Record3.過去に囚われた町
ガタガタと山道を下る馬車の中で、車窓に肘をついたジークが言う。
「俺たちが向かっているのは、一週間前にアビス災害発生区域に指定されたシュタインブルだ」
「過去に閉じ込められた町を、元に戻すんですよね」
隣に座っているクウガが、向かいにいるジークに確認した。
「ああ。今回は警察からの依頼ではあるが、俺がついてきたのは個人的な事情からだ」
一瞬だけ目を伏せたジークは、表情に滲ませた憂いを笑みの奥にしまい込む。
「ちょうど一週間前だ。俺のところに、相棒から四年前の十二月二十五日の日付で電報が届いた」
「消印を確認したのか」
「ああ。シュタインブルの郵便局のものだった」
「なるほどな、それでシュタインブルの時が過去の十二月二十五日に戻ったか、止まっているのではないか、と考えたわけか」
「ああ」
私とジークが話していると、クウガが不思議そうに尋ねた。
「相棒って?」
私もジークの隣にいるウルフくんも、これから打ち明けられるだろう過去を知っている。というより、その事件をきっかけに私たちは出会った。それをクウガにも話すか否はジークが決めることだ。それゆえに私もウルフくんも黙って見守る。
「お前もシャルロッテの助手になったなら、話しておかねえとな」
ジークは自嘲気味に笑い、車窓を遠い目で見つめた。
「あの日は、雪が降ってた……足跡も、すぐに消えちまいそうなほど、な……」
***
――四年前。
当時二十八歳だった俺、ジーク・ランディーニは、まだカプスピテ中央警察ではなく、セルゲイの町の地方警察で刑事をしていた。
『死体をわざわざ食卓の席につかせるとはな。犯人はアビス患者かもしれねえな』
セルゲイには連日連夜、しんしんと粉雪が音もなく降り続けている。
ざくざくと雪に足を取られながら、殺害現場である一軒家から出た俺は、タバコを咥えた。すると、すかさず相棒のユーシス・ウォルクがライターで火をつけた。
『苛立ってるね』
ラベンダーアッシュの瞳と、アイボリー色の柔らかそうな髪。見るからに善人そうなユーシスが同い年とは思えないほど気が利くのは、妻帯者になる前からだった。
その皴ひとつないグレーのジャケットスーツからもわかるように、ユーシスは温厚で物腰も柔らかいが、刑事としては隙がなく、いつでも冷静沈着で余裕を崩さない。洞察力に長け、相手の思考を読むのが得意だ。
対して俺は、事件を追いながら身だしなみにまで気を配れるほど器用ではない。頭にすぐ血が上り、粗暴で軽薄な自分とは正反対だからこそ、俺たちは互いの欠点を補い合い、長所を生かし合える相棒になれたのだろう。
『幸せな家族ばかり狙う無差別殺人犯が、ついに俺たちの管轄区域までおいでなさったんだぞ。ここまで犯人を野放しにしてやがった他の地方警察は、なにしてやがったんだ』
ふーっと煙を吐き、俺は事件現場を振り返る。
『この町には、お前の家族もいる。ミセス・マリーとユーリが心配だろ』
ユーシスの妻であるマリーと、二歳になる息子のユーリとは面識がある。というより、独り身の俺をユーシスもマリーも心配して、夕飯にしょっちゅう招待してくるのだ。
ユーリも俺に懐いていて、ウォルク家で過ごす時間は、自分も家族の一員になれたようで気に入っていた。
『この事件は、マリンヴェネ全土で起きてたからね。いつかは……とは、思ってたよ』
『今度は俺たちが、この連続殺人事件を追うことになったんだ。他のやつらより、犯人に目をつけられやすい。こんなときくらい、そばで家族守ったって、バチは当たらねえ』
『なるほど、ジークは僕たち家族のことを心配して、苛立っていたわけか。ありがとう』
くすくすと、どこぞの令嬢のように口に手の甲を当てながら、お上品に笑っているユーリをじろりと睨む。
『茶化すな。俺は本気で言ってんだ。この山くらい、俺がひとりで担当したっていいんだぞ』
『わかってるよ。でも、僕はきみの相棒だ。どんなときもそばにいて、一緒に戦う』
懐に手を添えたユーシス。相棒になって、初めて事件の山を解決したとき、互いに銀のレシーバー部分にリンドウの花が彫刻された拳銃を贈り合った。それが収まっている懐に、俺も触れた。
『きみをひとりで行動させたら、どんな無茶をするか、わかったもんじゃないしね。歯止め役が必要だろ』
『うるせえ』
『それにね、家族のそばにいるだけが守るってことじゃない。僕には戦う術があるんだ。早く犯人を捕まえることが、この町の平穏に繋がる近道だ』
『お前は昔から変わらねえな。この、正義のヒーローめ』
『それを言うなら、ジークだってヒーローだろう。いや、柄が悪いからダークヒーローか』
『一言余計だ!』
俺たちはふざけながら、互いを小突き合う。そして、互いの腕を絡めるようにして、不敵な笑みを交わす。
『この山も、俺たちにかかれば秒で解決だな』
『ああ。犯人を縄にかけて、そのあとはうちで祝杯だな』
久しぶりの大山に、俺たちは不謹慎にも昂っていた。そんなおごりが、あの悲劇を招いたのだろうか。
――十二月二十五日、聖夜。
『僕が……間違ってた……どうして、そばにいなかったんだ……』
二件目の事件は、ウォルク家で起きた。
帰宅したユーシスは、食卓につく妻と息子の遺体を発見した。その足元にはおびただしい血の海。ダイニングテーブルには犯人が用意したのか、夕飯が並べられており、【Incompetent police】――『無能な警察』という血文字が残されていた。明らかに、警察への挑発だった。
ユーシスから電報を受け取り、すぐに駆けつけると、室内は月明かりに照らされて青白く光っていた。
ユーシスは血の海に膝をつき、ふたりの亡骸を抱きしめて俯いている。
恐ろしいほどの静寂に、俺は声をかけるどころか、呼吸さえもできなかった。
それでもなにかしなければと、目の前で小刻みに震えるユーシスの肩に手を伸ばしかけたとき――。
『ああああああああああああああああああっ』
ユーシスは慟哭した。
『もっと慎重に、もっと警戒していれば……! こんなっ、こんな目に遭わせることはなかった……! ごめんな、ごめんな、怖い目に遭わせて……っ』
冷たい息子と妻の頬を撫で、頬釣りをして、その命の在りかを確かめようとするも見つからず、ユーシスは何度も絶望したのだろう。
ユーシスのその姿を見て、俺は後悔と無力感に苛まれていた。
なにが、この山も俺たちにかかれば秒で解決だ。他の地方警察を責める権利なんて、俺にはない。
無能な警察……本当にその通りだ。
伸ばした手を握り締め、力なく下ろす。
今、自分にできることはなんだ? 他の誰でもなく、いつもそばで戦ってくれた相棒のためにできることはなんだ?
俺はギリッと奥歯を噛みしめ、ユーシスに背を向ける。
「待ってろ。ぜってえに、お前の前に犯人引きずり出してやる」
俺はそこから駆け出した。いや、逃げ出したのだ。自分にできることをするという大義名分を口にして、本当は……絶望する相棒のそばにいるのが苦しかった。見たくなかったのだ、いつも余裕を崩さなかった無敵の相棒が負けるところを。
俺は相棒をその場に残し、すぐさま応援を呼んで犯人を追った。けれど、その日犯人を捕らえることはできず、それどころか相棒までも姿を消してしまった。
俺は寝る間も惜しんで相棒を探し、犯人を追った。単独行動が目に余ると、事件から外されても、それでもふたりを追い続けた。
そして、ようやく掴んだ犯人の証拠を頼りに路地へ行くと――。
『ユー……シス?』
黒い羽根が舞う中、こちらに背を向けている相棒がいた。スーツを破るように生えたカラスの黒い羽根。カエルのような三本指の手は、黒の斑点がある毒々しい青色をしている。
『ジーク、こいつはアビス患者じゃなかったよ』
ユーシスの声は落ち着いていたが、感情を失ったように抑揚がなかった。それが返って、俺の中の焦燥を駆り立てた。
『怪物になったのは、むしろ僕のほうだった。あんな犬畜生にも劣る真似を繰り返しておいて、アビスにすらならないなんてね』
『ユーシス、これはどういう状況だ』
俺はその人外の手から滴り落ちる粘液と、ユーシスの足元で事切れている男を交互に見やる。
『ヤドクガエルには、モルヒネの毒性の二百倍も強力な毒があるらしいんだ。鋭いクチバシで肉を突き喰らうよりも、手足がしびれて、歩けなくなって……最後には呼吸困難でじわじわと死なせるほうが……恐怖を味わわせながら、殺せると思ってね』
ユーシスは、ゆっくりとこちらを振り返る。その目は血に濡れたように赤く、俺は変わり果てた相棒の姿に息を呑んだ。
『僕には戦う術がある。それなら使わない手はないだろう?』
『俺たちの戦う術は、推理力、洞察力、狙撃、体術……刑事としての能力だろ。その力を憎しみに駆られて振りかざせば、それはもう……暴力だ』
相棒がアビスを発症したことは、専門医でない俺にもすぐにわかった。それも、この短期間で擬態化するほどの心の闇を相棒は負っていたのだ。それなのに俺は、相棒のそばにいなかった。この結末を招いた原因は、間違いなく俺にもある。
『ジーク。僕は悪でしか裁けないものもあると思う。でも、そういう僕が許せないのなら、お前の手で、いつか――』
そう言って、相棒は一羽のカラスへと姿を変えた。そして、路地の出口のほうへと飛んで行く。
『――待て! ユーシス!』
俺はそのあとを追いかける。路地には俺の足音だけが響き、黒い羽根を頼りに外へと出た。
しかし、そこにあったのは真っ白な雪の絨毯。足跡ひとつ残っておらず、白い雪に混じって降ってくる黒い羽根を見上げる。
濃紺の空に微かに捉えた遠ざかるカラスの背に向かって、俺は叫んだ。
『行くなっ、相棒だろ! 今度こそ、そばにいさせてくれっ、ユーシス!』
相棒に見限られた俺は、それから自暴自棄になっていた。
無精ひげに、伸びた髪を適当に結んだ頭。ユーシスがいたときよりも、しわくちゃのスーツ。タバコの本数も増えた。
相棒と同じように、アビスを発症するかもしれないと考えた上司から、マリンヴェネの都市、カプスピテにいるDr.ウイッチのクリニックを紹介された。その魔女は国から支援金まで出してもらい、最近カプスピテに迎え入れられたという。
だが、俺は捜査以外に時間を費やす気はなかった。アビス絡みの事件は率先して担当し、相棒の手掛かりを探した。
そんな俺を見かねた上司は、ある日Dr.ウイッチを現場に連れてきた。
『今回はアビス絡みの事件ということもあってな、Dr.ウイッチにも協力を要請した。本事件は必ずDr.ウイッチと捜査に当たり、単独行動は慎むように』
名目上、仕事の協力者ということになっているが、休みも返上で働く俺を案じて、Dr.ウイッチを現場入りさせたのだろう。
余計なことを……と思いつつ、俺はタバコを咥えながらDr.ウイッチを観察する。まだ、十六かそこらのガキじゃねえか。
『犬連れのガキに用はねえ』
『犬ではない、狼だ』
『は……?』
思わず口から落としたタバコを、少女が迷わず踏みつける。
『ガキ、舐めた真似をしてくれるじゃねえか』
『ガキではない。シャルロッテだ。ぬしのことも、やけっぱちおじさんと呼ぼうか?』
やけっぱちというのは、俺が自暴自棄になっていることをさりげなく貶しているのだろう。
『口の悪いガキだな』
『ぬしもな。では、やけっぱちおじさん。事件を解決しに行こうではないか』
『ガキの遊びじゃねえんだぞ――っておい、事件現場をウロチョロすんじゃねえ!』
こうして俺は、狼を連れた生意気な少女とアビス絡みの事件をいくつか解決することになる。
ユーシス以外の誰かと組んで仕事をしたのは、少女が初めてだった。
Dr.ウイッチの腕に少しも期待なんてしていなかったが、その少女は見ための可憐さとは打って変わって、銃を手に宙を舞い、その摩訶不思議な唄声でアビス患者を癒していく。
Dr.ウイッチは、ユーシスを治せるかもしれない唯一の存在だ。ユーシスのためになにもしてやれなかった俺からすれば、希望だった。だからかもしれない。
『ユーシスは家族を殺されて怪物になった。だから犯人を……』
私怨で人を殺したとは、口にできなかった。まだ、信じたくない自分がいるのだろう。
『復讐を……果たしちまったんだ。それを刑事である俺は、どうしても受け入れられなかった』
仕事の休憩時間、町を見渡せる広場の階段の上で少女とサンドウィッチを食べながら、俺は相棒の話をしてしまった。情けない話、ユーシスのことをひとりで抱え込んでいるのは、もう限界だった。
『……正義は人それぞれだ。経験によって、その形はいかようにも変わる。ぬしの相棒は大切な者を奪われ、もともとあった警察官の正義と、家族を奪われたひとりの男の悪意との狭間で、たくさん苦しんだのであろう』
ならユーシスは、正義よりも悪意を選んだってことなのか?
