はじまり
アシル君と目が合った瞬間、はじめて「落ちていく」という感覚に包まれた。
22世紀になっても、私の通う高校は特殊だったため、週に1~2回、学校で直接授業を受けることができた。アシル君とは学校で出会った。
「アシル君、それ何?」
アシル君は静かに答えた。
「本だよ」
アシル君の声は不思議だ。
まるで周囲の音を押しのけて、私の心に直接響いてくるような不思議で心地よい声だ。
「え、その紙が?実際に見たの初めて」
「見てみる?」
「見たい!」
「どうぞ」
ページをめくると、思った以上に厚みがあって、ふわりと紙の感触が伝わってくる。
目で追っていくと文字の並びが妙に不規則で、私は思わず口にした。
「えぇー!すごい!でも、すっごく読みづらいしすぐ破けちゃいそうだね」
「そう。だから大切に扱ってるんだ」
「どこで見つけたの?」
「譲ってもらったんだ。知り合いから」
アシル君の声が少し低く響いた。
特別な物語を秘めた本なのかもしれないと思うと、アシル君が本を持つ姿が一層神秘的に魅力的に思えた。
アシル君は賢かった。
賢いという言葉で形容することすらも恐れ多いほど、天才だった。
「アシル君はなんでいつも本を読んでいるの?」
「本の良いところはね、時間と場所、立場を超越できるところなんだ」
「ちょう、えつ?」
「そう」
本についてもう少し聞きたかったけど、アシル君はそれ以上話さなかった。きっと私にはわからないだろうと察したのかもしれない。正直、私も理解できる自信はなかった。
「私も本を読まなきゃなあ。苦手なんだよね…もっと賢くなりたいな」
「本じゃなくてもいいと思うよ」
「え?」
「僕が本を読む1番の理由はね、自分の知らない自分に出会うためなんだ」
「どういうこと?」
「自分が言語化出来ずに霧散させてしまった言葉が、感情が、作品の中で言語化されている。その言葉にふれて、嗚呼、あの時の僕の感情はこれだったんだ。あの時僕が伝えるべき言葉はこれだったんだって知ることができる。そういうところが面白いんだ」
ムサンという言葉の意味はわからなかったが、アシル君の言いたいことはなんとなくわかった。
アシル君が私に伝わるように言葉を選んで伝えてくれるのも伝わっていた。
アシル君と私の間には、一生かけても埋まることがない差があるように思えた。
だけど、不思議と嫌じゃなかった。
アシル君は続けて言った。
「小説じゃなくてもいいと思うんだ。映画でも漫画でもアニメでも。色んな作品にふれて、自分の知らない自分に出会う。それが大事なんじゃないかな」
「あぁあ〜」
「ん?」
「なんだかアシル君と話してると今まですっごい損してた気分になる。でもそれと同じくらい賢くなった気がして嬉しいし楽しい!」
「そ?僕も佐藤さんと話すの、楽しいよ」
アシル君は少し目を細めて静かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、心がドキッと跳ねたように感じて、私は慌てて別の話題を探した。
「あぁそうだ。明日ね。AR介護実習があるんだ。めどくさいよね。人が人を介護するなんて時代遅れだし、勉強する必要あるのかな。もっとタメになること勉強したいよ。」
「タメになる勉強がしたい、か。昔ね、日本では誰もが行きたい大学に行って学びたいことを学んでたらしい。そして誰もが行きたい企業で働いていたんだって」
「そういう自由、いいなぁ。今の時代にはないよね」
そう言うと、アシル君は微笑みつつ、昔の話をしてくれた。
21世紀半ば、日本は労働減少に歯止めをかけるために移民政策を本格的に実行した。
結果、移民が労働市場に参入したことで、その土地の労働者との競争が激化し、賃金は減少し、失業率が増加した。
そのほかにも様々な問題が発生した。
なかでも治安の悪化が問題となった。
その背景から、日本では長らく移民排斥運動が盛んに行われてきた。
しかし、日本は島国であるため移民の排斥は困難を極めた。
21世紀後半には、劇的な技術革新と生産性の向上により、労働構造が根本的に変化した。
AIとロボットによる完全自動化が進み、多くの産業が人間の手を必要としなくなった結果、労働は希少な「特権」として一部の人々にしか許されなくなった。
一方、働く機会を持たない大多数の人々は「基本所得」プログラムにより、世帯に応じて一定の金額を受け取りながら生活を送ることとなった。
そんな話をしてくれた。
「今では労働は一部の人間の特権になってしまったもんね。その他の人々は限られたお金で、限られた生活をするのが当たり前。退屈だよね。それに労働が特権になってしまったせいで、今じゃ労働力と体裁のために受け入れた移民は、お荷物になってしまった」
アシル君は自虐するように笑った。
「そんなこと言わないで」
「事実だから良いんだ。統治単位が細切れになったせいで、多くの人たちはどこの機関が何の機能を担っているのか知らない。不満があってもぶつける先がわからない。余した不満は、移民、そしてその子孫たちへ」
「本当に、物騒だよね。みんな仲良く出来ないのかな。暇なんだよ、そういう人たちって」
「実際に排斥運動参加者たちのメンタルスコアを調べた面白いデータがあるんだ。どうだったと思う?」
「めっちゃスコア悪いと思う」
「逆だった」
「え?」
「むしろすこぶる健康状態だったんだ」
「え?ほんとに?なんで?」
「生き甲斐を見つけたから。敵の存在で活力を得たとも言える。労働の権利も病気や怪我も奪われた世界だからこそかな」
アシル君は続けて言った。
「なんだか日本って昔読んだ小説のパロディみたいな世界だ」
「パロディ?」
「伊藤計劃の『ハーモニー』かな。PSYCHO-PASS古いアニメの世界にも似てるな。どちらにせよとても味気ない」
「知らない作品ばっかりだ…」
アシル君は遠くを見つめた後言った。
「佐藤さんは『暇と退屈の倫理学』って本、読んだことある?」
「ないよ」
「その本ではね、こう書かれているんだ。『退屈の対義語は快楽ではなく興奮である』と」
「興奮?楽しいとか忙しいじゃなくて?」
「うん」
「そうなんだ。だから運動してる人たちは生き生きしちゃってるのか。なんだか物騒だな」
胸が少しだけざわついた。
「そういえばね。聞いた?物騒といえばなんだけど、うさぎの死体がね、校舎の裏にあったの。この間は住宅街には、猫のがあったの。見た人たちがみんなうつ病やPTSDになっちゃって、大騒ぎになったみたい」
「みたいだね」
「なんのためにわざわざ人の見えるところで。そんなことしたらメンタルスコアが悪化して、すぐにセンターに強制入院させられちゃうのに」
「どうかな?」
「え?」
「その行いに確たる信念があればメンタルスコアに影響はないはずだ」
「信念?そんなことに信念なんて持たないでほしいよ。なんでわざわざあんなこと」
話題を間違えた、と思った。どうにかして、話を切り替えようとしたそのとき、彼が答えた。
「啓蒙じゃないかな」
「けい、もう?」
翌日、弟がメディカルセンターに強制入院させられた。例の物騒な出来事の犯人は弟だった。
動機について弟はこう言ったらしい。
「啓蒙だ」と。
その瞬間、アシル君の言葉が刺さるように蘇り、彼の静かな笑みが頭に浮かんだ。