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Record6. 空中サーカスの奇術師(後編)

「今のは……シャルロッテの記憶?」

 私の記憶はクウガたちにも見えていたらしい。教会の孤児たちが、まるでモルモットのように受けた実験の数々を目の当たりにし、皆、複雑そうな面持ちだった。だが、見られて困るような過去ではない。

「それで? 私の記憶をご丁寧に回想して、なにがわかった? 私の記憶は、受けた理不尽に対する憎しみに溢れていたか?」

 わかっているはずだ。あの頃、私の胸を占めていたのはメフィスト、ぬしのことばかりだと。

「あの過去がなければ、今の私はいない。第一、過去は変えられん。いつだって、変えられるのは未来だけだ」

「……きみは変わらないね。本当に……あっさりその状況を受け入れて、前を向いてしまう。わかっていたんだ。きみは私のように、過去ばかり振り返る女の子じゃないってね」

 切なげに肩を窄めて笑うメフィスト。だからひとりで行ったのだと、そう暗に匂わせている。

「私は自分が生まれた意味をずっと考えていた。でもね、いくら考えても、どうして自分だけが捨てられ、怪物にまで身を堕とさなければいけなかったのかがわからなかったんだよ。それは他の怪物たちもそうだ。大切なものを奪われた憎しみ、怒り、悲しみ、欲しくても手に入らないものを渇望する欲望……それに抗うのは苦しい。ならばいっそ、内なる怪物に身を委ね、思いのままに暴れさせてあげたい。楽にしてあげたいと、そう思うようになった」

 メフィストの目尻に浮かんでいた涙の粒が、頬を伝って流れていく。

「ぬしのその涙は、自分のための涙であろう。ぬしは他の怪物に自分を重ねているだけではないのか? だから加担しようとする。そして、いつも揺れている。自分と同じ怪物に堕ちてほしい、けれど……自分と同じ道を辿らないでほしい。ぬしのその自己中心的な考えは、いかにも人間らしいではないか」

「きみは本当に……言葉を飾らないね」

「そんなこと、今に始まったことではないであろう。メフィスト、ぬしは本当にあべこべだな。私は変わらないと言いながら、変わってしまったとも思っておる。『変わらない私』も『変わってしまった私』も責めながら、『変わらないでくれ』『変わってほしい』とも願っておる。まったく、素直じゃない」

 いい意味でも悪い意味でも変わっていないのは、どちらかというとメフィストのほうだ。

「そうかもしれない。自分と重ねてしまうからこそ……私はこちら側にいるんだよ。そもそもの悪は自らを普通と勘違いしている人間のほうだ。このままでは怪物に未来はない。怪物たちが誰に怯えることなく、自分らしく生きていくためには、人間と怪物の力関係を反転させることが大事なんだ」

「それがぬしの辿り着いた答えか」

「そうだよ。これは、その予行練習みたいなものだ」

 そう言って、メフィストは舞台に視線を移す。

 散々自分たちを調教し、見世物のように笑った人間たちは、いざ立場が変わると慌てふためく。その姿を目の当たりにし、人間は自分たちよりも劣る弱い生き物だと考えたのだろう。怪物たちは鞭を手に、ギロチンのレバーに手をかけ、虐げる側に回っていた。

 死から逃れるため、檻の中の富豪たちは、『こいつから先に殺してくれ』『金ならいくらでも払う! だから俺だけは助けてくれ!』と、互いを差し出し合っている。

「人間は醜い。ああして無様に蹴落とし合う人間を見て、怪物たちは目を覚ますんだ。あんな脆弱な生き物に依存していた自分が愚かだったと。そして、逆に人間を虐げるようになる。弱肉強食、世界の摂理がひっくり返る。これは、怪物たちの創世記の始まりなんだよ」

 ああ、こうして再会できたというのに、私たちの道はいつまでも交わらない。

 メフィストは再び、私に向き直る。

「シャルロッテ、きみは私の話を聞いても、アビス患者だけでなく、人間の味方でい続けるの? シャルロッテは私と同じ怪物なのか、人間なのか……」

「何度問われても答えは変わらん。私はどちらでもあり、どちらでもない」

「そう言うと思ってたよ」

 苦笑いしたメフィストは身を翻し、歩き出す。その肩に乗っているカラスをちらりと見て、「きみは挨拶していくかい?」と声をかけた。カラスはじっとメフィストを見つめ、その肩から飛び立つ。

「また、闇の中をひとりで歩いていくつもりか、メフィスト!」

 遠ざかる背にそう声をかけるが、メフィストは足を止めずに暗闇に消えていく。

 逃がしてなるものか。やっと会えたのだ。今度こそひとりにしない。

 心の中で強く膨らむ感情に突き動かされて、私はメフィストを追いかけた。

 

   ***


「シャルロッテ!」

 俺の声も聞こえていないのか、迷わずメフィスト追いかけていったシャルロッテの背中を呆然と見送る。

 いつも人のことを可愛い弟子だとか言うくせに、メフィストと話している間、シャルロッテはメフィストしか見ていなかった。

「俺はシャルロッテの過去も今知ったばかりだってのに、シャルロッテの昔の男まで出てくるとはな。妬けるぜ、ったく」

 ジーク刑事は腕を組み、努めて明るく言っているが、シャルロッテとの付き合いが俺よりも長いだけに、なにも聞かされていなかったのは堪えているようだった。

『クウガ、どうしますか? いいえ、どうしたいですか?』

「先輩……どうするって……どうしたいって……わからないです。シャルロッテにとって、メフィストが特別なのは、ずっと前からわかってた。俺がシルクハットを持って、店を訪ねたときから。そんな相手と、やっと会えたんだ。俺が引き止めるのも……おかしいだろ」

『どうして、引き止めたかったんですか』

「それは……」

 どうしてだろう。自分がアビス患者になったのをきっかけに、俺はアビスについて知りたいと思うようになった。家族のために自分を犠牲にしてきたつもりはなかったが、シャルロッテに自分の幸せを願ってもいいのだとそう言われてから、自分の人生を歩めるようになったんだ。

 自己犠牲的なところでいえば、シャルロッテも同じだ。普段は飄々としているくせに、アビス患者のためとなると、感情的になる。シャルロッテの過去を知って、そんなあいつをよりいっそう危ういと思った。俺が見てないとって、勝手な庇護欲まで抱いて。

 シャルロッテがアビス患者に肩入れするのは、自分の世界そのものだった大切な男が怪物になったからだ。その感情が恋ならば、シャルロッテを止めるなんてことはできなかった。

 おそらく俺も、自分を解放してくれたシャルロッテには恩義以上の感情を抱いている。家族以外で初めて守りたいと思った。それが恋であることもなんとなく気づいているが、それ以上にひとりの人間として尊敬している。それをすべて、ひっくるめて言うのなら……。

