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Record2. 仮面の染み

「我が家はリボンをつける習わしなのだよ」

 朝のクリニックでは、ディープレッドの細身のリボンタイを着けたクウガと、太身のリボンタイを着けたオルガが並んで自分の身なりを見下ろしていた。

「そうなのか?」

 クウガがウルフくんを振り返る。

『いえ、シャルロッテ様の趣味です』

「おい……」

 クウガは渋い顔を私に向けるが、ため息をついて、今度は弟を見やる。

「弟の服、こんな立派なやつをこしらえてくれて、感謝してる」

 オルガが身に着けているのは、白いワイシャツにブラウンのベストと半ズボン、そして革のショートブーツ。それなりに着飾れば、田舎者とはバレまい。

「就職祝いだ。ぬしのも、すべて新調してもよかったのだぞ」

「俺のは、まだ着られる」

「もったいない精神か、貧乏性め」

 物言いたげに、じとりと見てくるクウガだったが、やがて諦めたように手を上げる。そこには指先が出た黒革のグローブがはめられている。

「俺の就職祝いは、これで十分だ」

 それは銃のグリップで手が擦れないようにと、贈ったものだった。

 私はそれなら、と書斎机に置いてあった上質な黒革張りの箱を手に取り、蓋を開けてクウガに差し出す。

「ぬし専用のキュアガンだ」

 銃身の短いウッド調の拳銃が、ベルベットクッションに厳かに収まっている。それを目を輝かせながら見つめるクウガに、私はふっと笑った。

「やはり、ぬしも男の子だな。武器に心躍らせるとは」

「……!」

 気恥ずかしそうに視線を逸らすクウガに、キュアガンを早く手に取るよう促す。すると、壊れ物を扱うように、そっと持ち上げた。

「ぬしの護身用の拳銃と大きさが変わらないであろう? 扱い慣れたボディーのほうがいいかと思ってな」

「ああ、手にしっくりくる」

 クウガは銃を握り、グリップの感触を確かめながら頷いている。

「それは散弾が撃てるように改良されたキュアガンでな、世界にひとつしかない一点物だぞ。ますますワクワクしないか?」

「あ、ああ……」

 嬉しいくせに、決まり悪そうに視線を泳がせるクウガは、やはり素直ではない。

「でも、いいのか? こんな高価なもの……それに、クリニックにまで居候させてもらって……」

「ぬしたちの家があるガルダとクリニックを行き来するだけで、六時間はかかるぞ。ぬしを呼ぶのにいちいち手紙や電報を出すのも、面倒な上に大幅に時間をロスするだけだからな」

「まあ、そうだけど……」

 浮かないクウガの顔を見ていれば、なにを気にしているのかは、すぐに察しがついた。

「生活費のことを心配しているのなら、気にするな。ボロ雑巾になるまで、こき使う予定だからな」

「ボロ雑巾……」

 げんなりしているクウガに、ウルフくんが言う。

『シャルロッテ様はDr.ウイッチとしては有能ですが、生活能力が皆無なのです。気づけば、ずっとアビスの研究をしていますし……』

 いつの間にかソファーに座っていたオルガに頬ずりされながら、ウルフくんは切実に続ける。

『特に金勘定も大雑把ですので、ジャガイモで一か月過ごしたこともありました』

「ここに来て数日しか経ってないけど、今までよく生きてこられたなって思うことが多々あったからな、もう驚かない」

 それは最近で言うところの、脱いだ服の山に埋もれるようにして眠ってしまい、窒息しかけていたところを救出してもらったことだろうか。

 それとも、ウルフくんのご飯を準備して満足してしまい、自分の食事を忘れて研究に没頭した結果、餓死寸前になっている私に料理を作って食べさせてくれたことだろうか。

 思い返してみると、クウガには私が生命の危機に瀕しているところを、何度も救われている。

「部屋の掃除に食事の世話、ついでに金銭管理も俺の仕事になりそうだな」

「片付けは今まで、ウルフくんが口で物を咥えて一か所に集めるやら、出来る範囲でしてくれていたのだ。だが、限界はあるゆえ、クウガが来てくれて助かっておるぞ。さすがは執事の弟子」

