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Recollection.怪物と魔女

 教会の地下にある簡素な寝台がずらりと並ぶ部屋。そこには数十人の孤児たちが白いスモックを纏い、共同生活をしていた。

 だいたいが親の顔も覚えていないほど、幼いときに教会に連れてこられる。そのため、言葉を知らない。幸い私は教養のある孤児に、支給される絵本を使って言葉を教えてもらえたのだが、物心ついた頃からそこにいるので、外界のことなど一切知らない無知な子供には変わりなかった。

『メフィスト、その目はどうした』

 十歳になったばかりの頃、三歳年上のメフィストが片目に包帯を巻いて検査から戻ってきた。

『毒だよ。毒を投与されて、右目が潰れたんだ』

 メフィストはなんてことないように言って、寝台と寝台の間にある壁に寄りかかって座っていた私の隣に腰を下ろす。

 私たちは皆、キャリアだった。怪奇な現象を起こす私たちを気味悪がった保護者が、この教会にキャリアの孤児を捨てていく。

 捨てられた私たちに人権などなく、毎日のように血液検査や脳波から始まり、電気ショックや箱に閉じ込められた状態で水中に沈められるなど、過度な精神的緊張を与えられた。

 そう、ここではキャリアの孤児を使ってアビスを発症させ、魔女や怪物を作る実験が行われていた。

『そういうシャルロッテこそ、声が枯れているね』

『何時間も歌わされた。あやつらは私の声が環境に干渉していることに気づいたようだ』

『僕の唯一の楽しみを奪うなんて、いっそ怪物になって食べてしまおうか』

 私の喉元をさすり、メフィストは悪い冗談を言う。

 メフィストは六歳でここに収容されるまで、どこぞの王族だったらしい。この教会で最も外界に詳しいのは、恐らくメフィストだ。

『シャルロッテの唄は、僕にやすらぎをくれる』

『全部、メフィストが教えてくれた唄だ』

 ここでは番号で呼ばれるのが普通だ。だが、メフィストは入所順からちなんで六番と呼ばれていた私に、シャルロッテという名を付けて呼んだ。メフィスト自身も、ここに入る前の名で自分を呼ぶ。

 この理不尽な日常の中で平静を保てていたのは、メフィストがいたからだ。こんな状況でも狼狽えることなく、それでいて物知りの彼の存在は大きかった。

 そうして月日は経ち、私は十歳になった。その頃には孤児たちは次々と怪物になっていき、手に負えなくなると処分されていった。

 いつか、自分にも終わりが来るのはわかっていた。それでも考えないようにしていた。だが、ついにメフィストの番が来た。実験のあと、メフィストが帰ってこなくなったのだ。

 夜、私は手燭台を持ち、メフィストを探しに部屋を出た。廊下を進んでいくと、途中で下へ続く階段を見つけた。生暖かい風が吹き上げてきて、自分でもどうしてそうしようと思ったのか、なにかに呼ばれるように降りていく。レンガ造りの壁に囲まれた廊下に出ると、その突き当りに厳重な鉄の扉を見つけた。

『ウガアアアアアアッ!』

 咆哮が廊下に響き渡り、風が私の髪を巻き上げる。思わず足を止め、服の胸元を握り締めた。

 まさか……。

 そんな嫌な予感が脳裏をよぎる。私は重い足取りで再び歩き出し、扉の前で立ち止まった。

 ごくりと喉を鳴らし、震える手で心張り棒をスライドさせ、力の限り扉を開ける。キイッと耳障りな音を立てて開いた扉の隙間から、恐る恐る中を覗き込む。真っ暗で先が見えないが、どうやら広間のようだった。

 怖いのに、先ほどの唸り声がなんだったのかを確かめずにはいられず、足を踏み出す。中に入ると、じゃらりと音がした。はあっと生暖かい吐息が背中にかかり、ゆっくりと振り返る。

『ひっ……』

〝それ〟を目の当たりにした瞬間、私は小さく悲鳴をあげた。バッファローの角とハリネズミの棘を持ち、コウモリの翼を背に生やした大きな黒い泥状の怪物が鎖に繋がれている。煤のようなものを放ち、どぷどぷと気味悪い音を立ててうごめいている。