「きっと、浮ついたそれとは違うけど、俺にとってもシャルロッテは特別で、愛してる……んだと思う」

 それを聞いたウルフくんは、『そうですか』と嬉しそうに尻尾を揺らした。

『弟子というのは、意思を持ちつつも、その根本を主と共有する。主がなにをしようと付き従う。私の考える助手とは、そういうものなのです』

「じゃあ、やっぱり俺は……ここでシャルロッテを待つべきなんですよね」

『これまで、弟子としてシャルロッテ様の意思を汲むように教えてきました。それに従うのは、かつて私を救ってくれたシャルロッテ様を主として慕い、守ると決めた私のスタンスだからなのです。ですがそれを弟子見習いだからといって、あなたに押しつける気はありません。あなたの考える助手の在り方を見つけてほしいと思っています』

「助手の在り方……」

 俺はシャルロッテをどう支えていけばいいのか。先輩みたいに付き従うことは、俺にはできない。おそらく俺は、傷つくとわかっていて危険に身を投じるシャルロッテを見守るなんてことはできないんだ。

「クウガ、難しく考えんな。お前はシャルロッテと、どういう関係になることを望んでんだ? 相棒の形は、ごまんとある」

「俺が望むシャルロッテとの関係……」

 大切な家族を失い、悪は悪でしか裁けないと、闇の中を歩むことを決めた相棒のユーシスさん。そんな相棒を初めは理解できなかったジーク刑事。真逆の正義を抱いているふたりだったけど……。

『お前は闇の中を行くって決めちまった。なら俺は、お前が殺す前に犯人をとっ捕まえてやる』

 ジーク刑事はそんなユーシスさんの考えを受け止め、それでいて自分の正義に従ってユーシスさんよりも先に事件を解決することを決めた。優しいユーシスさんが誰かを手にかけることのないように。

「そうか……俺はシャルロッテのやってることも、先輩のスタンスも理解してるけど、それに全部従えるわけじゃない。俺は俺の意思を、守り方を変えられない。それでいいのか……」

 胸のつかえが、すっと取れた気がした。

「シャルロッテはひとりにすると、なにしでかすかわからないし、片付けもできなければ、財布の管理もひとりでできない。実は自分のほうが大人ぶってることにも気づいてないし、俺がついてないと」

「くっ、確かにな。自分がイイ女だってことにも気づいてねえし?」

「はは、ジーク刑事はそればっかですね。とにかく、俺が見てないとって、そう思うんです」

 だから、シャルロッテがどんな選択をして、そこへ突っ走っていくのだとしても、そばにいる。

『クウガ、私は狼です。人と狼の寿命は、あまりにも違いすぎる。いつか……置いていかれることを誰よりも恐れているシャルロッテ様を、ひとりにしてしまいます』

「先輩……」

『だからこそ、自分がいなくなったときのことを、ずっと恐ろしく思っていましたが……クウガ、あなたが来てくれた、あなたがいてくれて、本当によかったと心の底から思います』

「……っ、先輩の気がかりが少しでも軽くなるように、俺、見習いを卒業できるように頑張るんで。だから、安心してください、先輩」

 はっきりとそう答えて、俺はシャルロッテが消えた方角へ足を向けた。そのとき、一羽のカラスが天井から降りてきた。それは羽根の嵐を起こしながら、人型へと変わる。

「ユーシス!」

 現れたのはジーク刑事の相棒、ユーシス・ウォルクだった。

「ジーク、久しぶりだな。それから、きみたちも……あのときは、巻き込んですまなかった」

 穏やかな笑みを浮かべるユーシスさんは、自然に俺たちに溶け込んでいる。

「どうりで見覚えのあるカラスが肩に乗ってると思ったぜ。メフィストは、お前の新しい相棒か?」

 前にシャルロッテが言ってた新しい相棒っていうのは、ユーシスさんのことだったらしい。

「ああ。けど……メフィストは今、自分と虐げられる怪物たちを重ねすぎている。自分の考えが怪物たちの考えだと信じ切っているんだ。そうして、自分が代わりに人間への粛清を行うことで、自分が怪物たちを守っていると、そう思い込んでいる」

「自分が怪物である意味を……探してるんだな。俺も、シャルロッテに言われてからずっと考えてる。怪物でいていいんだと、その自分を愛してやれって。だから、どうしたら、こんな自分を大切にできるだろう、好きになれるだろうって」

「そう、メフィストにとっても、僕にとっても、それは怪物たちを守ることなんだよ。普通から逸脱した存在なのに、誰よりも正しく在りたいと願っている。矛盾しているけどね」

 ユーシスさんは肩を竦めて、苦笑した。

「ユーシス、お前は今回のメフィストの意思には賛同できねえんだろ。だから、ここに残った。なにか、考えがあんのか?」

「……僕にできるのは、道案内だけだ。メフィストのところまで、クウガくんを連れていく。そこに、シャルロッテさんもいるはずだ」

「なるほど。俺とバウルは留守番ってわけか」

 ジーク刑事は舞台に目を向けながら言う。

「まあ、俺もそのつもりだった。ここに残って、馬鹿な真似をしてやがる人間と、アビス患者を止めねえとならねえ」

「クウガくんを案内したあと、僕も手伝うよ」

「おう、待ってる。だから行ってこい、クウガ。俺たちのシャルロッテを連れて帰ってこねえと、承知しねえぞ」

 にやりと口端を上げるジーク刑事。先輩もこくりと頷いて見せ、ふたりは舞台の方へと向かっていく。

「行けるかい、クウガくん」

 そう言って、ユーシスさんはカラスに戻る。

「はい!」

 行き先は違っても、俺たちの果たすべき目的は同じ。

 俺は飛び立つカラスのあとを追って、駆け出した。

 

   ***


 メフィストのあとを追い、闇の中を進んでいると、目の前にヴァイオレットカラーの扉が現れた。

 ここはメフィストが作り出した異空間だ。やつが用意したものなのか、それとも私の見る力がこの異空間に干渉して起きた事象なのかはわからんが、あやつに繋がっていることには違いはない。進むしかないのだろう。

 私は黒いドアノブに手をかけ、迷わず回した。開け放ったドアから光が溢れ、目を細めながら中へと足を踏み入れる。

「ほう……おとぎの国の城か」

 塔の屋根はインディゴに統一され、壁は太陽の光を反射するホワイト。森と川に囲まれた、城の芝生広場に私は立っていた。

『王家の恥知らず、だってさ』

 声の主を振り返れば、木陰に銀髪の少年がふたり座っている。六歳くらいだろうか、どちらもメフィストと同じ顔なのだが、片方は若干透けていた。

『俺みたいなやつを、世間ではイマジナリーフレンドって言うらしいぞ』

 イマジナリーフレンドは読書をしているメフィストの手元を覗き込み、からかうように言う。

『……あの人たちは、きみが見える僕を気味悪がってる。世間では、僕のような人間をキャリアっていうらしいね』

 メフィストは本から目を離さず、淡々と答えた。

 ここはメフィストの記憶か。メフィストは、私の記憶を幻覚で再現した。十二月二十五日に閉じ込められた町で、同じ日を繰り返しているかのように、私たちに錯覚させた力だ。

 メフィストにはおそらく、記憶を読み取る力と幻覚を操る力がある。つまり、この記憶を私に見せているのは、メフィストだ。ならば、ぬしが私になにを知ってほしいのか、見届けようではないか。