『それは私のことですか、シャルロッテ様』

 ウルフくんが、すかさず突っ込む。

「それからな、私も師匠に面倒を見てもらったのだ」

「あんたの師匠って……」

「魔女だよ。孤児だった私は師匠に拾われて、師匠の家で暮らしていたんだ。ウルフくんとも、その頃からの付き合いだ」

 私が孤児だったことに驚いてか、クウガは言葉が出ない様子だった。

「師匠はアクティブな人でな。いつか会わせてやりたいが、今どこを旅しているんだか、見当もつかん。まあ、いつか巡り会うこともあるであろう」

 クリニックを構える私とは違い、拠点を持たずにアビス患者の治療を行う旅をしている師匠に思いを馳せる。

「魔女が生き抜くための術を教えてくれた師匠は、Dr.ウイッチとして正式に弟子になった私に、キュアガンを贈ってくれた。だから同じように、助手見習いであるぬしにも贈ったまで」

 クウガはキュアガンをじっと見つめ、ホルスターに慎重にしまった。もともと護身用で持っていた拳銃と、私が贈ったキュアガンの二丁がそこに収まっている。

「……大事にする。これを見るたびに、あんたの助手になるって決めたときの気持ちを忘れない」

「いい子だな」

 背伸びをして、その頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でてやる。

「いい子って、あんたな……俺はあんたより五つは年上だぞ」

 クウガは微かに耳を赤らめ、私の手をやんわりと振り払った。

「だが、ぬしは甘やかされたいであろう? たくさん可愛がってやるゆえ、すくすく育て」

「……突っ込む気も失せるな」

 素っ気なく返してはいるが、まんざらでもない様子のクウガは、ごまかすように咳払いをする。

「それとも、魔女は長寿なのか? 見た目は若そうだが、話し方も老婆みたいだ。実は百歳だって言われても、俺は驚かない」

「いいや? 魔女も人間と同じように歳を取るぞ。それとな、この話し方は絵本の受け売りだ」

 空になったキュアガンのケースを物が積み上げられているラックにそっと置くと、後ろから「絵本?」とクウガの不思議そうな声がする。

「私は、絵本を見て言葉を覚えたのだ。そこに出てきた魔女の話し方がこれでな」

 振り返ると、クウガは深刻そうな面持ちで言葉を探しているようだった。そのとき、棚の横にあるポールハンガーにかかっていたシルクハットたちが、ばらばらと崩れ落ちる。

「それ……」

「ああ、これか?」

 シルクハットを拾って、元の位置に戻しながら答える。

「ぬしのように、このシルクハットを持って、ここに来る患者がときどきいてな。こんなに溜まってしまったのだよ。……なのに、肝心の〝あれ〟は会いに来ないが」

「そのシルクハットの持ち主のこと、知ってるのか?」

 その質問に答えようと口を開きかけたとき、

「ぼ、僕、仕事、仕事に行く」

 そう言って、オルガがソファーから立ち上がり、リュックを背負った。

「オルガ、そのウルフの顔をモチーフにしたリュック、手作りらしいな」

「そそ、そう。自分で、自分で作った!」

 自慢げに背中のリュックを見せてくるオルガに、室内の空気が和む。

「猫派だったオルガが、まさか狼派になるとはな」

「自分を守ってくれたヒーローだと思ってるんだろ」

「だ、そうだ。ウルフくん」

 オルガの横にぴったりと寄り添うウルフくんは、気恥ずかしそうに尻尾を振っている。子守が板についてきたようだ。

「兄に続き、オルガの旅がこんなに早く決まるとは、思わなかったな?」

 クウガをちらりと見れば、弟の門出を嬉しそうに眺めている。

 先ほどオルガに就職祝いを渡したが、その就職先はうちではない。

 クリニックから徒歩で十分ほど行くと、【Atelier(アトリエ) Marvel(マーベル)】という看板がかかったガンショップがある。そこへクウガのキュアガンを頼んだのが、事の発端だ。


