばれて二つの足音がこちらに寄って来る。どちらも、落ち着きがない。
それが、すぐ近くまでやってくると、開いているドアの方から二つの影が見えた。
ゆっくり入口の方に俺は目を向ける。
そこに母さんと父さんがいた。二人は、膝をついて兄さんに寄りかかる血まみれの俺を、見て、固まったまま動かない。
母さんと父さんは俺を見ていた。いつもと違い、《《兄さんではなく俺を》》見ていた。
俺を見つめる二人の瞳の瞳孔までハッキリと見えた気がした。
母さんは目を見開いて、開いた口は今にも叫びそうに震えている。
二人の瞳からは、眼前に起こっている事態への驚愕や喪心とは別に俺への軽蔑と恐怖が滲んでいる。
突き刺さってくる視線は、俺がずっと待ち望んでいたものでなく、見せたかった自分もこんなものではなかった。
「違う、違う、違う……俺じゃない。こんなのは俺じゃない! こんな俺を見て欲しかったんじゃない!」
両親に向けて、我知らず右腕を振りかざしていた。
その瞬間、体の周りで“何か”が動き、小さな塊のようなものがどんどん集まっていく感覚が流れる。風のように実体を見ることはできないが、その感覚だけがある。
その一つひとつが繋がれていき、右腕の方に集まっていく。
まったく感じたことの無い感覚だ。
俺が自主的にしたのでは無い。
気味悪い声が聞こえた時は、俺の体に這うようにまとわりついていた気配はもう無く、“何か”が心地よく体に染み渡っている感じがする。
その何かが、俺の身体を通して勝手に操っている。
……これが、精霊なのだろうか。
《《ただの人間》》である俺についているのだろうか。
『黄金の炎よ赫赫たれ』
操られたように、勝手に口が動いていた。
いつの日か、俺が魔物に襲われそうになった時に兄さんが助けてくれた魔法で、兄さんが一番得意だと言った魔法の名前を──
煌々と輝く炎が、父さんと母さんの周りに忽然と現れる。二人の周りの炎は、勢いを増しながら襲いかかっていく。絶え間なく燃えて、輝き続けている。
二人は自分の服を、破り脱ぐ勢いで体を掻きながら、踠いて叫び出したが、父さんの低く唸るような悲鳴も母さんの金切り声のような悲鳴も全く気にならなかった。
黄金の炎は俺が憧れ続けていた魔法以外の何物でもなく、兄さんそのもので、いつものように見惚れてしまった。
その魔法はこの世で一番、綺麗だと思った。