『メフィスト、俺を誰だと思ってる。そんなふうに興味なさそうなふりをしていても、お前の気持ちは手に取るようにわかるぞ。本当はありのままの自分を受け入れてほしいんだろ? だから、無条件の愛ばかり謳う絵本の世界に逃げてる』

 メフィストは図星を指されたからか、黙り込んで、静かに絵本を閉じた。

『あの人たちにも、きみが見えたらいいのに……』

『そうすれば、お前が嘘つきの変人じゃないってわかるって? そうは思えないけど、やってみるか?』

 そうしてメフィストは、イマジナリーフレンドをミアズマで縁取り、可視化する練習を始めた。その過程で、ミアズマを纏ったイマジナリーフレンドが棚に腰をぶつける場面があった。そのとき、並んでいた本が落ちたことから、メフィストは着想を得たようだ。

『ミアズマの密度を濃くすると、見えるだけじゃなくて、実体化もできるのか……』

 メフィストはミアズマの密度をあげ、それに少しずつ色をつけられるようになり、数か月で表情も自由に表現できるようになっていた。

 ミアズマをあそこまで繊細に操るとは、メフィストはこのときから特別だったようだな。

 幼いメフィストを見つめていると、シャッターを切るように場面が変わった。

『あの、会わせたい人がいるんだ』

 夕食の時間、リフェクトリーテーブルについていた家族に、メフィストは思いきって切り出した。両親と、同い年の顔の似ていない弟は、ぴたりと食事の手を止める。

 水を打ったように静まり返る食卓で、メフィストは指にミアズマを巻きつけると、巧みに操り、イマジナリーフレンドを具現化した。案の定――。

『きゃ、きゃあああああっ』

『同じ顔がっ、どこから現れた! この怪物!』

 椅子から転げ落ち、メフィストをなじる両親、泣きだしてしまう弟。そこで初めて、メフィストは自分が間違ったのだと悟った様子だった。

 こんなものを見せてどうなるかも予測できないほど、メフィストも子供だった……ということだ。

 イマジナリーフレンドがメフィストを振り向き、やれやれと言わんばかりに手のひらを上に向け、首を横に振る。

『これでわかっただろ? こいつらに俺を見せて、お前の言ってることが本当だってわかっても、意味ないんだよ。むしろ、余計にお前を怖がる』

 唇を引き結んで俯いていたメフィストは、ついに耐え切れなくなり、その場から逃げ出した。

『あなた、あの子をどうにかしてください! このままじゃ、私の子が危険です!』

 その場に残っていた母親が、メフィストの弟を抱きしめながら発狂する。父親は苛立たしげに「わかっている!」と声を荒げ、ズボンの埃を払いながら立ち上がった。

『あれは王族の汚点になる。早々に処分すべきだな』

『だから言ったのよ! 使用人の妾の子供なんて面倒みるべきじゃないって!』

『喚かないでくれ! 仕方ないだろう、あの女が身を引く代わりに、俺の子として育てることを要求してきたんだ! 従わなければ、事実を明るみにすると脅されていたんだぞ!』

『あの妾は去年、流行り病で亡くなったわ! もう、律義に約束なんて守る義理はないわ! どうにか、あの子を処分できないの?』

『そうはいうが……今から子供を捨てるなんて、体裁が悪いにもほどがある』

『見つからない場所に追いやるのよ。例えば……そうよ。こんな話を聞いたことがあるわ。アビス患者の実験をしている施設が、この町の辺境にあるって。そこから出てきた子供は、ひとりもいないそうね』

『……! それはいい考えだ。あの教会は、アビスの研究を秘密裏に行っている施設。公にはできないが、国がその存在を認めている。そこで体よく死んでくれれば……』

 悪い笑みを交わす両親を、弟が嬉しげに見上げている。

『お兄ちゃん、いなくなるの? やった! 僕、ずっと怖かったんだ。〝あんな怪物〟が家にいるなんて』

 彼らは知らない。息子であり、兄弟のメフィストの処分を企む家族の会話を、イマジナリーフレンドが聞いていたことを。それをイマジナリーフレンドから聞いたメフィストが――。

『そう……僕は、不要物なんだね』

 ベッドで膝を抱え、どれほど絶望したのかを。

 パシャリと、再び景色が変わる。今度は、ガタガタと舗装されていない道を走る馬車の中だった。

 私は車窓の向こうに見える城を、遠い目で眺めているメフィストの隣に座っていた。

『……ぼ、坊ちゃま? もう少しで教会に着きますよ。今日はそこにいる孤児たちに施しをなさってください』

 向かいにいる執事が話しかけても、メフィストは返事をしない。それを不審がってか、執事は『坊ちゃま?』と再び声をかける。

『……僕はモルモットにされるんでしょう? これから行く教会は、アビスの研究を秘密裏にしてる施設だそうだね』

『えっ、いや、そんなことは……っ』

『いいよ、全部わかってるから』

 気まずそうに視線を逸らした執事は、それっきりなにも言わなかった。否、なにも言えなかったのだろう。

 教会につくと、執事はメフィストを見送ることなく、逃げるように馬車で去っていった。

 メフィストは地下にある、ベッドが一定間隔で並び置かれた白い部屋に閉じ込められた。そこには、自分よりも三つ、四つほど年下の子供たちがおり、誰ひとりとして言葉を話せなかった。

 メフィストが教会に入って数日後、遅れて三歳になる私がやってきた。三歳になるというのに、私は言葉をほとんど知らなかった。そういう子供は、ここでは珍しくない。メフィストは誰が増えようが、特に興味なさげにベッドで絵本を読んでいた。

『あう、あう』

 よたよたと近づいてくる足音が聞こえ、メフィストが本から顔を上げる。

 私がイマジナリーフレンドを不思議そうに見つめているのに気づき、メフィストは目を見張った。

『あー、だ、れ?』

 たどたどしい単語を口にした私に、メフィストはくしゃりと顔を歪める。

『見えるの……? 僕の友達が』

 不思議そうに首を傾げる私に、メフィストは大切なものでも見つめるような眼差しを向ける。

 ――この子は、特別な女の子だ。

 そんなメフィストの心の声が聴こえてきた。

 気づけばそばにいたメフィスト。幼すぎて霞んでしまっていた記憶が鮮明になっていく。

 そうだ、私たちの出会いは、こんなだったな……。

『特別なら、名前でもつけてやれよ。ここは、人を囚人みたいに番号で呼ぶだろ?』

 イマジナリーフレンドにそう言われたメフィストは、『そうだね……』と言い、初めて笑みを見せる。

『じゃあ、シャルロッテ……とかどうかな』

『なんでまた、それ異国の本の主人公だろ? それも、とある青年が婚約者のいる女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いているっていう、辛気臭い物語の』