『世間一般でいえば、暴力は悪なのかもしれんが……手にした怪物の力を振るって復讐を果たしたのなら、怪物であることを受け入れた証。その動機が憎しみだったとしても、ぬしの相棒は絶望に抗い、戦ったのだ』
少女の言葉には、なぜか素直に耳を傾けられた。
アビス患者は理性を失った獣……そんなふうに世間から否定的な目で見られる。実際、アビス患者となり、犯人を私怨で殺害したユーシスを、皆が警察の恥だと罵った。ユーシスがどれだけ警察に貢献し、市民を救ってきたのかも忘れて。
だが、この少女はアビス患者を『自分の心を騙せない素直な生き物なのだ』と言う。だから、怪物は最も人間らしく愛しいのだと。
『でなければ擬態化のあと、憎しみに理性を失って人を襲っていただろう。感情に身を任せてしまえたほうが、人間楽だからな』
そう言って、少女は大の字に階段に寝っ転がる。
『ぬしの相棒の中に、長年培われてきた警察官としての正義があったから、相棒は自分の力の使いどころを見失わなかったのではないか』
『怪物になったからって、俺と過ごした時間が全部なくなるわけじゃねえんだな』
懐にある拳銃に触れながら、少しだけ心が軽くなる。
『とはいえ今は平気でも、アビス患者は闇に囚われやすい。過去の傷が化膿して、再び症状が悪化しないとも言い切れん。私もぬしの相棒を見つけたら知らせるゆえ、ぬしも私の治療を受けろ』
『俺もアビスにかかれば、あいつの考えをもっと理解してやれんのかね』
『同じにならなくとも、相手の立場に立って想像することはできる。同じでないからこそ、闇に堕ちる者を光ある場所に引き上げてやれることもある。相棒もぬしも、そのままでいい』
『……そうか』
穏やかな風が、俺たちの間を吹き抜けていく。白いハトがバタバタと青い空へと羽ばたき、それが黒い羽根をしていないことに微かな落胆を覚えながら、俺は口を開く。
『――シャルロッテ、受けてやるよ。お前の治療』
***
「あの事件があってから、死に物狂いで犯人をとっ捕まえて、気づいたら中央警察の刑事に出世までしてた。けど、俺の目的はずっと果たされず仕舞いだ」
過去を一通り話し終えたジークが、なんてことない世間話のように言う。
「相棒のユーシスさんを探しているんですね」
「ああ。だが、やっと手掛かりを見つけた。これが例の電報だ」
ジークが懐から取り出した電報には【Telegram 12.25 6:10 pm】という送付された日時の他に、シュタインブルから送られてきたことがわかる消印、【eta2lmoytCA9 ol e pm】という謎の本文が書かれている。
「この文字の羅列……なんなんだ?」
眉間にしわを寄せ、首を傾げるクウガに、ジークがくっと笑う。
「Come to Alley 2 at 9pm……これは、『午後9時に2番路地に来い』ってアナグラムだ。お互いに届く前に、第三者に内容を知られないための小細工だ。もし、この情報が犯人に渡れば、逃がす隙を作っちまうだろ? こっちの動きが漏れねえように作った、俺たちの決まり事みてえなものだ」
アビス災害には、発生源の患者が必ずいる。
四年前の十二月二十五日の日付で届いた相棒からの電報は、ジークとユーシス・ウォルクしか知らないアナグラムで書かれており、なによりその日付はふたりにとって特別な意味を持つ。
「それでぬしは、こたびのアビス災害に相棒が関わっていると思ったわけか」
「ああ。俺はあいつに治療を受けさせたい。誰よりも正義感の強いあいつが、望まず災害を起こしているのだとしたら、俺が止めてやらねえと、だろ」
望まず災害を起こしているのだとしたら、か。だが、ユーシス・ウォルクが家族を失ったのは、セルゲイだったはず。なぜ、なんの関係もないシュタインブルで事を起こしたのか……。
思考の海に沈んでいると、クウガが「どうかしたのか?」と声をかけてくる。
勘ぐりすぎか。アナグラムのことを考えれば、ユーシス・ウォルクが関わっている可能性あ大いにある。
私はクウガに向かって、「いや」と軽く首を振った。
「そうだな。何度立ち直っても、過去の傷はふいに開く。そのたびに苦しむのはジーク、ぬしもだ」
「わかってる。だから、お前に依頼したんだよ。俺まで堕ちちまわねえようにな」
そこまで言って、ジークは「まあ……」とニヤリとする。これは、ジークの悪癖が出る合図だ。
「俺としては、一緒にいられる時間が増えるし? 最高の事件だが、お前には手間をかけるな」
「出会った頃はガキガキと、私のことなど眼中にもなかったくせに、よく言う。まあ、ぬしの相棒には、私も個人的に興味があるゆえ、手間とは思わんよ」
「個人的な興味? 自分に好意を寄せている男が目の前にいるってのに、浮気か。シャルロッテ」
「ユーシス・ウォルクは化物になってもなお、自我を失わなかった。〝あれ〟が興味を持たないはずがない」
ジークが「スルーかよ」とげんなりしている。クウガはそれを気まずそうにちらりと見つつ、私に問う。
「〝あれ〟って、シルクハットの男か?」
「やはり、ぬしは察しがいいな」
いつものように、その金髪をわしゃわしゃと撫で、弟子を愛でる。クウガはうっとうしそうに私の手首を掴みつつ、続ける。
「俺のときも、マープルのときもそうだけど、なんであいつはアビス患者の前に現れるんだ?」
「〝あれ〟は、自分と同じアビス患者の結末に興味があるのだよ。ゆえにアビス患者たちに、己の中の怪物を解き放つよう誘導する。その結果、患者が理性のない化物になり果て殺されようと、特別な力を手に入れ、化物の人生を謳歌しようと構いやしない」
ゆえにアビス患者たちは〝あれ〟に出会い、感謝もすれば恨みもする。
他のアビス患者の行きついた結末を通して、〝あれ〟は自分が辿るかもしれない未来を知りたいのだ。そこに光はあるのか、はたまた絶望しかないのか、答えをずっと探し続けている。
「ああ? それでアビス患者が人を襲ってんじゃあ、そいつは殺人教唆じゃねえか」
ジークはそう言ったあと、「おい、まさか――」と前のめりになる。
「もし、今回のアビス災害を起こした患者がユーシスなら、そのシルクハットの男が近づいてくるかもしれねえってことか」
〝あれ〟にとって、アビス患者は実験体であり、希望だ。
ただ、それで苦しむ人間がいると思うと、〝あれ〟をひとりにしてしまった私も罪悪感を覚える。〝あれ〟の痕跡を追い続けるのも、闇の中を行く相棒を止めたいジークの気持ちと似ているのかもしれない。
「もう、すでに関わっていたやもしれんな。〝あれ〟がやらかすのであれば、私も他人事ではないゆえ、ぬしに協力しよう」
言葉に苦笑が交じった。それに目ざとく気づいてしまうクウガが、じっと物言いたげに見てくる。
空気を読みすぎるほど察しがいいクウガのことだ。私が触れられたくない話題だということにも、気づいているのだろう。詳しく追及してこないのが、その証拠だ。
『あの男は……シャルロッテ様を傷つける。できれば再会してほしくない、というのが本音です』
ウルフくんが落としたひと言に、クウガは目を見張った。
「先輩でも、そんなふうに誰かを嫌ったりするんですね」
「クウガ、ウルフの言葉がわかんのか?」
目をしばたたかせるジークに、クウガは肩を竦める。
「擬態化したあとくらいから、ですけど」
「そうか、シャルロッテが弟子にするだけあるな」
自然と話題は違うほうへと逸れていく。クウガはなおも、私を案じるような視線を時々寄こしてきたが、気づかないふりをした。
それからほどなくして、ようやく山間の町に到着した。
「んーっ、三時間座りっぱなしは、拷問だぜ!」
馬車から降りてすぐ、ジークが背伸びをする。その隣で、クウガが町の入口を見上げていた。
「ここが、過去に閉じ込められた町――『シュタインブル』」
シュタインブルは森に囲まれた小さな町だ。運河を挟むようにレンガ造りの家が密集しており、そのすべてが森の緑に映える赤い屋根。運河や川に沿ってブドウ畑が連なり、赤ワインの生産地であることから、赤がイメージカラーとなったそうだ。
『人の気配がないですね』
ウルフくんの耳でも、人の声は拾えないようだ。
「どれどれ、電報が本物なら町は冬のはずだが……」
レンガの門の向こうには、ブラウスやワンピースなどの洗濯物が干されていたり、煙突から湯気が出ていたりと、人が住んでいる気配だけが残っているのだが、人だけが見当たらない。
家の前には、春の日差しを気持ちよさそうに浴び、ゆらゆらと揺れている花壇がある。
「思いっきり、春物の服が干してあるな」
クウガが怪訝そうに言う。
「ジーク、警察は事前に下調べはしたのか? お前たちにしかわからないアナグラムが使われていたとはいえ、電報が悪戯出ない可能性はゼロではないはずだが」
「いいや、してない。けど、憶測段階でも迅速に動かねえとならねえ事情があってな」
「……推測だけで災害発生区域にまで指定するとは、なかなか思い切ったことをする」
警察の意図が見えてしまい、小馬鹿にするように笑えば、ジークは後頭部に手を当てる。
「一応、この町に入った人間が誰ひとり戻ってきてねえって情報も加味して、決まったんだが……まあ、お前の想像通りだ」
私たちのやり取りを聞いていたクウガの顔に、『話が読めない』と書いてある。
「うちの愛弟子のために説明しよう。表向きはジークに送られて来る電報と、町に入った人間が戻ってこないからという理由で災害発生区域に指定されたが、実際は違う」
私は罰が悪そうに笑っているジークを見つめ、続けた。
「元警官のユーシス・ウォルクが関わっているとなると警察の面目が立たないゆえ、早期に解決したいというのが、この思い切った措置の理由というわけだ」
「俺の個人的な事情を抜きにすれば、警察の尻拭いにお前たちを呼んだようなもんだな」
降参とばかりに、ジークは両手を上げた。
「この町に入った人間が誰ひとり戻ってきてないって情報も、どこまで信じられるのか、わかったものではないな」
「一応、上司からの話なんだが、災害発生区域にするためのでっち上げって線も捨てきれねえ」
「町の怪異を実際に確かめもせず、Dr.ウイッチを召喚するくらいだ。事実確認すら省くほど、警察も焦っているということか」
「災害発生区域に指定されりゃあ、関係者以外足を運べなくなる。つまり、包囲網替わりってこった。悪いな」
「まあ、町民の姿が見えないのは事実だ。この町になにか起こっているのは間違いないであろう」
町の入り口を見つめていると、私たちをここまで連れてきた御者が視界の端に映る。振り返れば、御者は訝しそうに会釈をしてきた。
「それでは、私は帰らせてもらいます。三日後、迎えに来ますので」
御者はそう言って、なぜか首を傾げながら馬車へ戻っていく。その背を見送りながら、クウガは「変わった御者だな」と、同じように首を傾けていた。
