1、2007年9月16日(日)
少しづつゆっくり書いていきます。
少女は泣いていない。
ここにいるすべての大人が、純白のハンカチで目元を覆い悲しみの淵に立っているであろうと言うのに、少女の瞳はうるんでもいない。
少女は悲しんでいるのだろうか。
「かわいそうに……」
「お母さんは何年前やったったかね?」
「6年前っちゃ。この前夏休みの終わりに七回忌したばっかりよ」
「これからどうするとか聞いた? あの子」
少女は2歳の時に母親をすい臓癌で亡くしていた。その事を少女は理解しているのだろうか。幼過ぎて記憶に無いのだろうか。「母」という存在もぬくもりもわからないのかもしれない。
それから少女は、祖母が母親代わりで父親と三人で暮らしていた。裕福ではないが三人で静かに。
そして8日前。少女が小学二年生の秋。新学期が始まったばかりの9月8日。父親が他界した。
事故で。
「顔見た?」
「いやいやいや。開けんほうがいいやろ。見きらん見きらん」
少女の父親の告別式。
突然の事故。
「自分が死んでどうするんかねえ。あんな小さい子残して」
「その助けた人は無事やったんやろ?それだけが救いやね」
「黒崎さんらしいですよね。正義感って言うか」
「らしいっちゃらしいけど……。ご遺体、見れん程らしいやん。かわいそうやんあの子が」
父親の行動を称賛する声と、少女を思ってだろうか、憤りの声があちこちから聞こえる。身をかがめ周りに気を使いヒソヒソと話しているのだろうけれど、こういう声に限ってきちんと聞き取れるから人間の耳は不思議だ。
「馬鹿やないん?」
少女の口から微かに放たれた言葉は、大人たちには届かない。この小さな体から産み落とされた行き場のない感情は悲しみ? 怒り? 呆れ? 比喩ではなく本当に血が通っていないのではと思われるほど冷たく小さく。
少女は爪の跡がつくほど強く握っていた小さなこぶしを、ほんの少し緩めた。心配して遠巻きにこちらをちらちら見ている叔母たちに気づいたのだろう。
棺はきちんと閉まっている。誰も、その小さな窓を開けて最後の別れをしようとしない。少女の祖母ですら傍らに立って嗚咽しているだけだ。
それほど悲惨な事故現場だったらしいと、大人たちは噂している。あくまで噂だ。
少女は遺影を見ていた。
写真に写りたがらない父親だったのだろう。丁度よい写真が残っておらず、端の方で変なポーズに写っていた写真を、葬儀社の人が綺麗に見栄え良く作り変えてくれたようだ。髪を加工し、スーツをコラージュし。
「みんないなくなる……」
誰に言うとなく、少女の口から溢れた。
「ぼくはいなくならんよ」
少女の隣に立っていたのは、中学生だろうか。まだ真新しい大きな学ランには幼さがあるのに、ホコリひとつ付いていないシルバーフレームの眼鏡をかけた色白の横顔は、神経質のそれそのものだ。
そのアンバランスさを感じさせる少年も同じく遺影を見ていた。
「ぼくは、いなくならんよ」
もう一度、ゆっくりと、とても大切なことを言うように繰り返すと、その少年は左手を差し出した。
少女よりはだいぶん大きな色白の手。
「一緒におじちゃんにお別れを言おう」
大人たちに『見ない方がいい』と言われていたせいか、少女は微動だにできない。
が、遺影を見つめたままの少年に手を取られやんわりと引っ張られる。
「大丈夫、ぼくと一緒に行こう」
その神経質そうな横顔からは想像もつかないほどの温かな彼の手に導かれ、少女はゆっくりと歩きだした。握られたそこから、急激に血液を流し込まれたかのように。