『辛気臭いというのは語弊があるよ。破滅するほどの恋なんて、美しいじゃないか』

 そう言って、メフィストはベッドに手をついて自分を見上げる、幼い私に向き直る。

『きみは今日からシャルロッテだ。僕はメフィスト・アンバー……いや、ただのメフィストだ』

 ラストネームを口にしなかったのは、王族である自分を捨てたからだろう。

 私をシャルロッテというひとりの人間にしてくれたのは、メフィストだった。

 それから、メフィストは私に言葉を教えてくれた。教材が絵本だったからか……。

『わるいまほうで、おまえ、のろってやる! ……これで、あってるか? メフィスト』

『シャルロッテ……魔女の口調をそのまま覚えてしまったんだね』

 苦笑いしているメフィストに、幼い私は小首を傾げている。

『お姫様だっているのに、どうして魔女なの?』

『……? だって魔女は、どうぶつとか、いろんなものと話せる。わたしも、話せる』

『そうか……きみも………』

 ――人と違う僕は不要物だ。でも、この子も人と違う。なのに、僕と同じ不要なものとは思えない。少なくとも僕にとっては……大切な小さな魔女だ。

 メフィストの心が流れ込んでくるたび、どんなふうに私を見ていてくれたのかがわかる。

 私だけではなかったのだな。メフィストにとっても、私は心の支えだった。

 そうして幼い私と過ごしているうちに、メフィストのイマジナリーフレンドは消えていた。ひとりぼっちではなくなったからだろう。酷く残酷な現実に、居場所を見つけたのだ。

『メフィスト、外には町があって、海があって、私たち以外にも人がいるのだろう?』

 私が五、六歳になった頃、私はメフィストが聞かせてくれる外の世界の話に興味津々だった。

『興味があるの?』

 メフィストは読みかけの本を閉じ、ベッドに並んで座る私を振り向く。こくりと頷く私に、メフィストは複雑そうな笑みを浮かべていた。

『きみが焦がれるほど……いや、そんなに見たいなら、見せてあげる』

 言葉を飲み込み、メフィストは幻覚で春の花々に夏の海、秋の紅葉に冬の雪景色を見せてくれる。

 ――本当は、そんなふうにきみが目を輝かせるほど、いい世界ではないんだ。でも、ここにいる以上、待っているのは死だ。だから、残酷な現実なんて知らなくていい。きみは僕を初めて必要としてくれた存在。僕の価値を認めてくれた、救ってくれたきみを、守ってあげる。

 メフィストは私を守ることに、自分の存在意義を見出したのだな。だが、あの施設にいれば、残酷な現実は嫌でも目に入る。


『五番、擬態化成功です!』

 毒の痛みに耐えられず、苦痛を自分に与える人間たちへの憎しみが膨れ上がり、メフィストはアビスを完全に発症した。その憎悪は、人の形を変えてしまうほどだった。

 ――終わりがきてしまった。

 闇の中で、メフィストはどこか他人事のようにそう思う。いつだって、そうだった。痛みを感じな愛ために、感情を自分から切り離す。そう、まるで本の世界の出来事のように。

 メフィストの感情が、思いが、私のもののように感じられる。

 ――このまま怪物になったら、あの子を愛した心も失ってしまうのだろうか。感情なんて捨ててしまえた方が楽だと思っていたのに、こんな残酷な場所で手に入れてしまった想いが、惜しくて惜しくてたまらない。

 私が泣いたのか、メフィストが泣いたのか、胸が詰まって、涙がひとしずく頬を伝う。

 メフィストが闇に呑まれたあと、しばらく自我は眠っていた。だが、遠くで唄が聞こえた気がして、メフィストは目覚める。

 すると、視界が一気に開けた。地面に横たわり、こちらに腕を伸ばす幼い私は――魔女になっていた。

『シャル……ロッテ……怖がらないで……僕、を……!』

 ――僕を不要だと捨てた家族のように、変わり果てた僕を拒絶しないで。

 幼い私はメフィストを拒絶なんてしなかった。しなかったはずなのに、メフィストはずっと恐れを抱いていたというのが、伝わってくる。

 実験で怪物になってしまった自分に寄り添う私の体温を感じながら、メフィストは考えていた。

 ――シャルロッテは僕を受け入れてくれたけど、シャルロッテは僕とは違う。僕は自分の中の怪物が怖い。ひとたび理性を失えば、この愛しい存在さえ殺してしまう。 人間への憎しみから生まれた、そんな凶暴な感情が眠っている。

 メフィストは自分に寄りかかって眠っている幼い私に向かって、その鋭い爪がついた手を翳す。

 ――怖い……僕が本当に壊れてしまう前に……離れよう。だからせめて、今だけは……。

 私の子守歌を聴きながら、メフィストは眠りにつく。

 束の間の幸せに縋る時間は流れ……メフィストはついに決意した。

 ――彼女を不幸にする世界を壊し、僕は旅立とう。

 その手始めに教会という檻を、虐げ利用する人間という鎖を、壊していく。そして、眠る私を置いていく。置いていったのは自分なのに、置いていかれたような気持ちで去っていく。

 景色も攫っていくように、その後ろ姿が遠ざかるのに合わせて、世界も暗闇に塗り替えられていく。すると、今度は後ろから駆けてくる足音がした。

「シャルロッテ!」

 振り返るより先に、身体に回る腕。耳元に「やっと見つけた……っ」と、心底安堵するような囁きが落ちてくる。

 声の主が誰なのかに気づいた私は、ふっと笑う。

「やつの背中を追いかけてばかりの私を、追いかけてきてくれる人間がいたことを忘れていた」

「……っ、本当だよ。あんたがアビス患者をほっておけないのは、メフィストのことがあったからだろ。 あんたの原動力の根本に、あいつがいるのはわかってる。だから、なにかせずにいられないのもわかってる。けど、俺たちがいることも……その、忘れないでくれ」

「……ああ、忘れてなどいない」

 胸の前に回っている腕に手を添えて、振り返る。

「忘れられるわけがないよ、クウガ」

 必死な面持ちで、私を繋ぎとめているクウガ。いつか、メフィストに置いて行かれた私も、今のクウガと同じような顔をしていたのだろうか。

「……その言葉、忘れるなよ。あんたに助けたいやつがいるなら、一緒に助ける。守りたいものがあるなら、一緒に守る。あんたが俺たちを愛して……くれてるように、俺たちも、あんたを……その、愛してるんだから、な」