馬車が森の中へと引き返していくと、私たちは町の入り口に並ぶ。
「そんじゃまあ、入ってみるとするか」
さっそく歩き出すジークに続き、町に入ると――景色が一変した。
雪が羽根のように、ふわりふわりと落ちてくる。
青葉をつけていた木々はすっかり枝だけになり、家の赤い屋根は雪をかぶって白くなっている。エメラルドグリーンの運河も灰色の空を映して、寒々しい藍色をしていた。
「人がいる……」
クウガは荷馬車から小麦粉を下ろす男やショーウインドウのブリキのおもちゃを眺める親子を見て、驚愕していた。町の外からは、人っ子ひとり確認できなかったからだ。
「ううううっ、こちらが冬であることを忘れておったな」
ウルフくんに抱きついて暖をとる私の両隣で、ジークとクウガもガクブルと震えていた。
「ひ、ひとまず防寒具を買いに行ったほうがよさそうだな」
皆がクウガに賛同するように頷く。私たちは身を寄せ合いながら、服飾店を探して入った。そこで買ったコートとマフラーを身につけ、町を見て回る。
「シャルロッテ、その格好も似合ってるな」
ジークに言われて、私は自分の姿を見下ろす。
かぶっているのは白のコサック帽、羽織ったのは帽子と同じ色のファー付きトレンチコート、そしてはめている黒の手袋も縁にファーがついている。
「全部、クウガが選んだものだ。全体的にふさふさなのは、愛弟子の心配性が最大限に発揮された結果であろうな」
「あんた、もともと薄着だからな。白衣脱いだら、肩とか出るし……」
「そういうクウガは、コートを羽織るだけで、幾分か紳士度が増すな」
クウガのは整った顔をしている。どこぞの王子と言われても信じてしまうだろう。ベージュのトレンチコートと赤いマフラーも、よく着こなしていた。
「弟子贔屓もいいが、俺はどうだ、シャルロッテ」
自慢げに自分が着ている黒のトレンチコートをパンパンと叩くジーク。その首元には紺色マフラーが巻かれている。
「なぜだろうな、ぬしはなにを着てもマフィアにしか見えん。素材の柄の悪さが消えんのだろうな。まったく、ウルフくんを見よ」
ウルフくんは狼なので寒さに強く、被っているのはサンタ帽子ひとつだけだ。
「あれこれ着飾らなくとも、ウルフくんの出で立ちは紛うことなき紳士。ウルフくんのようになりたければ、その性根から変えることだな」
「せっかくの聖夜だっていうのに、つれねえな」
十二月二十五日は遠い別の大陸にある異国でクリスマスと呼ばれ、プレゼントを贈り合ったり、教会で神に祈りを捧げたりするのだという。
ウルフくんのサンタ帽子の由来も、そのクリスマスにサンタクロースというおじいさんがプレゼントを運んでくるとかで、名付けられたそうだ。
そういった異国の風習がこの大陸にも伝わり、聖夜と呼ばれるようになった。
私はジークの戯言を聞き流し、広場へ目を向ける。子供たちが雪合戦や雪だるまに赤い帽子をかぶせて遊んでいる。
「「シャルロッテ!」」
子供たちに気を取られていたら、いきなりクウガとジークに腕を引かれた。
その瞬間、目の前で荷馬車から荷を下ろしていた男が躓く。その手にあった箱から、ゴロゴロとこぼれ落ちるりんごがやけにゆっくりに見えた。
「前を見て歩け。あんたはいつも俺を子ども扱いするけど、あんたのほうがよっぽどほっておけない」
「仕事となると、それ以外のことは眼中になくなるからな、シャルロッテは」
ジークは、私が仕事で周囲を観察していたことに目ざとく気づいたようだ。
「ぬしたちがいれば、私が多少ぼーっとしておっても、問題ないであろう?」
クウガは「他力本願だな」と呆れているが、いつもならここで小言のひとつかましてくるウルフくんはというと、静かだった。
ウルフくんは最近、こうして自分の代わりに、私を心配するクウガを見守っていることが多い。まるで自分の役目を託しているようにも見えて、私はウルフくんの頭を撫でる。
「誰にも代わりなどいないのだよ」
『シャルロッテ様……わかっています。ですが、いつか私がいなくなる時がきても、シャルロッテ様をひとりにせずに済むのだと思って、寂しくもほっとしていたのです』
「私もわかっておる。ウルフくんの気持ちはな」
笑みを向け、私は空を見上げる。
「毎日、雪遊びができるのは魅力的ではあるが……ずっと雪か。心まで凍えてしまいそうだな」
町を歩き回ったあと、私たちは昼食をとることにした。
紅白の縦縞模様の軒先テントがついた木造のレストラン。立てかけてあった黒板メニューのラインナップからするに、パスタとピザが売りの店のようだ。
丸テーブルにも、さすがは赤ワインの名産地と言うべきか、紅白のチェック柄のテーブルクロスがかけられている。
「あれ、そういえばジーク刑事はどこに行ったんだ……って、あ」
クウガの『あ』には、若干の呆れが滲んでいた。
ジークはカウンターに手をついて、「いい女だな。何度も通っちまいそうだ」と若い女店員を口説いている。
店内には老夫婦と新聞を読んでいる年配の男性客、それから若い女性客が談笑しているのだが、初めからカウンターの美女に目をつけていたのだろう。ジークはレストランに入るや否や、真っ先にカウンターへ向かった。
それに対して、クウガはすぐに席を確保しに行った。お昼時は、どこのレストランも混むからだ。
うちの弟子はぶっきらぼうながら、こういうところがジェントルマンである。
「あやつの病気的なまでの女好きには、つける薬がない。見なかったことにして、流すのがいちばんだ」
「あんた、ジーク刑事には容赦ないよな。やっぱ、相棒だった時期があるからか?」
「私は、あやつの相棒にはなれんよ。あやつの中で、相棒はユーシス・ウォルクしかおらんからな。私はどんなときでも、Dr.ウイッチとしてそばにいる」
ユーシスを失って自暴自棄になっていたジークには、治療が必要だった。
だが、ジークは相棒の一件から、アビス絡みの事件に憑りつかれていた。
自分のことなど二の次で、己をないがしろにしてまで捜査に明け暮れる男が、治療を素直に受けるとは思えない。それゆえに事件を通して、物理的に近づくことにしたのだ。
「ジークはアビスこそ発症しなかったものの、そのミアズマの量はすぐに手当てが必要な状況でな。しかし、あやつは相棒の選択を受け入れられずに悩みながらも、私との会話の中で、自分なりに相棒を理解したいと、進むことをやめなかった」
堕ちていくのは簡単だ。けれど、ジークは自ら負の感情に向き合い、ミアズマも抑え込んでしまった。
「それは、あんたの言葉がジーク刑事の心を動かしたんだろ。あんたの言葉は図星を突いてくるから痛いけど、でも……そのままでいいんだって、そう言われてるみたいで……気持ちが軽くなるから」
自分の経験をもとに、クウガがそう言ってくれているのがわかる。
「だとしても、行動に起こすのは患者自身だ。自分の足で立ち上がるぬしやジークの強さは眩しく、いつまででも見ていたいと思う不思議な魅力があるゆえ、私はそばにいたいと思うのであろうな」
「……俺たちアビス患者たちにとっても、あんたは光だ」
クウガはなぜか、もどかしそうに言う。足元にいるウルフくんも、同様の眼差しで私を見つめている。その理由を考えていたとき――。
「なんだなんだ、浮かない顔して。俺が他の女と話してるから、妬いたのか?」
どかっと、空気の読めない男が目の前に座った。
「シャルロッテ、お前がいちばんだぜ」
「腹が減ったな。まずは料理を頼むことにしよう」
いつものように「つれねえな」と笑うジークを無視して、メニュー表に手を伸ばすと、それを横からかっ攫われる。
メニュー表を確保した隣の愛弟子を見上げる。〝わかってるよな?〟という視線が痛い。
「おいおい、なんのアイコンタクトだ?」
ぎょっとしているジークに、私はため息をつきながら頬杖をつく。
「私が予算を無視していろいろと頼むゆえ、それをあらかじめ阻止したのだ。なかなかやるであろう」
ぶうたれた物言いで皮肉をこぼし、クウガを手で差す。
「紹介しよう、こちらが我が家のお母さんだ」
ウルフくんは『子供みたいですよ』と注意してくる。下にも、お母さんパート2がいたな。
「不貞腐れていないで、そろぞろ食べたいものを言ってください。ジーク刑事も」
この場を仕切るクウガに、私とジークは手を上げて答える。
「肉以外にありえん」
「まずはビールとつまみだろ。あとはタバコで事足りる」
クウガは『私たちに回答を求めたのがバカだった……』と言いたげにフリーズして、
「シャルロッテはカプレーゼと、レモンオリーブのスパゲッティ」
問答無用でメニューを決めてしまう。
「肉は?」
ガンッとテーブルに手をついて抗議するも、クウガは目を閉じて、生意気に顎を上げる。
「昨日の夕食も肉、その前も朝から肉、そろそろ胃を休ませろ」
「私は若いから平気だ!」
「ジーク刑事も、タバコはご飯ではないですし、全部が週末の寂しいお父さんみたいなラインナップですよね」
私を無視して、鋭くジークを見据えるクウガ。死線を潜り抜けてきた敏腕刑事も、お母さんクウガの気迫には勝てないらしい。
「週末の寂しいお父さん……」
ショックを受けているジークも無視して、クウガは店員を呼び止める。
そして、ジークにはピザと野菜たっぷりのミネストローネを注文していた。そんな私たちを、ウルフくんは可笑しそうに眺めている。
「あー、クウガお母さんが料理を頼んでくれたことだし? 料理が来るまでの間、これからのことを話し合っておこうぜ」
そう言いながら、テーブルに新聞を広げるジーク。新聞の日付も、〝四年前の十二月二十五日〟だ。
「カウンターの綺麗なお姉さんがくれた新聞だ。これから過去の十二月二十五日が繰り返されんだろ。けど、もしその日の出来事に変化が起きるとしたら?」
クウガは、はっとしたような顔をする。
「新聞の内容も変わる?」
「かもしれねえだろ? だから、確認しておくに越したことはねえ」
皆で新聞を覗き込むと、【スラム街に娼婦狩り現る】という大きな見出しが目に入る。
「午後九時頃、2番路地で娼婦の遺体が発見されたらしいですね。それも、ここ連日……。被害者は皆、鎌のようなもので喉を切られていた……って、2番路地って、ジーク刑事の電報の内容と一緒じゃ……」
ジークは「ああ」と頷き、懐からタバコと電報を取り出した。気難しい顔でタバコに火をつけ、咥えると、【eta2lmoytCA9 ol e pm】と書かれた電報を新聞の横に並べる。
「とりあえず、午後九時に2番路地に行ってみるしかねえな」
「この町の地図なら、さっき服飾店で譲ってもらいました」
クウガがカバンから地図を取り出すと、ジークは「やるじゃねえか」と口端を上げる。私とウルフくんは我が子を誉められた親の気分で、笑みを交わした。
「この地図でいう路地は……ここか」