『シャルロッテ嬢、また無茶したのか』

 クウガやウルフくん、オルガを引き連れて店内に入ると、カウンターで銃を磨いていた男が顔を上げ、そう言った。

 マーベル・ドッグ、四十二歳。赤茶色のもみあげとヒゲが繋がった短髪、アーモンド色の瞳、きりっとした太い眉。

 ボタンがいくつか外されたシャツは、そのガタイのよさのせいでパツパツだ。その上から革エプロンをつけ、カーキ色のズボンは黒いブーツの中にしまわれ、腰には工具がついたベルトを締めている。

 キュアガンを作ったガンスミス――銃の製造、改造、分解、メンテナンスを行う職人で、アトリエ『マーベル』の店主であり、衰え知らずの筋肉の塊みたいな男だ。

『マーベルよ、私の顔を見るなり、いつもそれだな』

 私はカウンター前にいる男のもとまで歩いていく。

 店内の壁には銃身の長い散弾銃がいくつもかかっており、棚には銃弾やメタル装飾がなされたホルスターなどが飾られている。

『今日は修理ではなく、新しいキュアガンを頼みたくてな』

 屈んでカウンターに頬杖をつく私に、マーベルは少しばかり目を見張った。

『今ので事足りなくなったか?』

『いいや、弟子のが必要になった』

 店内を物珍しそうに見回しているクウガを振り返る。視線に気づいたクウガは、会釈しながら、こちらへやってきた。

 マーベルは腕を組み、クウガの頭からつま先まで『ほー』と感心したふうに観察する。

『男のDr.ウイッチ見習いか?』

『人手不足だからな、男のDr.ウイッチは大歓迎だが、こやつは助手見習いだ』

『助手! お前がここに来て四年になるか? その間、新しい助手を迎えるなんて話、一度もお前の口から聞かなかったぞ。今回が初めてじゃねえか!』

『今まで優秀な人材に出会えなかったもんでな。この条件でキュアガンを作ってくれ』

 銃の種類、大きさ、デザインを指定して書いたメモ紙をマーベルに渡していると、クウガが『キュアガン?』と首を傾げた。

『Dr.ウイッチが扱う特別な銃だ。ぬしも見たであろう? 芽吹く花と降り注ぐ月光を』

『ああ。人は綺麗なものを見て、いい香りを嗅ぎ、唄を聞くことで緊張を解すことができる。その環境を整えるために必要……なんだったか』

『そうだ』

 そう答えると、マーベルが屈み、なにやらカウンターの下から木箱と革張りのケースをふたつ出す。木箱には植物のツルが描かれており、マーベルは先にそちらを開けた。

『こっちの、この種の形をした金の銃弾がシードブレット。文字通り、植物の種が詰まってる。そんで――』

 夜空色の革張りのケースを開けるマーベル。ベルベットのクッションに並ぶのは、形こそ一般的な銃弾と変わらないが、宝石を原材料とした銃弾。

『この宝石でできた銃弾がジュエリーブレット。キュアガン含め、全部シャルロッテ嬢用の特注品だ』

『魔女の唄声はその物質の効能や人の生命力を活性化させるだけでなく、精神にも作用するからな。宝石や植物の力を借りて、アビス患者への治療に役立てているのだ』

『宝石の銃弾を作ってくれだの、種をつめた銃弾を作ってくれだの……そう頼まれたときは、頭を抱えたぜ。それを撃てる銃を生み出すのに、三か月は徹夜浸けだったな』

『なにを言う。ぬしは無理難題を強いられる依頼ほど燃えるタイプであろう?』

 マーベルは『だはは! 違いねえ!』と豪快に笑う。

 すると、店内に入ってから静かだったオルガが、背伸びしてカウンターを覗こうとしているのに気づいた。クウガが抱き上げると、オルガはジュエリーボックスの中身をじっと見つめている。