 恥ずかしさを堪えながら、たどたどしく告げられた言葉に、私は目を見張る。

 いつか、自分を愛してくれる人と出会うために、私は旅に出た。その願いがとうに叶っていたことを、 自分が守っているつもりでいた人間に教えられるとはな。

「なら……ぬしらの力を借りてもいいか? 誰よりも近くにいたはずなのに、どうしてか、あやつとは道が交わらん。引き留めたくても……その方法が、いつまで経ってもわからんのだ」

 あんな記憶を見せたくせに、姿を現さない。見つけてもらうのを待っているくせに、本当に天邪鬼なやつめ。

「あんたらしくもない」

「ふっ、殊勝な私は意外か? だがな、あやつが私に名を与え、言葉を教えた。私が私として生まれることができたのは、あやつのおかげだ。私はあやつからもらってばかりで、なぜ、あやつがいちばん苦しんでいるときに、気づいてやれなかったのか……そうやって悔やんでいるうちに足が竦んでしまうのだよ」

 クウガがは私から身体を反し、お互いに向き合う。

「俺には『怪物は憐れじゃない』って言ってくれるシャルロッテの存在があった。弱ってるとき、そうやって強く導いてくれる存在は、眩しいんだ。その光を目指して、歩いていこうと思える」

 クウガは私を眩しいというが、それは逆だ。この暗闇の中で、曇りない思いで私を鼓舞するクウガこそ、わたしにとっての光。

「でも、メフィストのそばにいたときのあんたは、まだDr.ウイッチじゃなかった。あんただって旅をして成長して、アビス患者を治療できるDr.ウイッチになったんだ。メフィストに頼ってた頃のあんたと、今のあんたとは違う」

 クウガは私の両肩に手を載せる。

「子供だったあんたは自分の心を守るので手一杯だったけど、今のあんたなら……大丈夫だ。これまでだって、たくさん救ってきただろ。俺も含めて、怪物たちを」

 そう言って、クウガは私の手を取る。

「行くぞ、シャルロッテ。あんたの大切なやつを助けに」

 手を強く引かれるままに走る。

 守っていると思っていた相手に、守られていたとはな。

 目の前の大きく広い背中を見つめながら笑みがこぼれたとき、闇が開けた。まばゆい光に目を細めたのは一瞬。気づけば私たちは、夜の湖の水面の上に立っていた。運河の橋がかかった空には、少し欠けた大きくて青い月が浮かんでいる。

 幻想的な景色に息を呑んでいると、ちゃぽんちゃぽんと水面が鳴る。振り返れば、メフィストがこちらに歩いてくる。

「誰よりも大切なきみと、いつまでも道が交わらない」

「責任転嫁はやめないか。ぬしは私を守るために、今の世界を壊す……そう決めて旅に出たと言うが、私がそれを望んだか? ぬしは私のためではない、私に拒絶されることを恐れて逃げたのだ。本心を隠すために、私を大義名分に使うのはやめろ」

 立ち止まったメフィストと向かい合う。

 風も吹かない、美しいのに無機質なこの世界は、メフィストの孤独を表わしているようだった。

「ぬしは、自分を捨てた家族のように、私にも捨てられるのではないかと恐れていたのだろう。完全な怪物になった自分に自信がなかったのだ。あのイマジナリーフレンドの言った通りだな」

 一歩、前に足を踏み出す。いつも遠ざかってばかりいたメフィストは、その場に縫い付けられたかのように動かない。否、心に踏み込まれて、動揺しているのだ。その瞳が頼りなさげに揺れているのが、その証拠。

「心の傷から目を背け、絵本の世界に逃げていたように、今度は私からも逃げた。私の想いすら信じられなくなり、挙句、私を守るなどという自分を守るための大義名分を掲げて、旅になど出おって……ぬしは馬鹿以外の何者でもない!」

 メフィストの前で足を止めた私は、その胸倉を掴んで引き寄せた。驚きに見開かれる紅と銀の双眼をまっすぐに見つめ、言葉をぶつける。

「私も、ぬしさえそばにいてくれればいいと、そう思っていた! だが、『拒絶しないで』と願いながら、私を置いていったのはぬしのほうではないか!」

「きみも……僕からの拒絶を恐れていた……?」

「当たり前だろう! ぬしは私に名を与え、言葉をくれた。私をシャルロッテという個の存在に生まれ変わらせてくれたのは、他の誰でもなくぬしだ! ずっと昔から、私にとって特別な存在だったというのに、ぬしは自分をいつまで経っても過小評価する! 憐れだと、自分で自分の価値を貶める!」

 なぜわからないのだと、その胸倉を掴んだ手を乱暴に揺すった。

「この世は理不尽なことばかりだ。ぬしの言うように、本当に責められるべきは、私たちを怪物に変える社会、人間たちなのやもしれん。だが、アビス患者の中にも、私欲で人間の命を奪う者はいる。人間の中にもアビス患者の中にも、等しく悪は存在するのだ」

「だからきみは、怪物を排除するこの世界さえも、受け入れられるの? アビス患者をひとりひとり治療しているうちに、一体どれだけの怪物たちが理不尽な目に遭うと思う!」

 メフィストは声を荒げ、自分の胸倉を掴んでいる私の手首を強く握った。

 そこで、ずっと黙っていたクウガが口を挟む。

「あのさ……メフィスト、あんたは難しく考えすぎなんだよ。俺は怪物だけど、人間っていうか……というより、そこんところは、あんまし深く考えてなくて……俺は、ただのクウガ・エーデルワイスだ」

 自分の髪をくしゃりと握りつつ、クウガもこちらへやってくる。

「あんたは怪物と人間の間に線引きしたがるけど、問題は人間か怪物かじゃないだろ。個だ。種族でひとくくりにするんじゃなくて、名前を持ったその存在の善悪が重要なんだよ」

 たどたどしく紡がれるクウガの言葉は、私の考えを誰よりも代弁している。

「あと、そこまでアビスにかかったことを悲観しなくてもいいんじゃないか? 確かに面倒なことばっかだけど、シャルロッテが言ってくれたんだ。病気も個性だって。それを枷と考えないで、強みに変えていけばいいって。そうやって自分を愛してやれって。だから俺は、俺のままでいいんだって思えるようになった。第一、アビスにかかってなきゃ、俺は今も自分を殺して弟のためだけに生きてただろうし」

 隣で足を止めたクウガに、私は笑みを向けた。

「さすがは私の弟子、いいことを言う。人間とアビス患者に違いがあるとしたら、ぬしがメフィストで、私がシャルロッテという個の差だけだ。その個こそが、私たちが世界にひとりしかいないのだという証。ぬしがくれたのだぞ、私が特別な存在であるという、シャルロッテという名の祝福を」