ジークは懐から手帳を取り出し、そこに挟まっていた赤ペンを取り出すと、口でキャップを開けて、目星を付けた場所を丸で囲む。
「こういう路地はスラム街になっていることが多い。麻薬や人身売買に関与した娼館……違法取引やら犯罪やらの巣窟だな」
地図を覗き込んでいると、料理が運ばれてきた。ジークのタバコの本数が増えてきたのを見かねて、私はさりげなくパフェを注文する。クウガたちはというと、
「ここ、迷路みたいに入り組んでますね」
この調子で、地図に夢中で気づいていない。
私たちは料理を口にしながら、2番路地を探す。
「さすがに……はむ、んぐんぐ……路地のひとつひとつに番号が振ってあるわけねえし、んぐ……」
ジークはピザを咀嚼しながら、今度はここからいちばん近い郵便社にマークをつけた。
「郵便配達員なら、道に詳しい。地図にない路地の番号も知ってるはずだ」
さすがは刑事、欲しい情報をどこで手に入れればいいのか、すぐに頭が回る。
だが、食事を終えたジークは、一箱空ける勢いでタバコをふかしている。
そこへ店員がパフェを運んできた。そこで初めて、「いつの間に……」とクウガが苦い顔をする。
私はふふんと笑い、パフェのポッキーを一本手に取った。そして、地図とにらめっこしているジークの口に突っ込んでやった。
「んぐっ、はふほっへ?」
私の名前を呼んだのであろうジークは、ようやく眉間のしわを緩める。
「相棒に会いに行く前に、肺を患いたいのか」
「……悪い」
ポッキーを咥えたまま、ジークは苦笑する。
自分でも焦っている自覚はあるらしい。
路地は、相棒が自分の家族の仇を殺した場所でもある。それと似たような場所で、このシュタインブルでも殺人が起きている。ジークの頭の中にあるのは、ふたつの疑念だ。
「あいつが関わってるのか? だとしたら、あいつはまた殺人犯を……だから、わざわざ電報を寄こしたのか? 罪を犯す自分を止めてほしくて……」
パキッとポッキーを噛んだジーク。折れたポッキーを持ち上げ、気難しい顔で見つめる。
「それとも、ユーシスを語る第三者の犯行? なんにせよ、今の段階じゃ、アビス災害と関わりがあるのかも断言できねえ」
行き詰まり、空気が重くなるのを感じ取ったクウガが「そういえば……」と思い出したように言う。
「町の人には、今日が何度も繰り返されてるって自覚はなさそうでしたね」
クウガの言うように、会う人会う人に『今日は何月何日ですか?』と繰り返し尋ねたのだが、皆が訝しそうに『聖夜に決まってるだろ』と答えた。ここで毎日聖夜が繰り返されていることに、少しも疑問を持っていないようだった。
「ここが災害発生区域になったのは、数日前だ。この町の人間ならともかく、それを知らずに町に足を踏み入れたやつもいたはずだ。そいつらなら、俺たちみてえに町の外と流れる時間が違うことに気づいてるんじゃねえか」
「貼り紙でもしておきますか? この町は過去の十二月二十五日に閉じ込められてる。そう思ってる人は、十二時にこのレストランに来るように、とか」
クウガの提案はなかなかだが、この町に足を踏み入れたときの周囲の様子を見るに、貼り紙は意味がないだろう。その考えをジークが代弁する。
「外と時間の流れが違うことに気づいてんなら、普通焦って町の入り口に戻ってくるはずだ。外に出られないか、必死になって試すのが人の心理だろ? だが、俺たちが町の入り口にいたとき、『帰れなくなった!』って錯乱してたやつはいたか?」
「そういう人はいませんでしたね。何度試しても出られなくて、塞ぎ込んでるとか……」
「災害が起きたのは、おそらく電報が届いた一週間前だ。数か月ならまだしも、たった一週間で外に出ることを諦めるってのも、おかしな話だろ? 俺なら、もう少し踏ん張るぜ」
つまり、そこから導き出される答えはひとつだ。
「俺たちを除いて、ここに入った人間は外と流れる時間が違うという違和感を抱かなくなる。そういう、つじつま合わせが起きてるのかもしれねえな」
「でも、なんで俺たちだけ……」
黙々とパフェを食べていた私は、考え込んでいるクウガの口にアイスを投入する。
なにすんだよ、という目で見てきたが、甘党のクウガが嫌がらないことは承知の上だ。
「そこまで難しく考えることでもないであろう。町は外の世界と明らかに遮断されている。それなのにもかかわらず、ジークには町から電報が届く。つまり、ジークはこの町に招かれた者なのだ」
「町が招いた人間だから、記憶が操作されないってことか?」
「そう考えるのが自然だろう」
愛弟子にアイスを食べさせながら答えていると、クウガがスプーンを持つ私の手首を掴む。
「なら、俺たちはなんでだ?」
「私とクウガはアビスにかかったことがある。ウルフくんも、幼い頃からアビス患者に触れる機会が多々あった。それゆえ、ミアズマの臭いが嗅ぎ分けられるようになった。アビスに免疫があることが、今回記憶操作の影響を受けなかった理由かもしれん」
「それなら、俺たちは繰り返される時間の影響も受けないってことか?」
「それはどうだろうな。記憶操作は私たち個人に向けられたものゆえ、耐性があれば影響を受けんだろうが……」
私はペンを持つジークの手を掴み、地図全体に丸を描く。
「町を過去に閉じ込める力は町全体に働いている作用だ。私たちの耐性の範囲外で起きたことは、防ぎようがない。ただ……」
町の時間を変えてしまうほどの力が、アビスにあるとは初耳だ。
発生源のアビス患者がそれほど特別ということなのか、はたまた協力者がいるからなのか、そもそも今の仮説自体が間違っているのか。過去の十二月二十五日を繰り返しているのに、電報が一度しかジークに送られていないのも気になる。
言いかけてやめた私に、皆が視線を注いでいるのに気づいた。
「なにはともあれ――」
パフェのイチゴを摘まみ、私はウルフくんにそれをあげる。
「招待状が指し示す場所へ、赴くとしようではないか」
レストランを出たあと、私たちは郵便社へ行き、2番路地の場所を割り当てた。
路地周辺や人の出入りを観察して回りながらその時を待ち、やがて電報に記されていた時間が近づく。
路地に入ると、木製の細い扉がいくつもあり、その前に娼婦やガラの悪いドアマンが立っていた。おそらく、その扉の向こうには娼館や後ろ暗い取引現場があるのだろう。
「ねえ、お兄さんたち、うちに寄っていかない?」
娼婦たちがすかさず、クウガとジークの腕にしなだれかかる。その身なりは薄汚れている。下層労働者らを相手に、路上で身を売る最下級の娼婦であることは一目瞭然だ。
「悪いな、また今度」
そう軽くあしらっているジークとは対照的に、クウガは「そういうのは興味ない」と馬鹿正直に答えて、腕を振り払っていた。
彼らのように整った容姿の男が、ここを通るのは珍しいのだろう。
「今日は美形ばかり通るのに、誰も足を止めてはくれないわ」
後ろで娼婦たちの残念そうな嘆きが聞こえる。
「ジーク、ぬしの相棒は美形なのか?」
「ああ、俺の次にな」
しれっと自画自賛するジークを無視して、私たちは娼婦に誘われ、ドアマンに睨まれながら奥へと進む。
狭い路地はいくつも曲がり角があり、夜だと余計に方向感覚を見失いそうだ。おまけにどんどん人気がなくなってきた。
聖夜を祝う声や音楽が遠ざかり、路地には雪解け水が滴り落ちる音と、私たちの靴音だけが響いている。
沈んだ湿気に満ちた路地は入り組んでいて、まさに迷路。不気味に点滅するガス灯だけでは先が見えないが、ふいにウルフくんの耳と尻尾がぴんと立った。
『シャルロッテ様、血の臭いです』
「会場に到着したようだ」
私のひと言で、クウガとジークが拳銃を構える。
ずるずると重いなにかを引きずるような音と、靴音が近づいてきた。前の暗がりから現れたのは、スーツを真っ赤に染めた男。
「なるほど、確かに美形だ」
笑みを浮かべつつ言うと、私の前にいたジークが震える声で呟く。
「……ユーシス」
クウガもウルフくんも、驚いたように目を見張る。
暗闇から現れたのは、ジークのかつての相棒――ユーシス・ウォルクだった。
しかも、ユーシス・ウォルクがその襟元を掴んで引きずってきたのは、気味の悪い白の仮面をつけた全身黒ずくめの死体。
「ジーク、来てくれると思ったよ」
ずっと探していた相棒が目の前にいることに衝撃を受けながらも、ジークは取り乱したりしなかった。
「電報を送ってきたのは、お前か?」
「ああ。お前なら、あのアナグラムをすぐに解けると思ってたよ」
「……なんで、俺を呼んだ」
ジークは押し殺すような声音で問う。
「この現場を見せたかったから……かな」
「お前が殺人鬼を殺した現場をか?」
ユーシス・ウォルクの黒い斑点のある青色の右手から、白い粘液が垂れている。あれが、ジークが話していた猛毒のカエルの手か。
普通、まっとうな道を歩んでいる相棒には見られたくないものだろうに、ユーシス・ウォルクはあろうことか、ジークに自分の殺人現場を見せたかったと言う。さすがのジークも、戸惑いを隠せないようだった。
「ふざけんな。俺はお前を見つけたら、止めるつもりだった」
「だからだ。だから、お前を呼んだんだよ、ジーク」
乱暴に死体から手を離したユーシス・ウォルクは、転がった死体を冷ややかに見下ろす。
「あの瞬間から、僕の中で正義の形が変わったんだ。目には目を歯には歯を、悪には悪を。こんなやり方でしか、裁けないものもある」
「……虫一匹だって殺せないような男だっただろ。あの瞬間から、お前の中でなにかが変わっちまったとしても、根本はそう変えられるもんじゃねえ。だとしたら、相手が悪人だろうが、裁く瞬間にお前は傷つく」
「そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ、ジーク」
ユーシス・ウォルクの無機質な双眼に悲しみの色が混じったとき、地面が大きく揺れた。滴る雪解けの雫も、剝がれ落ちる景色も、重力に逆らって浮上する。
「「シャルロッテ!」」
地面がなくなり、両脇にいたジークとクウガが私の腕を掴む。
私たちの身体も宙を漂い、今日という日が崩壊していく中で、一羽のコウモリが目の前を過っていくのが見えた。
「お前がわかるまで、何度でも繰り返そう、ジーク」
世界が暗転してから、体感的には数秒で目が覚めると、私たちは町の入り口に戻っていた。
空は明るく、粉雪が降っている。
「寒っ……!」
ジークが自分の腕をさすりながら、身を縮こまらせた。
「私たちはどうやら、コートを買う前の時間に戻ったようだな」
「じゃあ、町に入ったばかりの頃に戻ったってわけか」
周囲を見渡せば、パタパタと頭上をコウモリが飛んでいる。
「ぬしは傍観者なのか? それとも共犯者なのか……答え合わせが楽しみだな」
