◇とりとめのないこと
わたしはわたしの文章が好きだ。
これはおそらく、わたしは自己陶酔の手段として文章を選んでいるのであって、思うに自分の文章をとっくり眺めて満足するのが好きなのだ。自分が自分の好きな文章を書いているので、後々読み返して「これは自分の好きな文章だな」と思うのは、稚拙さへの羞恥を抜きにすれば当然のことである。
いま、わたしは「徒花のト書き」という話と、「真夜中のパ・ド・ドゥ」という話について長い間考えているが──初めて書いたのが二年ほど前であるのにまだプロローグもいいところなのである。いるかもしれない読者には申し訳ない──、これは毎日その時のご飯のメニューをそらで考えるようなもので、いざ手をつけようと思うとつくる気力がなく、腐らない冷凍庫のなかで材料は眠っている。
冷蔵庫には、明日提出の課題や二十四時間という時限がいつも詰まっていて、こちらは冷凍庫にあるものより随分足が早いので消費せざるを得ないのだ。
わたしはわたしをすっかり開けてしまって、その自分を称賛されたくなってしまう。
そのために、嘘や偽り、架空の自分というものを騙ることができない。思っていないことは、やはり思っていないのだ。それはわたしではなく、そこには語れるような経験はない。
中身のない、ヘチマのスポンジのようなスカスカの、実というものがないものが言えないのだ。言えないというより、考えつかない。それはわたしではないからだ。
たとえば、英語のテストの問題で、「どこかに出かけたという文章を書きなさい」というものが出たとする。わたしはこれに、適当をやることができない。
図書館程度には行くので、たとえ昨日そこに行っていなくとも、「I went to the library yesterday.」と書くくらいはできる。じっさい、わたしはそこに行けるからだ。図書館に行くことは身近な実経験である。
しかし、それ以上の修飾はできない。なぜなら、やはりわたしは昨日図書館に行っていないからだ。その「図書館に行った昨日」には、前後の出来事が存在しない。あくまで図書館に行ったという、ただそれだけなのである。