 胸倉からゆっくりと手を離し、私はメフィストの手を握る。

「教会にいるときはぬしが何でも知っている大人に見えて、頼ってばかりだったな。そのぶん、ぬしは甘えることができなかったのだろう。守ってやれなくて、寄りかからせてやれなくてすまない。あんなに近くにいたというのに」

「シャル……ロッテ……」

「メフィスト、人は誰かのためになど、生きられん生き物なのだよ。大切な人に傷ついてほしくない、そんな感情でさえ、その人間の幸福を願う己のためなのだ。ぬしももう、誰かのために生きるのはやめろ。誰かに好かれるために生きるのではなく、ぬし自身のために生きるのだ。そのためには、努力しなければ誰にも好かれないと悲観する原因になった、怪物である自分を受け入れてやらねばならん」

 私を置いていくときも、今のように迷子の顔をしていたのだろうか。

「さまざまな生き物が同じ世界で生きている以上、衝突は避けようのないことだ。だから互いを知り、理解を深める必要がある。私たちがすべきは、世界を変えるなんて大それたことではなく、間を取り持つこと。それが人とアビス患者の関係を維持する、Dr.ウイッチである私の役割だ」

「きみは本気で……人間と怪物が共存できると思ってるの?」

 それにややムキになって言い返したのは、クウガだった。

「あんただって、自分の存在感を残すみたいに、俺たちの行く先々でシルクハットを置いてくくらいだ。シャルロッテがずっと、アビス患者の未来のためにDr.ウイッチをやってるのを隠れて見てきたんじゃないのか?」

 メフィストは答えなかったが、その沈黙こそがクウガの指摘を肯定していた。

「怪物と人間、その間を埋めていくのがシャルロッテのやりたいことだっていうんなら、それは弟子である俺のやるべきことでもある」

 クウガは私の腕を掴んだ。

「あんたに見せてやる。この日の当たる世界でも、アビス患者が居場所を見つけていける、そのためにシャルロッテがしてきたことは、意味のあることだって」

 啖呵を切り、クウガは私の手を引いて、メフィストの横をお通り過ぎる。

 はっきりと物申すクウガに息を呑んだのは、メフィストだけではない。

 自分の人生を犠牲にしてでも、弟のために生きていた頃から、ずっとクウガは他人のために一生懸命だ。そのまっすぐさに、いつも驚かされる。

「俺はもう、自分のために生きるって決めてる。だから、そばにいたい人のそばにいることを迷わない。あんたはそこで、いつまでもうじうじ悩んでろ。そうやって、自分の境遇を卑下するばかりで、何度も大切な人とすれ違い続けて、いつか本当に手が届かなくなってもいいならな」

 振り返らずに、私を連れて前進していくクウガ。そうか、クウガは自分のために私を置いていかない。私がクウガを大事に思っていることを、そばにいたい人が遠ざかる寂しさを知っているから。

 私は後ろを見やる。座り込んだまま、私たちを見送るメフィストに苦笑がこぼれた。

「メフィスト、私はぬしを嫌ったりせんよ。だが、いくら言葉を並べたところで、ぬし自身がそう思えなければ、意味がないのだ。だから――待っている。ぬしが望んで向かう先が、私の道と交わるときを」


 終わりの見えない暗闇の中、ふたりの足音だけがコツコツと響いている。

「クウガ、今さらなんだが、ここまでどうやって来たんだ?」

「ああ、それはユーシスさんの案内で……」

 言葉を切ったクウガは足を止め、苦い顔で振り返った。

「行きはどうにかなったけど、どうやって会場に戻れば……」

「くっ、くっ、くっ……メフィストに啖呵を切っていた人間と同一人物とは思えんな」

 口に手を当てながら、腰を折って笑っていると、クウガは肩を縮こまらせる。私は「可愛いやつめ」と笑い交じりに言い、その背中をぽんぽんと叩いた。

「まあ、可愛い弟子をからかうのはここまでにして」

「……からかうな。今がどういう状況か、わかってるのか?」

 渋い面持ちのクウガに、私はにやりとする。

「わかってるぞ、よーくな。さて、これから私たちのすべきことを整理しよう」

「とにかく、人間をいたぶるアビス患者たちを止めないとだよな」

「ああ。だが、メフィストは怪物たちの狂気を目覚めさせた。アビス患者の力は、非力な人間からすればただの暴力だ。それがなんの躊躇いもなく振りかざされれば、人間などひとたまりもない」

 クウガは憂うように小さく息をついた。

「人間の根本が怪物っていうのが、よくわかるよ。理性で越えずにいた一線を越えてしまえば、俺たちアビス患者はただの獣だ」

「だから、爆発せんように、私たちDr.ウイッチがいる」

「俺たちの必要性が、今はよりいっそうわかるよ。メフィストは……世界の摂理がひっくり返す予行練習だって言ってたけど、そんなこと本気でできるのか?」

「アビス患者が本気を出せば、可能であろうな。言ったであろう、アビスは悪魔学において『進化の終着点』、アビス患者は誰よりも優れ、特別な存在になり得る可能性を秘めている。ただ、天才と狂気は紙一重。その可能性が必ずしもいい方向に働くとは限らん」

 私は両手を広げ、暗い虚空を見上げながら声高らかに述べる。

「悪い人間を排除し、理想の世界を創る! メフィスト自身が悪の神となり、アビス患者が生きやすい世を現実のものとするために、なにを成せばいいのかを説いていたであろう?」

 声の余韻が消える前に、私はクウガに向き直った。

「世界はすぐには変えられん。だが、ここから少しずつ、同士を集めて地上のカオス患者たちに人間を恐れず、逆に虐げ、その力を示せと。すでにメフィストは、その力関係を変えて見せた。ゆえに、私たちもそれを真似る」

「は……?」

 検討もつかない、という顔をするクウガ。私はその手をとり、ぎゅっと握る。

「怪物と人が手を取り合わなければならん状況を作る。クウガ、私たちが必要悪となるのだよ。そのために、ぬしの力を貸りたい」

「……つまり、俺は怪物として、あんたは魔女として、サーカスの舞台に残ってる人間とカオス患者たちを襲う……そういうことか?」

「さすが、私の弟子だな。私の意図をよく理解している。だが、この方法はぬしにとってはつらいものになるだろう。適役を買って出るのだ、怪物と指さされ、罵られることは避けられん」

 それを聞いたクウガは深呼吸をして、やがて私の手を強く握り返した。

「大事なのは、俺たちの心の持ちようだろ。世間が俺たちを悪だと(そし)ったとしても、俺たちが正しいことだって信じて進む道なら、恥じることはない。それに……これは俺が怪物だからこそ、できることだ。俺は、俺が怪物であることの意味を探してた。これもりっぱな、俺の存在意義だと思う」