コウモリが消えていった方角を眺め、ぼそりと呟く。するとウルフくんがそばにやってきて、私を見上げた。
『気になることでも?』
「……ああ、知り合いを見かけてな」
ウルフくんはすぐに誰のことか察したようで、その眼差しが険しくなる。そのとき、ジークがげんなりした様子で言う。
「ともかく、またコートを買いに行くところからだな」
昨日、正確には一回目の十二月二十五日にも来たレストランにやってきた。
「この調子で、あと何回今日をループするのだろうな。このレストランのメニューを制覇するまで、いてもいい。かかる金は変わらんのだからな」
「不謹慎だぞ」
ウキウキしながらメニュー表を独占していると、隣にいたクウガに奪われる。唇を突き出しながら、私は店内に視線を走らせる。
奥の窓際に老夫婦、カウンターに新聞を読んでいる年配の男性客、私たちの後ろの席に若い女性客がふたり。それから、カウンターの美女店員。店にいる店員も客も、ループする前と変わらない。
「そもそも、制覇しなくてもいいんじゃないか。レストランを変えれば」
「店を変えてはダメなのだよ。さて、それはなぜなのか、考えてみるといい」
弟子を鍛えるいい機会だと、私は答えをやらなかった。クウガが首を傾げたとき、ジークが席にどかっと腰かける。
「【モリーパークに誘拐犯ピエロ現る】」
美女店員から貰った新聞をテーブルの上で開いたジーク。ループする前と同じように、私たちは顔を突き合わせて新聞を覗き込んだ。
「見出しが変わってる……! 昨日はスラム街に娼婦狩りが出たって記事だったよな」
驚きの声をあげるクウガに、ジークも頷く。
「今度は公園で遊ぶ子供を狙った誘拐事件、それも日中堂々とだ。目撃情報によると、ピエロのマスクを被った男が行方不明になった子供の手を引いて、どこかへ連れていくのを見たやつがいるらしい」
ジークは懐からタバコを取り出した。
「クウガ、地図を貸してくれ」
クウガが「はい」と町の地図を広げると、ジークはモリーパークの位置を指でとんとんと叩く。
「モリーパークは、町の中央にあるでかい公園だ。周辺に住宅街があることからも、公園に多くの子供が集まるのが想像できる。犯人は初めから、この公園に目をつけてたってことだな」
ジークはタバコの箱の角を、軽くテーブルに打ちつけた。タバコが一本飛び出し、箱を持ち上げて、それを咥える。
「当然、犯行前に下見に来てるはずだ。公園の常連なら普段見ない人間が公園にいれば、誰かしら気づいてもいいはずだが、公園に不審者がいたっていう目撃情報はねえ」
タバコに火をつけ、ふーっと煙を吐き出したジーク。その灰色の煙は私たちの間に立ち込め、目に見えるものすべての輪郭がぼやける。
「犯行時もピエロなんて目立つ格好をしてんのに、なぜ逃げおおせた?」
そう言って、ジークがカウンターの美女店員に向かって手を上げた。シリアスな空気をぶち破るように、「あ、コーヒー三つ」と浮かれて注文する。マイペースな男だ。
「タバコにコーヒー、ぬしは早死にしそうだな」
「シャルロッテが甲斐甲斐しく面倒見てくれりゃあ、長生きできんだけどな」
聞こえなかったふりをして、私も美女店員に向かって手を上げ、「あ、マンゴースペシャルパフェ三つ」と注文する。すると、上げた手をクウガに下げさせられた。
「今のはなしで。軽くホットサンドみたいなのがあれば、それを三つ」
ジークのときのように、見逃してはくれないらしい。店員は困惑気味に「かしこまりました」と答える。
クウガを恨めしく思いながら見るも、無視されたので、半ばやけくそに「ほら、とっとと続きを話せ」とジークに八つ当たった。
「下見のときの目撃情報がないのは、犯人が常連ですら〝無意識に見ないようにしている存在〟に変装していたからだ。ピエロの格好はあくまで子供を引き寄せるためのトラップ。子供を捕まえたあと、再びその存在に紛れる」
先に運ばれてきたコーヒーを啜ったあと、ジークは窓の外に視線をやる。そこには路上に座り込む、身なりが薄汚れた老人がいる。
「自然に下見ができ、かつ子供を捕まえたあと、公園にいてもおかしくない人間。なんとなく目を逸らしてしまう……浮浪者とかな」
ジークが前に向き直ると、ホットサンドが運ばれてきた。美女店員に「サンキュー」と無駄な愛想を振りまき、ホットサンドにかぶりつく。
「んぐ……ん、とはいえ、ずっと浮浪者をしているとは思えねえ。最近、公園に住むようになった浮浪者さえ特定できりゃあ、だいぶ容疑者を絞れる。そんでもって……」
地図上の『シリアパーク』と呼ばれる広場を指差したジーク。
「次に狙われる公園は……ここだな。シリアパークは、住宅街に囲まれてる。モリーパークと似た立地だ」
ジークが見解を口にしたとき、ドアのベルが鳴った。店にやってきた配達員は、誰かを探すように店内を見回し、こちらへまっすぐ歩いてくる。
「電報です」
「あ? 俺にか? 今日はイレギュラーなことばっか起こるな」
ジークは灰皿にタバコを置き、電報を受け取ると、内容に目を走らせた。
「お前、どうして俺がここにいるってわかった」
「え? この店にいる三人組の客のうち、黒いスーツを着た男に渡せと」
「……そうか。ところで、それを頼んだのは男か? それとも女だったか?」
「男でした」
そう言って、頭を下げて去っていく配達員。ジークはというと、くっと喉の奥で笑い、電報をひらひらと揺らす。
「電報は伝えたい文字を符号化して、電気信号に変えて送るものだ。文字を送るツールだぞ。送り主が電報に書かねえ限り、相手が男か女かなんてわからねえ」
「え……じゃあ、さっきの配達員は……」
クウガが今しがた配達員が出ていったドアを振り返る。
「電報の送り主が雇った偽物の配達員だな。電報にも、懇切丁寧に性別までは書かれてねえし、こんなことをしやがるのはひとりしかいねえ」
ジークは電報を私たちに見せた。そこには【PtrCmn oci ekSal pw a3naymr o is】と書かれている。
「Clown comes at 3 pm in Syria Park……『シリアパーク午後三時にピエロ来る』。これから三時間後だな」
時計をちらりと見たジークは、前髪を掻き上げて天井を仰いだ。
「この電報を送ったの、ユーシスさんですよね。その日の出来事が変わるとしたら、新聞の内容も変わる……」
そう言いかけたクウガが、勢いよく私のほうを向いた。
「だから、レストランを変えなかったのか!」
ようやく、先ほどのお題の答えを見つけたようだ。
「そういうことだ。私たちが繰り返しこのレストランに現れれば、向こうは私たちの居場所を特定しやすいからな」
「ユーシスの狙いは、なんだ……?」
火をつけたまま、灰皿の上に置きっぱなしにされていたタバコに手を伸ばずジーク。私が灰皿を遠ざけると、ジークはこちらを見た。
「本人が言っていたではないか。自分が罪人を殺す瞬間をぬしに見せたいと」
「その理由がわからねえ。普通、相棒には見られたくないって思うもんじゃねえか?」
「ぬしが、あやつにとって特別だからだろう。ぬしにだから、理解してほしいと思っている。それに気づけぬ限り、何度でも相棒は殺人を繰り返すぞ」
「それなら、俺はあいつを止める」
ジークが決意を込めるように拳を握るのを、ちらりと見やる。
「なぜだ? ユーシス・ウォルクはそれを望んでおらぬ。悪には悪を……あやつなりのやり方で裁きを下し、正義を貫いているだけだ」
「こんなやり方がまかり通るんなら、警察いらねえだろ。あいつは、他の殺人鬼を利用して、家族を奪われた復讐を繰り返してるんじゃねえのか? 町の人間まで巻き込んで……」
「ぬしは、あやつが間違っている理由ばかり探しているようだ。あやつを止める、正当な名目が欲しいのであろう」
ジークの纏う空気が、出会った頃のように刺々しくなるのを肌で感じる。それを察知してか、クウガが「そこまでに……」と間に入ろうとした。
しかし、ウルフくんがクウガの服を咥えて引っ張り、制止する。
「どんな理由があるにせよ、罪は法で裁かれるべきだ。俺たちはその一線を越えちゃならねえんだよ。だから俺は、向こうが殺す前に事件を解決する」
頑として譲らないジークに、私は「そうか」と返し、コーヒーを飲む。
「ここではやり直しがきくゆえ、いくらでも繰り返せ」
日中のシリアパークパークは、ジークの読み通り親子連れが大勢いた。
まずは浮浪者に聞き込みをすると言い、ジークは単独でどんどん先へ行ってしまう。そのあとをのんびりと追いかけていると、クウガが隣に並んだ。
「ここではやり直しがきく、いくらでも繰り返せって……遠回しに、ジーク刑事のやり方じゃ解決できないって言ってるのと同じだろう? なんで、あんなことを言ったんだ?」
「言葉の通りだ。ジークは事件を解決することに躍起になっているが、私たちはアビス災害を止めに来たのだ。その目的をジークは見失っておる」
すでに豆粒ほどの大きさになっているジークを眺める。
「立ち止まっていたくないのであろうな。なにもできない、は、なかなか堪える」
私もそうだ。〝あれ〟になにもしてやれず、置いて行かれた。ひとり残されてもなお、生きていかなければならない苦しみを少しは理解できるつもりだ。
「ここは過去に閉じ込められた町。ジークもまた、相棒を失った過去に囚われておるのだろうな。出会った頃の『やけっぱちおじさん』に戻ってしまっている」
広場の時計台を見上げながら、くるくると回る。
ウルフくんとクウガは顔を見合わせて、
「やけっぱち……」
『……おじさん?』
と訝しそうに、揃って首を傾げた。
「正義の形もいろいろあるのだと、そう気づいたはずなのに……またそこへ戻るか。まあ、過ぎ去った時間に囚われてしまうのもまた、人間らしいがな」
足を止めた私は広場の時計の針に指をかざし、くるりと一周回す。
「心のどこかで、ずっと納得できずにいたのだろうな。自分の知る相棒でなくなっていくことに」
私も、私の知る〝あれ〟の一面を知るたびに怖かった。誰よりも理解していると思っていた相手が、離れていってしまいそうで。
「でも、人も季節も移り変わる。関係もくっついては離れを繰り返す。これはジークにとって,それを知るいい機会になる」
「あんたは……相手のためだと思えば、言葉を飾らない。そういうところ、誤解されてきたんだろうな」
クウガの声音に憂いが滲み、私は驚く。
「本当にウルフくんに似てきたな」
ウルフくんもよく、『シャルロッテ様が誤解されてしまわないかと、心配しているのです』と言う。
『クウガがいれば、私も一安心です』
和やかな空気が流れたとき、女が「メイミ―」と叫びながら私たちの横を素早く通り過ぎていく。
広場の時計は午後三時を回ろうとしている。まさかと視線を交わらせたとき、案の定ジークが女を呼び止めた。私たちは頷き合い、駆け足でジークに合流する。