『あ、ああ……あ……』

 私が尻餅をつくと、怪物の紅い瞳と目が合った。恐怖で身体が動かなくなり、『死』――その文字が頭を掠めた。だが、手燭の明かりに照らされた怪物の頭に、見覚えのある銀の毛が生えているのに気づいてしまった。

『あ……メフィスト……なのか?』

 確証はない、でも確かな予感があった。怪物は返事をするように再び『ウガアアアアアアッ!』と咆哮する。棘を一気に逆立て、コウモリの翼をはためかせる。その風圧に吹き飛ばされた私は、広間の壁に強く打ちつけられた。

『げほっ、ごほっ……はあっ……はあっ……』

 嘘だ……あれがメフィストなんて。いつだって、なんてことないような顔で、平気そうに笑っていたではないか。

『ウガアアアアアアッ!』

 床に倒れたまま、理性を失ったように叫び続ける怪物を見つめていると、涙で視界がぼやける。胸が締めつけられて、息が苦しい。

 私は錆びて埃をかぶっている十字架を仰ぎ見て、祈る。

 神様……どうか、メフィストを私に返してください。

 でも、神は応えない。ああ、ここに神などいないのだ。何人もの子供が犠牲になっても、天から傍観しているだけ。

 いつか来る終わり、それが今だと瞬時に悟った。メフィストは私に名をくれて、言葉を教えてくれた人……私の世界そのものだった。

 私にとってメフィストは、普通なら狂ってしまってもおかしくないはずのこの状況で、私が私であるための心の柱だった。それを失えば、私も……壊れてしまうのは必然だった。

『うっ……ぐううううっ』

 身体から吹き出す黒い瘴気が、私を飲み込んでいく。

 ああ、このまま闇に取り込まれてしまえば、ぬしと同じになれるのだろうか。いっそ狂ってしまえたほうが楽だ。この喪失感も、悲しみも、苦しみも、すべてわからなくなるほど、壊れてしまえたほうが……幸せだ。

 闇を受け入れるように目を閉じる。涙がひとしずくこぼれ落ち、私の世界は一瞬にして黒く染まっていく。身体が作り変えられていく感覚。全身の血液が沸騰するように熱を持ち、皮膚をなにかが食い破ろうとしているような激痛に、喉が裂けそうなほど悲鳴をあげる。

 でも、ぬしと同じものになれるのなら、その痛みさえ愛おしかった。そこで気づく。

 私にとって、人か怪物なのかは重要ではないのだ。私はただ、あやつに置いていかれたくなかった。

 怪物になるのはいい。だが、ぬしを愛おしく思う気持ちも、わからなくなってしまうのは……寂しい、な……。

 そう思ったとき、熱が一気に引いていった。血液の代わりに、私を飲み込もうとしていた闇が身体を巡っている。私の一部になって馴染んでいく。

 そして、闇の気配が徐々におさまっていき、私ははっと瞼を開いた。すると、放出されていた瘴気が私の身体に吸い込まれていくのが見えた。

『……シャル、ロッテ……』

 聞き覚えのある声が、あやつしか知らないはずの私の名を呼んだ。

『……メフィスト?』

『シャル……ロッテ……怖がらないで……僕、を……!』

 先ほどまで、耳をつんざくような咆哮にしか聞こえなかった。でも今は、メフィストの言葉がわかる。

『……すまない、メフィスト。ぬしはずっとそこにいたのに……私に語りかけていたのに……その物々しい姿に騙され、私はぬしから目を逸らし、ぬしの声に耳を傾けられていなかった……』