 私を見つめるクウガの表情に迷いはない。

「ああ、ぬしにしかできないことだ。私を信じろ、私がいる限り、決してぬしを理性を失った怪物にはしない」

 話しているそばから、笑みを浮かべるクウガの身体がミアズマに覆い隠されていく。

「信じてる、あんたのことは……もう、ずっと前から」


「おい! 社会に居場所のないお前たちに仕事を与えただけでなく、済む場所まで提供してやった! 人々から喝采まで浴びるチャンスを与えてもらっておいて、恩を仇で返すつもり――うわああああっ!」

 サーカスの舞台で、壁のルーレットに張り付けられた団長がぐるぐると回されている。団員は「黙れ!」と怒鳴り、そこへ連続でナイフを投げる。

「社会に居場所がない? そう思わせて、人間に従うしか生きる道はない、そう思わせてきたのはあんただろ!」

「そうよ! 私たちはもう、騙されないわ! 居場所は、私たちが作っていけばいいのよ!」

「俺たちを虐げる人間たちを力で黙らせて、俺たちが生きやすい世界を創ればいい!」

 ジークは「落ち着け!」と声を張り、団員たちの前に出た。その隣にユーシスやウルフくんも並ぶ。

「やられてからやり返すのか? そんなこと繰り返してたら、居場所どころか、この世界に誰もいなくなっちまうぞ!」

「きみたちの答えをすべて否定するつもりはないけど、きみたちは少なからずなにかに傷つき、なにかを失ってカオスにかかったはずだ。そのときの痛みを、他の誰かに負わせても、本当に後悔しないのか?」

 ユーシスの言葉に、「だったらどうすればよかったんだよ!」と叫んだ団員は、その手に火の玉を生み出し、水槽の上に吊るされた檻に向かって放つ。

「しまっ――」

 ジークが慌てて振り返り、中にいる人間たちが悲鳴をあげたとき――。

 ドゴーンッと空間を突き破る轟音(ごうおん)とともに、鳥の頭を持つドラゴンが現れ、火を吹きながら咆哮した。私はその背に乗ったまま、驚愕している団員や人間たちを、冷笑を浮かべ見下ろす。

「今は互いを謗り合っている場合ではないと思うが?」

 団員たちは「なんだ、お前は!」と怒り、人間たちは「もう、嫌だっ、助けてくれ!」と、馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉を繰り返している。

「あれのドラゴンは……クウガか!」

 クウガの擬態化を見たことがあるジークが、信じられないといった様子でドラゴンを凝視している。

 私の名を呼ぼうとしたジークの前に、ユーシスがすっと腕を出した。今は見守れと、その合図を察知したジークが口を閉じる。

「ぬしらは怪物がなんたるかを、ちっとも理解しておらんな。本物の怪物はな、人間か同胞かなど関係なく壊し尽くす、私のような悪役非道の魔女のことを言うのだよ!」

 勢いよく手を前に翳せば、クウガは絵本に出てきそうなラスボスのドラゴンさながら、火を吹いて彼らの足元を炙った。

 それに団員たちも己の能力で抗おうとする。だが、擬態化できるほどの能力を持ったクウガに、叶うはずもなく、氷の(つぶて)も棘のある蔓の鞭も歯が立たない。

「ああ、楽しいぞ! こんなにも心が躍ったのは久しぶりだ! 私は魔女、ぬしらが火あぶりにし損ねた災厄の魔女! あはははははっ」

 両手を挙げ、狂ったように笑う私に合わせて、クウガも空気を震わせるほど咆哮する。

 よくわかっているではないか、己の役を。

 いい子だとクウガの背を撫でていると、団員たちの声が耳に入ってくる。

「あの魔女とドラゴン、本気で俺たちを殺す気だぞ!」

「ね、ねえ。今は人間だとか怪物だと言う前に、ここから逃げることが先なんじゃない?」

「でも、ここから逃げて、どこへ行けばいい。俺たちに他の居場所なんて……」

 話し合っている団員たちに向かって、今度は貴族連中が「な、なあ!」と声をかけた。

「今は協力し合おう。きみたちが私たちを助けてくれるのなら、きみたちをメイドやフットマンとして雇ってもいい」

「それ、いいアイディアね。護衛もできるフットマンなんて、心強いわ。私たちの話が信じられないなら、手付金としてこれをあげる!」

 令嬢は自分の大ぶりのルビーが埋め込まれた首飾りを、団員たちの足元に放り投げた。

「ルビーよ。それだけでも、十分な金額になるわ」

 団員たちは迷うように顔を見合わせ、背に腹は代えられないと思ったのか、人間たちを次々と開放していった。それにジークも「よし!」と言って、人間たちの救出を手伝う。

「皆、あの魔女たちはこの飛行船ごと、俺たちを地獄の底へ叩き落とす気だ。今こそ、皆で力を合わせてここから脱出しよう!」

 ユーシスがうまく皆を煽ると、団員たちは「おおっ!」と賛同して、

「まずは、攻撃系の能力を持ったやつらで、ドラゴンと魔女を足止めするぞ!」

「その間に、私のツルで地上に皆を逃がすわ。時間稼ぎをお願い!」

 それぞれ、己の役割を果たすために走り出す。私たちの前に立ちはだかった団員たちは列をなし、遠距離から火の球や氷の礫、風の刃を飛ばしてくる。それを空を飛びながら避けるクウガだったが、ここは異空間とはいえ、飛行船の中だ。私たちが攻撃を避けるたび、船体は傷つき、ついにはぐらりと大きく傾いた。

「なにが起きてるのか、こうも暗くては判断のしようもないな。よし、クウガ。宙に向かって、ありったけの炎を吐きだせ!」

『人使いの荒い』

 やれやれと言わんばかりにクウガは言い、大きく口を開けると、一気に炎を吐き出した。それは飛行船を覆っていた闇の殻を内側から突き破る。ぽっかりと開いた穴から、黒い殻の破片がぱらぱらと剥がれ落ちている。そこに広がっている青空に目を奪われていると、ふわっと人間たちの身体が浮き上がった。

「船が落ちてるぞ!」

「エンジンやられたんだ!」

 長い絶叫とともに、人間たちのは船から空へと投げ出される。

『シャルロッテ!』

 クウガに発破をかけられて、私も「わかっている!」と言い、人間たちの救助に向かおうとしたのだが――。

「大丈夫? さあ、こっちに手を伸ばして!」

「あ、ありがとう」

 なんと、カオス患者のほうから貴族たちに手を差し伸べているではないか。空中で離れないよう手を取り合う彼らに、私は呼吸も忘れて見入っていた。

 ――ああ、だから……ぬしらは愛おしい。

「見ているか、メフィスト。臆病者のぬしが信じられない、生きとし生けるものの繋がりが、ここにあるぞ。その引き金を引いたのは、ぬしだ」

 ドレスの胸元から、隠していたキュアガンを引き抜く。続いて片足を立てると、ドレスの裾を捲り上げ、太ももに巻いていた銃弾ベルトから、シードブレットを取り、ありったけ詰める。