「娘がいなくなったんですっ、それで誘拐されたんじゃないかって……っ」
母親が泣き崩れる横で、ジークは荒々しく前髪を掻き上げる。
「このタイミング……無関係って考える方がおかしいだろ! くそっ、どこだ……?」
厳しい目つきで周囲を見回すジーク。ここまで余裕がないのは、相棒が殺す前に自分が捕まえたいからなのだろう。
「ピエロは子供を引き寄せる罠。必ず、子供を運ぶための車かなにかがあるはずだ。犯人はそれが見える場所まで誘導したあと、遊びに見せかけて自分で乗るように指示する。無理やり連れ込んだら、目立つからだ」
「ジーク、落ち着かないか」
私の声も聞こえていないのか、ジークはぶつぶつと推理を続ける。
「子供が自分から車に乗ったあと、自分は公園のトイレかどこかでピエロの変装を脱ぎ、浮浪者に扮した。何事もなかったように、子供を乗せた車を走らせ、誘拐する……」
ジークの話に耳を傾けていると、ふいにガタガタと音がした。遠くのほうに、箱型の荷車を押しながら公園の出口へ向かう浮浪者を捉える。箱の上には雪の除けか布がかけられていた。
「なるほどな。車には違いねえ」
さりげなく私たちが近づいていくと、それに気づいた浮浪者が荷車を捨てて逃走する。
「逃がすか!」
ジークが走り出す。この中で最も足が速い助手を振り返る。私の視線を受けたウルフくんは、ぐんぐんと先頭のジークを追い抜いて、浮浪者の背に飛びかかった。
浮浪者は「ごふっ」とうめき、うつ伏せに勢いよく倒れ込む。
「は、離せえっ」
浮浪者は暴れるが、ウルフくんはそのうなじに噛みつき、獲物を離さない。手加減はもちろんしているだろうが、大人の狼に人間が敵うはずもない。
ジークが荷車の布を取ると、そこには十歳くらいの少女がいた。「かくれんぼは終わり?」と、不思議そうにジークを見上げている。
「ああ、終わりだ。母さんのところに帰ってやれ」
ジークに引っ張られて荷車から出た少女は、母親のもとへと走る。そばについていたクウガは、母親が泣きながら「メイミーっ」と娘を抱きしめるのを見届けて、こちらへやってきた。
「やっぱし、てめえだったか」
荷車に手を突っ込んだジークは、少女の足元に落ちていたのだろうピエロのマスクを持ち上げる。
「命が惜しけりゃ、自首しろ。でねえと、てめえは殺される」
「ふ、ふざけるなあ! 僕はっ、ただみんなと遊びたかっただけなんだ!」
ジークはウルフくんの下で、うつ伏せにジタバタと暴れる誘拐犯のそばに行くと、その顔の前でしゃがんだ。
「遊んだあと、子供はどうした」
「皆、僕と遊びたくない、帰りたいって泣くんだ。だから悪い子は、処分したよ」
「殺したんだろ。命を奪っておいて、今さら遊びたかっただけだ? その言い訳が通用するとでも思ってんのか」
むんずと誘拐犯の前髪を掴んで、顔を上げさせるジーク。誘拐犯はというと、鼻水と涙を垂らしながら泣きべそをかいていた。
「てめえみたいなクソ野郎、俺だって助けたかねえがな。それでも、お前は法で裁かれるべきだ。でねえと、皆がそれぞれの価値観で善悪を決めつけて、人を殺してもいいことになっちまう」
それは誰に宛てた言葉か。どこかでこの光景を見ているだろう相棒に向けてか、それとも自分に言い聞かせているのか。おそらく、そのどちらもだ。
「人間、誰だって感情に左右されるもんだ。やっていいことと、やっちゃならねえことの境界線が曖昧になれば、欲や私怨に振り回されて犯罪が増える。だから、法が存在すんだよ。俺はこの世界の秩序を守るために、心を殺してでも法の番犬やってんだ」
ジークはズボンのポケットから手錠を取り出し、誘拐犯の手にかけると、警察に引き渡そうと立ち上がる。
そのとき、カーッとカラスの鳴き声がした。顔を上げれば、広場の空を覆うほどのカラスが、目を赤く光らせて渦巻くように飛んでいる。
公園のあちこちで悲鳴があがった。クウガが「ここから離れて!」と、娘とその母親の背を押して、遠くへ逃げるよう促す。
「な……んだ、あれは……」
ジークは頭上にある黒い渦潮を仰いで、目を見張っている。私はジークの腕を掴み、「ウルフくんも下がれ!」と言って走り出す。その瞬間、カラスの大群が一本の針のように、一直線に誘拐犯のもとへと飛んでいき――。
「ぐああああああああああっ」
その身体に無数のクチバシを突き刺さした。それどころか、嫌な音を立てて肉を喰らう。その羽の風圧で、私たちは後ずさった。
「これも……あいつが……?」
わかっているのに、ジークは問いかけてくる。私たちは、もう見ているしかなかった。あのカラスの群れに突っ込んでいくのは、自殺行為だ。
「ユーシス……お前の憎しみは、ここまで深いのか……? こんなの……」
「理性のない化物と同じ、か?」
カラスの群れの中から声がした。カラスの群れが二つに割れ、そこからユーシス・ウォルクが現れる。ジークの言葉を先回りしたのは、ユーシス本人だった。
「僕に理性がないほうが、ジークにとっては都合がいいんだろうね。でも、僕は冷静だ。理性を持って、自分の考えで、彼らを罰している」
それを聞いたジークが苦々しい表情で、ぐっと息を詰まらせる。
ユーシス・ウォルクは相棒の顔を一瞥したあと、手で軽く払うような仕草をした。すると、カラスの群れが一斉に空へと戻っていく。
地面に倒れていたはずの誘拐犯の姿はどこにもない。肉片すらも残っておらず、破れた服だけが落ちている。
ユーシス・ウォルクの目的が達成されることがループのトリガーなのか、また世界の崩壊が始まった。
「この世界の秩序を守るため、法の番犬になる、か。ジーク、お前は正しいよ」
景色が剥がれ落ちていく中、こちらを見たユーシス・ウォルクの瞳は、赤くぎらついている。その恐ろしいまでに迷いのない目に、ジークは息を呑んでいた。
「でも、誰より法を厳守してきた僕は、その法に家族を守ってもらえなかった。僕の信じるものは、その瞬間から変わったんだ。失っていないお前と、失ったお前の正義が交わらないのは、必然なんだよ」
「……! 他のやつらならともかく、俺と……目指すもんが違うっていうのかよ!」
落胆と悲しみに暮れるジークの言葉は、かつて私が〝あれ〟にかけたものと重なる。
『……今度は、私との違いを探しておるのか? 他の者たちならともかく、私との違いを』
どれだけ近くにいても、どれだけ親しい関係でも、全部を分かり合うことなど不可能なのだ。
「ユーシス! なんとか言いやがれ!」
ジークの悲痛な叫びを最後に、二回目の十二月二十五日が終わった。
町の入り口で目が覚めると、私たちはまたあのレストランを訪れていた。
だが、ジークは折り畳まれた新聞をぼんやりと見つめたまま、動こうとしない。
「ここではやり直しがきく、いくらでも繰り返せ……シャルロッテ、あの言葉はパンチが効いてるな」
「そう思うなら、私の言葉の意味が理解できたということだな」
クウガは気を利かせてか、静かにコーヒーを注文し、私たちの会話を邪魔しないように見守っていた。
「ああ、やり直せることなんて、結局……なにもなかったんだ」
自分を嘲るように笑い、ジークは目を伏せる。
「何度、未来を変えようとしても、あいつの大事なものは戻ってこねえ。失う前のユーシス・ウォルクは、もういねえんだ」
コーヒーが届き、ジークはカップを持ち上げ、底の見えない黒の水面に視線を落とした。
「冷静で温厚で、いつも余裕があって……俺の歯止め役で。そういうあいつのままでいてほしかった。けど……」
ジークはコーヒーを飲まずに受け皿に戻す。
「それは俺が望むあいつだ。変わらないでほしいっていう期待を、俺はずっと……あいつに押し付けてきただけだった」
「家族、親友、恋人、相棒……近い存在だからこそ、すべてを理解していて当然、すべてを肯定してほしい、そう思うものだ」
私はコーヒーに口をつけた。口内に広がる苦みは、遠くにしまい込んでいたはずの過去を蘇らせる。
「ぬしは……あやつが家族を失い、慟哭する瞬間を目の当たりにした。そのとき、ぬしの心も深く傷ついたのだ。そして、相棒が壊れた姿を見て、否定せずにはいられなかった」
「こんなのは、ユーシスじゃないってか?」
「そうしなければ、無力感に苛まれ……自分が立っていられなくなりそうだったのであろう?」
「シャルロッテには、お見通しか」
ぎこちなく笑うと、ジークはタバコを咥えながら前髪を?き上げる。
焦っているとき、落ち着かないとき、悩んでいるとき、ジークはタバコの本数が増えるか、こうして前髪を?き上げる。
「失っていない人間と、失った人間の正義が交わらないのは、必然っての……堪えたな。俺の正義は俺自身のものでしかない。あいつには、あいつの正義があるんだって、そう伝えようとしてたんだな」
「ユーシスは律儀な男だな」
ジークはふっと笑みをこぼし、「ああ」と頷いた。
「時が止まるということは、先に進めないということだ。ユーシス・ウォルクは、ぬしに黙って先に時間を進めることも、新しい道を歩き出すこともできなかった。ぬしがあやつの特別ゆえに」
「あいつは、過去の自分を追いかける俺に、わかってほしかったんだ。だから電報を寄こした」
ずっとそばに在ると思っていたものが離れていく。それは心の一部が欠けてしまうような感覚だ。でも、それでも、私たちは自分の道を歩いていかなければならない。大切な人がいない時間を生きていかなければならない。人生を終わらせる覚悟がないのなら。
「あいつは、自分のために考えを変えてくれとは、一度も言ってねえ。ユーシスは、自分の信じるものが変わって、別の道を歩き出すことを理解してほしかっただけだ。きっとこれは……別れの挨拶だ」
覚悟を宿したインディゴの瞳は、寂しげに天井を見つめている。
「俺の正義は……あいつからしたら模範解答なんだろうな。失ってない人間の綺麗事なんだろ。それでも俺は……自分の考えを変えられねえ」
相棒と一緒にいるために、自分の価値観を捻じ曲げることなどできない。
自分のために他人を変えることも、他人のために自分が変わることも、簡単ではない。どこかで必ず、我慢が必要になる。それが心のひずみとなって、いつか必ず耐えられなくなる。
「いいんじゃないですか、ジーク刑事はそのままで」
ずっと黙っていたクウガが、おずおずと口を挟んだ。
「綺麗事は、曇りなくまっすぐに相手の胸に届く。俺にそう言ってくれた人がいます」
ちらりとこちらを見るクウガに、私は笑みを返す。
「模範解答だろうと、ジーク刑事の中にこれが俺の信じる道だって、一本の軸があるから、ジーク刑事は迷わない。その姿に、力を貰える人だっているはずです」
「クウガの言う通りだな。そして、ユーシス・ウォルクもぬしも、すべてが変わってしまったわけではないと思うぞ。その一本の軸の芯には、お前たちが共に築いてきたものも組み込まれているはずだ」
