◇わたしと読み物と取捨選択と傷と
◇別サイトから転載
わたしは、十数年のほとんどで趣味を読書と言ってはばからなかった。
趣味と言えば読書で、他になにか挙げろと言われるとほんとうに困ってしまう。
わたしという人間に、とにかく文章を読むという行為がこびりついているからだ。
ツイッターとか、ネット小説とか、とにかく自分が面白いと感じる文章を読むということ。
この行為を説明するのに、過去かなりの時間本を読み漁っていたという実績によって、読書が趣味だと端的に出力されてしまうのである。
いまは前述のようにスマホでツイッターやネット小説ばかりを読んで、紙の本は未読のまま山の高さを変えていくくらいなものだから、それで読書が趣味だと言うのは間違っている気がするのだが、やはり他に思い浮かぶことも無いのだ。
でも、最近自分というものの輪郭を、わたし自身がまったくと言っていいほどに知らないのだと思うようになった。
わたしは読書が──もっと言えば、物語が好きだ。しかし、ハッピーエンドしか読めない。びっくりするくらい読めない。バッドエンドも、自分が好きな登場人物が貶しめられたりするものも。
傷つくのだ。かなしくて、かなしくて。心に傷がつく。胸の奥が重く感じる。ふとした折に思い出してしまっては、気分が沈み、すこし苦しくなる。
なぜか、自分は雑食だと思っていた。ネタバレも気にしないし、基本的になんでもおいしく食べられるのだと思っていた。
しかし、よく考えたら実際の食事についても口に出したら好き嫌いが思っていた以上に多い。
どうやらわたしは読書においても雑食ではまったくないし、合わない作品を読むとそこそこ繊細に傷つくようである。ネタバレも気にしないわけではなく、自分がそれを読んだらどうなるかということを把握していなかっただけのようだった。
かなしいのだ。とにかく、かなしい。
ああ、読まなければこんな気持ちには、と思うのに、読んでしまった過去はなかったことにはならないし、これまたかなしいことに読まない人と比べればそこそこ読んだ内容を覚えているほうなので、強烈であればあるほど強く頭に残りまくってしまう。
リフレイン、リフレイン、リフレイン。
そのたびに気持ちが沈んで胸の奥が重くなるのだから、やっていられない。
あらすじを読んで取捨選択しなければやっていられない。
そう悟ったはいいものの、スマホでの読み物はそのあらすじが無いものもかなりあるのだから、これからも度々失敗しては傷つくことになるのだろう。たすかりたい。