 目に見えているものがすべてではない。聞こえていても、聴こうとする気持ちがなければ、その心を感じ取ることはできないのだ。

 私はメフィストに向かって、痛む腕を伸ばす。

『どんな姿になろうと、ぬしがメフィストだとわかれば……もう怖くはない』

 それでも、怖がられることを恐れるというのなら、慰めてやろう。

 静かな吐息に乗せて、私は唄う。それは少しずつ、メフィストの弾けるようにうごめいていた瘴気を宥め、その姿を人へと戻していく。

 痛みを堪えて起き上がり、ゆっくりとメフィストに歩み寄った。裂けたスモックを纏い、床に座り込んで、こちらを見上げているメフィストと目が合う。高貴な銀色をしていたメフィストの瞳は、片方だけが紅く、怪物であったときの名残があった。

『僕は……なにに見える? 憐れな怪物?』

『いいや……姿は変われど、ぬしはぬし。愛しい怪物だ』

 こうして、メフィストは唯一自我を失わなかった怪物に、私は魔女になった。

 私たちは唯一の成功例として、そのあとも能力をどこまで引き出せるのか、実験に耐え続けた。メフィストはそのたびに擬態化し、それを私が鎮静化する。その繰り返しの日々の中、モルモットにされた子供たちもついには皆――死んだ。

 そうして二年が経ったある日のこと。微かな蝋燭の灯りだけが照らす教会の地下で、実験のあとで怪物の姿のままであったメフィストがぽつりと言った。

『僕たちと、それ以外の人たちとの違いってなんだったんだろう?』

 メフィストは少し前から、こうして怪物と人の違いを問うてくるようになった。他の者たちならともかく、ついには私との違いまで探すようにり、胸にはもどかしさが生まれる。

 この閉ざされた暗闇の中で、私にとっての世界は目の前のメフィストだけだ。私は姿が変わろうとも、中身がメフィストのままならそれで十分だった。

 でも、メフィストは違うのだろうか。私が魔女になり、変わってしまったように見えたのだろうか。

『唄ってくれる? 僕だけの魔女さん』

 いつか、こうして唄を求められることもなくなるのだろうか。

 メフィストが遠い。いつかどこかへ行ってしまうような、そんな漠然とした不安があった。

 だから私は、必死にメフィストの心を繋ぎ止めるように唄う。自分を卑下するメフィストへの慰めと、自分を愛せないメフィストへの憐れみと、私からメフィストへ贈る慈愛を込めて唄う。私の存在が、メフィストにとって必要なくなってしまう日がこないようにと願いながら。

 

 せがまれた唄をうたい、メフィストのそばで眠りについたあと。ふいに髪を撫でられる感触がして、はっと目が覚めた。

 すると、いつぶりだろうか。朧月が浮かぶ夜空の下、私は芝生の上に寝っ転がっていた。身体を起こせば、目の前には燃え盛る教会がある。その瞬間、すべてを悟った。

 メフィストは己を縛る鎖を砕き、忌まわしいこの場所と孤児を実験体にした者たちもろとも壊して、私を置いてひとり旅立ってしまったのだと。

 私は呆然と、燃える教会の前に座り込んでいた。

『なぜ……』

 ――ひとりで、行ってしまったのだ。

『どうして……』

 ――私を連れて行ってくれなかった。

 私たちは同じ世界を見ていると思っていた。だが、違ったのだな。ぬしはいつから、私との違いに苦しみ、自分だけが怪物なのだと己を憐れんでいたのだ?

『この、嘘つきの根暗め……』

 私を僕だけの魔女だと、言っていたではないか。

 目に涙が滲み、土を握り締める。そのときだった。『こっちのほうで怪物を見たやつがいたらしい!』『急げ、早く殺すんだ!』と人間たちの声がした。振り返れば、教会を囲むようにある森の向こうに松明の明かりが見える。

 逃げて、生きなければ。もう一度、やつに会うために。

 私は重い腰を上げる。

 魔女である私を受け入れ、愛してくれる人と出会うために。

 そして、ぬしに証明してやる。魔女だろうと怪物だろうと、愛してくれる人と出会えるのだと。ぬし自身が自分を愛せなかったがばっかりに、その存在がすぐそばにあったことに気づけなかったのだと。

 踏み出す足が、一歩一歩確かに前に進んでいく。私の旅は、こうして始まったのだ。

 


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