ジークは「え……」と目を丸くし、私たちを見る。
「ユーシス・ウォルクは、人を殺して平気でいられるような人間ではないのであろう? だが、罪人を幾度となく手にかけた。それでも自我を保っている。あれだけの絶望を抱えながら、ただ暴れるだけの怪物になり果てていない。それはなぜだと思う」
「それ、は……まさかあいつ、まだ……警察官なのか? 殺人犯を殺すのも、大切な人を失う痛みを、もう誰にも経験させないために……」
「ぬしは、四年前に私と話したとき、それに気づいていたはずだ。だが、人間は何度でも過去の沼にはまり、足を取られてしまうもの」
マドラーでコーヒーの中をぐるぐると掻き混ぜながら言えば、ジークは「そうだな」と答えて、しゃんと胸を張る。
「俺たちの時間を、動かす時が来たんだな」
私は金髪のウイッグと真っ赤な口紅をつけ、ひとりで路地を歩いていた。
だが、聞こえるのはふたりぶんの足音。この不穏すぎる状況に至るまでを簡単に説明するとしたら、こうだ。
今日を終わらせるため、ジークが新聞を開くと、【死体を愛するシリアルキラー現る!】という見出しがあった。スラム街に屍姦された若い女の死体がごろごろ転がっていたらしく、犯人は死体愛好家によるものかと騒がれているという。
ジークは被害者家族への聞き込みで、犯人が毒牙にかける女の特徴の共通点を見つけた。『長い金髪で、赤い口紅をつけた若い女』……まさに、変装している今の私のような女だ。
被害者の住まいから、犯人が獲物を捜す範囲を絞り、私たちはまず派手な若者が集まるバーに目をつけた。
そこで犯人好みの格好に変装した私がうろつき、わざとマークさせ、人気のない路地へ入る。その結果、餌にまんまと釣られたシリアルキラーが、私をつけてきているというわけだ。
クウガもウルフくんも、私が囮になることに断固反対していたが、ジークの作戦を聞いて、渋々ながらも成功率は高いと頷いた。
次の角を曲がれば、クウガが待機している。後ろのシリアルキラーが縄にかかるのは時間の問題。
しかし、イレギュラーはつきものだ。後ろのシリアルキラーが、一気に距離を詰めてくる。
ジーク曰く、必死に自分から逃げる女を捕まえて、暴行を加えることにも興奮を覚えるらしい犯人。足音で私を怖がらせていたのだろうが、なかなか反応がなく、しびれを切らしての行動だろう。
すぐに曲がり角に向かって走るが、男は想像以上に足が速かった。あと一歩のところで、捕まりそうになった時――。
「先輩!」
クウガの声がして、すぐに伏兵のウルフくんが飛び出してくる。
「ぐああああっ、なんだ、この犬!」
ウルフくんに腕を噛まれた犯人が、その場に倒れ込む。クウガがこちらへ走ってきて、私を腕の中に確保した。
「あんた、怪我は」
「優秀な助手たちのおかげで、この通り無事だ」
安心させるように笑い返せば、こつこつと靴音が近づいてくる。暗がりから現れたのは、犯人の後ろをつかず離れずの距離で追っていたジークだ。
「よう、クソ野郎。俺の女をストーカーしようなんて、命知らずにもほどがあんだろ」
酷薄な笑みを浮かべつつ、やってきたジークが、犯人の背中を強く踏みつける。「ぐへっ」とうめく犯人を、ジークは無感情に見下ろした。
「俺に捕まっといたほうが幸せだぜ」
「私は、ただ彼女に話しかけようとしただけですよ。私がストーカーをしたっていう証拠でもあるんですか?」
まだしらを切っている犯人に呆れつつ、私はウイッグに手をかける。
「この金髪とルージュに釣られてきたくせに、よく言う」
ウイッグを外し、口紅を指先で拭いながら嘲笑ってやれば、犯人は顔を紅潮させて「騙したのか?」と憤慨した。
「騙されたとぬしは思うのだな。ということは、ぬしの目当てははやり、金髪で赤い口紅をつけた若い女というわけだ。私たちに会えて幸運だったな、死体好きのシリアルキラー」
ぐっと歯を噛み締めるシリアルキラーは、「どこが幸運なんですか!」と喚く。
「それは今にわかる」
ジークはそう言い、道の先にある闇を見つめた。バタバタと近づいてくる羽音に、ジークは額から冷や汗を流しつつ、口端を吊り上げる。
「おら、てめえを喰らいに来たぞ。死のカラスが」
無数のカラスを引き連れた、巨大な赤い瞳のカラス。その巨体で細い路地の壁を削りながら、まっすぐこちらへ飛んでくる。
「おら、死にたくなきゃ立ちやがれ!」
ジークが犯人の首根っこを掴み、間一髪のところで大きく横の細道に飛び込んだ。
巨大なカラスはカエルのような足を地面につき、ぐるりと方向転換する。カラスが足をついた地面には粘液が付着しており、生えていた雑草が瞬く間に腐っていた。
カラスが翼を広げて、威嚇するように鳴く。その巨体が動くたびに破壊される建物の破片が、翼の起こす突風に混じって飛んでくる。
「擬態化……?」
クウガが私を庇いながら声をあげる。
「それも、自分の意思で自由自在に擬態化しておるようだな」
「そんなことができるのか?」
「ユーシス・ウォルクの精神力の強さだ。あやつにぶれない信念があるからこそ、成せる技なのであろう」
そんな会話をしている間にも、カラスは再びこちらへ飛んできた。しかし、カラスは私たちには目もくれず、ジークたちを追いかける。
私はその場にしゃがみ、トランクケースを開け、キュアガンに銃弾を詰めながら言う。
「クウガ、ウルフくん、よく聞け。ユーシス・ウォルクの狙いは、ジークが連れて逃げているシリアルキラーだ。不本意ではあるが、あやつをぬしたちが保護するのだ」
「わかった」
自分の役目を理解したクウガは、キュアガンではなく、護身用の拳銃のほうをホルスターから抜く。
「相手はシリアルキラーだ。この騒ぎの隙をついて逃走を図るだろう。気をつけるのだぞ」
『シャルロッテ様はどうなさるのですか?』
「向こうはカラスの援軍までいるのだ。私もジークに加勢するさ」
立ち上がって、キュアガンの銃口を見上げる。そして、私たちは頷き合い、それぞれの役目を果たすために駆け出す。
私はジークのあとを追いかけたクウガたちに背を向け、路地の階段を上がった。そして、二階からジークたちのあとを追う。
「ジーク!」
上からその名を呼び、私は自分のキュアガンを投げた。それを走りながらキャッチしたジークのところへ、クウガたちも合流する。
「ジーク刑事! 犯人は俺たちが守るんで、ジーク刑事はユーシスさんを!」
「ああ、恩に着る!」
ドンッと、小路にいるクウガに向かって犯人の背を蹴り飛ばすジーク。クウガが犯人の身柄を確保するのを見届けると、ジークはキュアガンを構える。
「借りるぜ、シャルロッテ」
シードブレットをユーシスが通るだろう道に撃ち、続いて銃口を天に向ける。
そして、対象がこちらに向かってくるのに合わせ、深く静かに一声を奏でた。優しく降り注ぐ雪のように、白く純真な唄をうたう。
私の声に目覚めた種から、直立に伸びる茎。笹に似た葉を伸ばし、青紫の蕾をつける。
『これは……リンドウ?』
ユーシス・ウォルクは翼をはためかせ、花の上で止まる。その一瞬を見逃さず、ジークは二発目を放った。黄緑色に澄んだジュエリーブレットは天へと上り、四方に夜の闇にすら霞まないオリーブ色の輝きを放つ。
「リンドウは、晴天のときだけ花開く」
高台から話しかけると、赤い目がこちらを見上げてくる。
「そして、頭上から降り注ぐペリドットは、太陽の宝石。今宵は特別に、ぬしたちのためだけに、その花を咲かせよう」
ゆっくりと花弁を広げていくリンドウを眺めながら、ユーシス・ウォルクはぽつりとこぼす。
「こんな小さな町の中だけでも、こんなにも悪が存在する。その犯行の証拠を探して、裏付けて、殺さずに捕らえるまでに、一体どれほどの被害者が出ると思う?」
「だから被害者が出る前に、お前が殺すってか」
はっと笑い、ジークは相棒に向き合う。
「俺は、バカがつくほど優しい相棒に、やっぱ殺しなんてさせたくねえ。そういう自分を、俺は変えられねえんだ。けど……お前もそんなに変わってねえよ」
ユーシス・ウォルクは、不思議そうにジークを見つめる。
「ヒーローが、ダークヒーローになっただけだ。俺と同じようにな」
ジークが笑うと、ユーシス・ウォルクの目が見開かれたように見えた。
「僕は優しくなんかない。もう、迷わず殺せる」
「ただ殺したいんじゃねえだろ。守るために殺すから、てめえは優しいって言ってんだよ。つーわけで、決めたぜ、ユーシス!」
勢いよくジークに指をささされ、ユーシス・ウォルクは圧倒されるように微かに身を仰け反らせる。迷わないまっすぐな人間の眼差しや言葉には、どんな怪物も勝てない。
「お前は闇の中を行くって決めちまった。なら俺は、お前が殺す前に犯人をとっ捕まえてやる」
「僕が殺す必要がないように? お前は、相変わらず根性論だな」
その言葉は皮肉ではない。少し和らいだ声音に、少しの呆れと喜びが滲んでいる。
ユーシス・ウォルクはふっと笑うと、大きな翼で自分を包み込んだ。そして、黒い羽根をまき散らしながら、人の姿へと戻る。
「うるせえ! 俺は、お前よりも先に真相に辿り着いてやるって言ってんだ」
リンドウの花畑の上で向き合うふたりに、純白の粉雪が降り注いでいる。
「そんで、お前から犯人を守って、法に裁かせる。そういう好敵手みてえな相棒の形があってもいいだろ」
「ジーク……」
「立場が変わっても、俺たちの目指す場所は同じだ」
ジークが懐から取り出したのは、リンドウの彫刻が施された拳銃。
「やり方は違えど、この世界から悪を根絶やしにする、そうだろ?」
「ああ……」
ユーシス・ウォルクも懐から拳銃を取り出しながら、ジークに近づく。レシーバーに彫刻されたリンドウを重ねるように、ふたりは銃を交差させる。
「目的地は同じなんだ、いつか俺たちの道が交わることもあんだろ。そんときは――新人の時みてえに、酒でも飲もうぜ」
「ああ、約束だ」
ユーシス・ウォルクは瞳に涙の膜を張り、くしゃりと笑った。その瞬間、世界は再び壊れゆく。私たちの身体は宙に浮かび上がるが、ユーシス・ウォルクだけは変わらず地面に立ち続けていた。
「俺はどこにいても、お前の相棒だからな!」
ジークは空の上から、ユーシス・ウォルクに向かって叫んだ。すると、ユーシス・ウォルクも、『僕もだ』と言うように笑みを浮かべて手を上げる。
「ずっと忘れない! お前と一緒に歩いてきた時間も、道も!」
そうして、世界は白い光に包まれていき――。
町の入り口に戻ってくると、空は快晴だった。
積もっていたはずの雪もなくなり、道端には春の花が咲き、木々には青々とした葉がついている。町の奇怪が解け、本来の季節に戻ったのだ。
ジークは町の地方警察に一週間もの間、この町が過去の十二月二十五日をループしていたこと、それが原因で災害発生区域に指定されており、自分が派遣されたことを説明しに行った。