 まさか、ドラゴンに乗って空を飛ぶことになるとはな……。今回はドレスコードだったので、スーツケースを持ち歩くわけにもいかず、ドレスの至る所に仕事道具を装備していてよかった。

 最後にオレンジレッドの輝きを放つジュエリーブレットを装填し、

「さて、と」

 突風に煽られる中、バランスを取りつつ、ドラゴンの背の上で立ち上がる。片手に持った長銃を地上に向かってゆっくりと構えた私は、引き金に指をかけた。

「美しい絆を見せてくれたぬしらには……」

 パアアアンッと連続で祝福の銃声が鳴り響き、地上に数多の花の種が降り注ぐ。続いて銃口を天へと向けた。

「この結末が相応しい」

 太陽の名がついたサンストーンのジュエリーブレットが、天を穿つように空へと昇る。静かに風に唄声を織り交ぜれば、空に散らばったサンストーンの欠片たちが共鳴して煌めいた。

 太陽を砕いたような光が降り注ぎ、色とりどりの草花が自然のマットのように地上を埋め尽くす。

 草の香りに似て爽やかで、花の色のように鮮やかで、太陽のように照らす、波紋のように広がる唄に、団員や貴族たちは聞き入っている。

「身体が……心が震える……」

「あれって、災厄の魔女なんだよな? でも、花を咲かせて、こんな綺麗な唄をうたえるあの人が……?」

 皆、自分たちが落ちていることも忘れて、唄に聞き入っていた。やがて、ぽすんっと花のマットに受け止められた人々は、こちらを驚いたように仰ぎ見る。

「まさか、いがみ合う俺たちを止めるために、わざと悪役を?」

「きっとそうよ! だって、この花のマット……」

 花々の優しい香りに包まれ、美しい光景に癒され、極限状態にいた彼らのミアズマも薄れていく。

 ほら、わかりあえる。多くを語らなくとも、その行動が人の心を変えてゆく。これこそが、私たちの目指すべき未来。世界の在り方――。

 彼らの姿を目に焼きつけていると、風に煽られてつい、ドラゴンの背から滑り落ちてしまった。先に地上についていたジークやウルフくんが『シャルロッテ!』『シャルロッテ様』と慌てているのが聞こえる。

 だが、私は落ちていく私を追いかけるように飛んでくるドラゴンを見つめ、腕を伸ばす。

「クウガよ、私はこの世界のすべての怪物たちを美しく、愛しいと思っているが……」

 手のひらがドラゴンの頬に触れると、その姿は徐々に人型に戻っていく。

「ぬしがいちばん、愛しい」

「……はあ。また、あんたは……恥ずかしげもなく……」

 頬を赤らめ、居たたまれなさそうに目を逸らしているクウガに、私の口元も緩む。

「本心だからな。特に今日は、ぬしのおかげで、希望ある結末をメフィストに見せてやることができた。私も……この道を進んできてよかったと、ずっと見たかった景色をここに来てようやく、目にすることができた。全部、ぬしのおかげだ」

 自然にこぼれた笑みに、クウガは目を瞬かせた。そのとき、ぽすっと、ふたり一緒に花のマットに沈み、その拍子に七色の花びらが舞い上がった。

『シャルロッテ様、クウガ!』

 ウルフくんがくぐもった声でそう言い、こちらに走ってくる。どうやら、クウガの着る服をどこからか調達してきてくれたらしい。

 クウガがいそいそと着替えていると、そこへジークやユーシスも合流する。

『きみたちの進む道、辿る結末をずっと見てみたいと思っていた』

 ふいに空からメフィストの声が降ってきた。皆で天を仰いでみるが、肝心の本人の姿がどこにも見えない。

『そして、きっと私と同じ……たとえ進む先が日の当たらない闇の中であったとしても、世界を根本から変えなければ、怪物たちに未来はない。その答えに辿り着くに違いない、それこそが正解だったのだと証明してくれればいいと思っていた』

 メフィストの出した答えは、怪物たちの力を開放し、人間たちに抗う術を持たせること。その力を持って怪物たちが人間を虐げ、力の天秤を逆に傾けること。それによって地上に殺戮や犯罪が蔓延しようと、怪物たちが自我を失って自滅しようと、それでも闇の中を行く悪役として生きることだった。

『でも……シャルロッテ、きみたちは人と怪物の溝を埋め、この世界で互いが共に存在していける……そんな夢物語を現実に変えてみせた。きみたちのような者がいるなら、この世界もまだ捨てたものではないね』

「ぬしは自分の選択の答え合わせができたのか?」

『……まだ、すべての答えを得られたわけではないけれど……叶うなら、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。まるでおとぎ話みたいなハッピーエンドを私も描きたいと願うよ。たとえ、その描き方がきみたちと相容れなかったとしても』

 一切の生きとし生けるものは幸せであれ、か。本好きのメフィストのことだ、なにかの名言を引用したのだろう。

『いつか、光の中を行く治療者として生きるきみの道と、闇の中を行く悪役の私の道が交わる日が来るのかはわからない。でも……自分が納得できる、明確な答えを見つけられたら、きみに会いに行く。もう、すれ違うのはたくさんだからね』

 クウガは自分のために生きると決めたから、そばにいたい人のそばにいることを迷わないと言った。あの言葉がメフィストにも届いたのだろう、自分の望みを口にできたのがなによりの証拠だ。

『それまで、元気でね。私の愛しい魔女と、愛しい怪物たち』

その言葉と共に、そばにいたユーシスがカラスへと姿を変える。そして、笑みを浮かべるジークと視線を交わし、空へと羽ばたいていく。

 すると空にはコウモリが現れ、カラスと交差するように飛び、空の青に吸い込まれるように消えていった。

 メフィストの背を見送っていると、クウガが尋ねる。

「寂しいか?」

 私は首を横に振る。

「今回はなにも言わずに置いて行かれたわけではないからな。会いたいと、メフィストがそう思っているということがわかった。私は拒絶されていない、その答えを知ることができた今、寂しさはない。むしろ次に会ったとき、あれがどんな答えを聞かせてくれるのか、楽しみだ」

「そうか」

 クウガは短く相づちを打ち、地面についていた私の手の甲に自分の手を重ねた。反対側にウルフくんもやってきて、ぴったりと身を寄せてくる。

 私のすぐ後ろに立っているジークも、晴れやかな笑みを浮かべて親友を見送っていた。

 ああ、だからか、とひとり納得する。

 いつの間にか、自分の周りにはこんなにも大切な人たちで溢れていたのだ。ここにいないオルガも、マーベルも、そしてこれまで出会ってきたカオス患者や人間たちも、すべての出会いが私の心を満たしている。だから、寂しくないのだと。



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