2、2023年11月1日(火)①
黒崎初音は酷い頭痛で目を覚ました。
目の裏からこめかみ、後頭部を一気に押さえつけられるようないつもの痛み。眠ったまま握りしめていたスマホを傾けると、ブルーライトが目をこじ開けるように入ってくる。片目は閉じて、半開きのもう片方の目で時間を確認する。5時52分。
(最悪やあ。あと8分寝ときたかった)
アラームが鳴るまで……と、再び目を閉じてみるけれどやはり頭痛には勝てなかった。
(雨が降るんか……)
初音の偏頭痛は天気予報より格段に精度が高い。晴れていても、全国的に晴天だと言われても、彼女の頭が痛ければ必ず雨は降る。
意を決して起き上がろうとすると、お腹のあたりで丸くなっていた猫次郎が「ぐうう……」と不快そうな声を漏らす。
短毛の白猫。幸せを引っかけてくると言われるグレーのしましまカギしっぽが可愛い。知り合いの家の庭の隅に、野良猫が産み落とした5匹の内の1匹。放っておけず、初音が里親っとなったのが2年前。初音はこの「幸せのカギしっぽ」をことのほか気に入っていた。
「はいはい、ごめんなさいよー」
不貞寝のように再び丸くなる猫次郎に気を使いながら、布団をめくり起き上がる。初音だって起きたくはないのだろうが、薬を飲まないことにはどうにもならないほど頭が痛かった。
そもそも、もう起きなければならない。
学校現場の朝は早くて辛い。
「ん?」
初音の視野の端に、不吉なものが入り込んだ。
(ああ……)
オフホワイトの玄関マットに乗っているのは、綺麗に畳まれた洋服。初音が昨日着ていたものだ。
深夜一時前まで駅近くのチェーン店居酒屋で5人で飲んでいた事は覚えていた。
割り勘で会計を済ませ「また明後日」と手を振ってタクシーに乗ったのも覚えている。
運転手と父の名前が同じだった事から話が盛り上がり、メーターを早めに止めてくれると言う嬉しいサービスを受けた。ここまで初音ははっきり覚えている。
しかし、玄関に鍵を差し込んだ所から全く記憶がない。
お風呂にも入っているようだし、パジャマも着ている。
不思議なのは、元々着ていた洋服を丁寧に畳んで玄関マットに綺麗に乗せている事だ。
酔うとこういうことがたまにある。
またやってしまったらしい。
服を拾い上げると、ビールでも溢してしまったのか薄っすらとシミがあった。
適当に洗濯機に放り込み、今となっては偏頭痛なのか二日酔いなのかわからない痛みを抑えるためにいつもの鎮痛剤を2錠、昨日沸かしておいた麦茶で飲み込む。
初音は、水があまり好きではなかった。服薬の際は麦茶かジュースか、ビールの時もある。
学校へ行くと言っても、初音は教師ではない。
もちろん学生でも、事務職員でもなんでもない。
彼女は舞台役者だ。
先輩役者や演出家達と、学校の授業で演劇的手法を使ったワークショップや、文化祭の演劇指導をやる。外部講師というところだ。
初音はこの仕事をとても楽しんでいた。
ギャラもいい。
ただ朝が早い。学校現場に入ることは、この一点のみ彼女に苦痛を与えていた。
子ども相手なので化粧はほぼしない。
ヘアスプレーも、ましてや香水なんてものは一切つけない。
音に敏感な子は多いように思うが、学年に1人は匂いに酷く敏感な子がいる。そこにも気をかけるのが彼女なりのプロ意識だった。
しかし、眉毛だけは書き足す。
子どもは必ず「なんで眉毛ないん?」と聞いてくる。
いや、ある。初音にも眉毛はあるのだが薄い。
そんな説明を子供相手に必死にするのも大人げないと、申し訳程度に眉メイクを済ます。
6時12分。
猫次郎が餌置き場の前でお行儀良く座り、初音に睨みをきかせている。
ここK市はヤンチャな者が多い。人間だけでなく猫もヤンチャだ。肩で風を切って歩くと言うか、ガニ股でよたって歩くと言うか、みんなイキってる感じがする。そう初音は日ごろから思っていた。
「ママぁ、ご飯ちょうだいにゃん」
と可愛くおねだりしていると信じたいが、
「おい、早く飯出せちゃコラ」
と言っているとしか思えない。
カラカラカランと軽い音を立て、白い陶器製のお皿にキャットフードを入れてあげると、グフグフと唸ってるのか喜んでるのか、謎なうめき声を上げながらカリカリと美味しそうに食べる。
一方、初音の朝ごはんは、昨日コンビニで買っておいたおにぎりにインスタントのコーヒー。
それとスナック菓子。
朝からスナック菓子を食べても太らない、これはハードな舞台役者業のなせる技。そう彼女は思っている。
それに今日のお昼は給食だ。
栄養バランスはそこで保たれる。これは初音の皮算用。
朝の情報番組は、
俳優の何某が誰々とダブル不倫の末、離婚。
某国の密漁船がナントカカントカで座礁。
私立中学校でイジメによる自殺未遂の続報。
来週公開のサスペンスホラー映画の宣伝。
コメンテーターは皆同じ顔で同じような意見を言っている。
そんなに興味があるわけではないニュースだけど気が滅入る。
滅入るめいるメイル。
「ん」
頭痛が治っていることに気づく。
6時50分。
あんなに早起きしたのに慌てて玄関を出る。
「おっと」
スマホ忘れたことに気づく。
エレベーターのボタンを押したが、家に取りに帰って再びエレベーターのボタンを押すと、空のエレベーターはちゃんと初音を待っていてくれた。
どうやら誰も使わなかったみたいだ。
「ラッキー」
こういう小さなラッキーは多い。
小さなラッキーが多過ぎて大きなラッキーに見放されているのではと、初音は不安に思うことがあるほどだ。
そんなプチラッキー初音は、ダークメタリックグレーのBRZに今日も颯爽と乗り込む。意を決し買った愛車だ。
「さあ、今日も安全運転で参りましょう」
向かうは、こちらから海を挟んだ半島のあちら側に架かる赤い橋に、高速道路からそのまま乗り換える。
開通当時は東洋一の長さを誇る超大吊り橋だったらしいこの赤い橋は、このK市の象徴とも言える。
朝日で水面が光っているこの時間を、初音はとても好きだった。小さな渡船が行き交うのも見える。渡船も赤い橋も、通学や通勤に使う地元民にとって、なくてはならない存在だ。
(あの渡船に、幼い頃に父と乗った事がある……と思う)
ちょっと昔過ぎて記憶が曖昧だと、苦笑いする。
初音は生まれてこの方、ずっとK市にいる。
普通の公立小学校を出て、
隣町の私立中学校を出て、
まあまあ普通の県立高校を出た。
舞台の仕事をやりだして都会に出るチャンスもあったし、都会の大きな仕事の声がかかったこともあるが、初音はK市から出ることはなかった。
(好きなのかな、このK市が。こんな荒くれ者の多い街が? こんな都会ぶってる田舎が?)
自分でもわからないのだが、初音はどうしてもこの街を出る気が起きなかった。
赤い橋を渡り終えると、目的地はすぐそこだ。