けれど、ここで信じられない事実が判明した。警察署の警官たちも、町民たちも、災害が起きた一週間前から普通に町で暮らしていたと言う。過去の同じ日が繰り返されていたという事実はなかったそうだ。
変人を見るような目で警察署から追い出されると、ジークが頭をガシガシと掻く。
「混乱してきたぜ。俺たちは、四年前の同じ日をループしてたんだよな?」
警察署前の階段を下りながら、皆が困惑している中、私はおかしくて肩を震わせていた。すると、クウガが顔を覗き込んでくる。
「おい、大丈――」
「これは一杯食わされたな!」
大声を上げれば、ジークとクウガの肩がびくりと跳ねる。ウルフくんも、耳と尻尾をぴんと立てていた。
「私たちは過去の十二月二十五日をループしていた、という幻覚を見せられていたのだ」
「幻覚?」
怪訝そうに尋ねてくるクウガに、私は階段の上で足を止めて町を見渡す。
「シュタインブルに入る前、門から町の中が見えたであろう? 干されていた洗濯物は春物で、家の前に雪かきスコップがあるわけでもない。本当に冬が延々と続いていたなら、積もっていたはずの雪はどこへいったのだ?」
「確かに……災害が収まった途端、町の景色が春に戻ったのも変だ」
「しかも、だ。煙突から煙が出ていて、人が暮らしている痕跡もあった。でも、人の気配だけがないなど、違和感しかない。おそらくあれは、私たちにだけ、町の人間が見えないようになっていたのだ。そう思うと、御者の反応も頷ける」
はっとした様子で、ジークが目を見開く。
「そういやあ、災害が起きてることを実感してない感じだったな。俺たちが町を警戒してるのを、気味悪そうに見てやがったし」
「御者だけではない。この町の人間の目にも、私たちはさぞ変人に映ったであろうな。ただ、私たちはあの町の中に入った途端、幻覚の影響を受けた。そのために、向こうが訝しんでいる反応がわからない。だから春なのに冬物のコートを買っても、おかしく思われなかったのだ。つまり、この幻覚は空間に作用するもので、範囲には縛りがある。人までは操れないから、町の外から見るときは視界から人間を消し、中に入れば町の人間がさも十二月二十五日に馴染んでいるような幻覚を私たちに見せたのだろうな」
興奮のあまり、私は軽く肩で息をしながら答え合わせを楽しんだ。
「今回は元警官の再犯を防ぐっつう警察側の事情もあって、俺のもとに届いた電報と町に入って戻ってこない人間がいるっていう、おそらく警察側のホラ情報だけで、災害指定されちまったのが、見落としの原因だな」
「ぬしも念願の相棒の情報だったゆえ、気が急いていたのだろう」
「ああ。つーか、こっちの事情も込みで、俺をこの町に連れてきたのか? あいつなら、あり得る……」
「私たちは、まんまと狐に化かされたということだ。つまり、この町に現れた犯罪者たちも、すべてが幻ということになる。頭の使い損だな、ジーク」
三人もの犯罪者を使えるため、推理しまくったジークは頭を抱えて座り込んだ。
「四年前の十二月二十五日は、あいつが家族を失った日だ。俺たちの道が違ったあの日に戻って、俺と話したかったってことか。アビスの力まで使って、大掛かりすぎんだろ!」
私の隣で、ジークは自分の頭をわしゃわしゃと掻いている。
「そもそも過去や未来を変えるなど、この世の理を変える行為。もはや神の領域だ。これまで色んなアビス患者を診てきたが、そこまでできる患者には会ったことがない」
ただ、やり方がまどろっこしい上に悪趣味なのが気になる。どうやらユーシス・ウォルクには、性根が曲がった協力者がいるらしい。
「ほら、さっさと立て。この町にもう用はないであろう? 帰って寝たい」
私はジークの腕を掴んで立たせる。
「眠る前に何度も同じ日をループされて、まともに寝てないからな」
クウガも顔に疲れが滲んでいる。私はふたりの腕を掴んで、ゆっくりと歩き出した。その後ろをウルフくんもついてくる。
「ジーク刑事、今回の任務はユーシスさんを捕まえることだったんですよね? いいんですか、見逃すみたいな形になって」
「あ、忘れてたわ」
「ジーク刑事……」
「まあ、今回はユーシスとは関係なかったって誤魔化しとく。どうせ、まともに事実確認せずに、俺を送り込んだんだ。わからねえって」
そんな他愛ない話をしていると、町に向かう私たちの頭上を一羽のカラスが飛んでいく。私は軽く手を上げて、ひらひらと振った。
「新しい相棒に、よろしく言っておいてくれ!」
クウガたちは、急になんだと驚いている。だが、路地に消えていくカラスは一瞬、返事をするようにこちらを見た気がした。
前に向き直ると、クウガとジークが「相棒って?」と声を揃えて聞いてくる。
「どこぞのコウモリだよ」
雪が解けて、春になる。離れ離れになったとしても、心にはずっと、その存在が刻まれている――。
***
路地に入ったカラスは人の姿に戻ると、暗闇の中で壁にもたれるように立っているシルクハットの男に近づいた。
「今からでも、やめられるよ。ユーシス・ウォルク」
「あなたがいなければ、僕はただ悲観しているだけの廃人になっていたでしょう。あの日、家族を失った日、あなたは僕に生きる目的をくれた」
僕――ユーシス・ウォルクが家族の亡骸を抱き、慟哭していたときのことだ。
相棒であるジークが犯人を捕まえるために走り出したあと、僕は自分が刑事であることも忘れて、ただただ絶望していた。
そこへ現れたのが、シルクハットの男だった。いつの間にか、窓に寄りかかるように立っていた男が血の海に座り込んでいる僕に言った。
『憐れな怪物の子』
怪物と言われて初めて、自分の背から黒い片翼が生えていることに気づいた。
ああ、自分も化物になるのか……。
そう、どこか他人事のように考えていたとき、シルクハットの男が言う。
『絶望に呑まれて、そこで自死するのか。それとも憎しみに身を任せて、狂った化物になるのか。楽な道を選ぶなら、どちらかだ』
シルクハットのつばを押さえながら、男の口元は絶えず笑みを浮かべている。
この男は、自分を迎えに来た死神なのではないか? そうであったなら、よかったのに……。
死んでしまえたなら、狂ってしまえたなら、なにも考えずに済むのに。それができない理由が、自分にはあった。
『……僕のために、走ってくれている相棒がいる。せめて、もう残されたものがあいつしかないなら、あいつにだけは失望されたくない』
ジーク・ランディーニは、俺の道標だ。まっすぐで、熱くて、それで人と衝突したりもするけれど、気づけば皆があいつについていきたいと思っている。
『なら、刑事に戻るということかな?』
殺したいほどの憎しみを知ってしまった自分が、刑事に戻れるのか?
『いや……無理だ……今の僕に、戻る資格なんて……』
『なら、新しい道を探すしかないだろうね』
シルクハットの男は、窓の外へ顔を向けた。夜の雪空にぼんやりと浮かぶ月を、愛おしむように見上げている。その横顔は青白く、この世の者とは思えないほど美しい。
『新しい道?』
『行き先が決まるまで、僕と来るかい? そして目的地が見つかったら、相棒に報告しに行けばいい』
正直、迷っていた。ここには、僕が手放したくない思い出や人が多すぎる。
『ここには、いつでも戻ってこられる。ひとまず過去は置き去りして、今のきみが求めるものを探しに行けばいい。その先で、気づくこともある』
差し伸べられた手は、悪魔のものか、はたまた救いの神のものか。普段の自分なら、慎重に検討していただろう。でも、ここに過去も置いていくのなら、今までの自分も例外ではない。
掴んだ手に導かれるままに向かった先は、ある一軒家だった。
『門出を祝いたくてね。気に入ってもらえるといいのだけれど』
シルクハットの男はそう言って、勝手に家の中に入っていく。そこで目の当たりにしたのは、血の海に沈んでいる若い夫婦だった。
『これは……っ』
鼓動が加速する。進む足が重くなっていくのを感じながら二階に上がると、ベビーベッドの前に人がいた。
手には血塗られたナイフ、羽織っているのは返り血を浴びた黒いカッパ。僕の家族を無残に奪っただけでは飽き足らず、同じ町で大胆不敵にも新たな家族にその魔の手を伸ばしていたシリアルキラー。
赤ん坊は両親を殺されたことも知らずに、あどけない目で男を見上げている。
迷っている暇などなかった。憎くて、でも守らなければならなくて。
ユーシス・ウォルクというひとりの男の悪意と、刑事としての正義感とが混じり合い、俺は『ああああああっ』と喉が避けそうなほど叫び、シリアルキラーの首を掴む。
そのカエルのような手から、猛毒の粘液が滲み出ていた。シリアルキラーが苦しみ悶える声を聞いても、頭は冴えている。
ふと、ベビーベッドの赤ん坊と目が合った。その瞬間、気づいた。
守るために、手を汚さなければならないこともある。だとしたら、それは僕にしかできないことなのではないか。
『ひとり残されて、かわいそうに。でも、大丈夫。きみのことは、きっと僕の相棒が見つけてくれるよ』
そう笑いかけて、僕はシリアルキラーを引きずりながら、路地へ向かった。誰にも見られない場所で、相棒に別れの挨拶をするために。
「答えを見つけたのに、私と一緒に来るの?」
闇深い過去に沈んでいた僕は、その声で現実に戻ってくる。
もう、過去は置いていかない。全部持って、僕は僕の道を行く。
「答えを見つけたから、それが叶う場所にいるだけです」
悪には悪を、怪物の僕が罪人をこの手で屠る。そのたびに罪の意識に苦しむことになったとしても、それが刑事としての正義感と奪われた側の憎しみの両方を知る僕にしかできないことだ。そう確信を持てたから、迷わない。
「それに、新しい相棒によろしくとも、言われたので」
「そう。それはどんな美女だったのかな」
さほど驚いていない彼は、それが誰の言葉だったのかを知っているような口ぶりだ。
「ご想像通りの方ですよ」
「そう。相棒なんて持ったことがないから、不思議な気分だな」
ふたりでゆっくりと、路地を進む。
「相棒はいいものですよ。遠くにいても、道標みたいに自分を見失わずにいられる」
「そういうものなんだ」
「そういうものなんですよ」
「それなら、もうひとりの相棒と離れがたいんじゃない?」
「ちっとも。あいつは、どこにいても僕を見つけ出して、挑んでくるらしいですから」
くすっと笑いながら言えば、彼の唇もゆるやかな弧を描く。
「それは……大変そうだ」
「でも、そのときは、あなたの大切な彼女もついてくるはずですよ」
「それは嬉しいね。では、また彼らとの道が交わるまで、私たちは私たちの旅を始めるとしようか」
「はい」
空の彼方へ、コウモリとカラスが飛んでいく。大切な人に背を向けて、過ぎ去った時間は振り返らずに、前へ前へ。