『なんだ、坊主。綺麗なもんが好きか?』

『こ、これ、これ、形が違う、違う』

 オルガはひとつのジュエリーブレットを指差すが、素人目で他のものとの違いはわからない。

『なにっ? そんなわけが……』

 マーベルはオルガの指差したジュエリーブレットを指で摘まみ、手のひらの上で転がす。そこで、はっとしたようにオルガを見た。

『信じられねえ。確かにこいつあ、他のに比べて弾頭に歪みがあるな。売り物としては問題ねえが、完璧主義の俺には許せねえ誤差だ。いい審美眼を持ってるな、坊主!』

 どうやらマーベルは、オルガの能力に惚れ込んだようだ。

 これはいい機会かもしれんな。

『マーベル、オルガを雇ってみないか』

 後ろからオルガの両肩に手を置き、そう提案すれば、クウガはぎょっとしたように私を振り向く。

『オルガはこだわりが強いぶん、いいものを作ろうと追及できよう』

『おおっ、ちょうど俺の技術を継いでくれる弟子が欲しいと思ってたところだ。ただし、俺は厳しいぞ。ついてこれるか?』

 オルガははっと顔を上げ、こくこくと頷く。

『やる、やる!』

『そうか、そうか!』

 マーベルが嬉しげにオルガの頭をガシガシと撫でるのを見ていたクウガは、躊躇いがちに口を開く。

『あの……本当に、いいんですか? ご迷惑じゃ……』

『まったく、ぬしは過保護すぎると言ったであろう』

 心配症の兄の胸をぺしっと叩けば、マーベルが『いいんだ』と言って、クウガに向き直った。

『俺の子供は、アビスにかかってな。その頃はまだ、この町にDr.ウイッチなんていなかったからよ。……助けてやれなかったんだ』

『それって……』

 言葉にしづらそうにしているクウガ。マーベルは答えにくいだろうと、代わりに説明する。

『ぬしもそうであったように、アビスやDr.ウイッチの存在が知られるようになったのは最近のことだ。古より、怪物や魔女のような異端は狩られる。治療を受けられなかった患者の行く末も同じ。つまり……待つのは死だ』

 クウガが息を呑んだ気配があった。それに気づいたマーベルは苦笑交じりに言う。

『息子は、ちょうどオルガくらいの歳だったんだ。息子のことがきっかけで、妻ともうまくいかなくなっちまってな』

 マーベルは後頭部をガシガシと掻く。

『だから、オルガが店に来てくれるんなら、俺も楽しく過ごせそうだ』

『あ……ありがとうございます。弟は集中力がありすぎるので、どうか気をつけてやってください』

 お辞儀をするクウガに、またもマーベルは『だはは!』と笑う。

『わかった、わかった。心配性の兄ちゃんに代わって、ちゃんと面倒を見るからよ』


 数日前の出来事に思いを馳せていると、オルガが扉のドアノブに手をかけた。

「ウルフくん、マーベルのところまで送ってやってくれ」

 店に行く時間までまだあるはずなのだが、待ちきれなかったのだろう。オルガは今にも、マーベルのところへ飛んでいきそうだ。

「オルガ、えと……」

 声をかけたはいいものの、クウガはどもってしまう。心配で引き止めた、というのもあったのだろう。それでも、弟をゆりかごから送り出すことに決めたらしい。

「気をつけて行ってこい」

「い、行ってきます、行ってきます」

 そわそわしながら兄に手を振り、店を出ていくオルガ。バタンッと扉が閉まると、私は隣に立つクウガを見る。

「素直に見送るとは、ぬしも成長したな。自分もついていく! そう言い出すかと思っていたが」

「今からでも追いかけたほうがいいか、死ぬほど迷ってるけどな」

「平気だ。なにかあれば、ウルフくんが守ってくれる。店にはマーベルもいるしな。私たちが仕事に出ている間、預かってくれるそうだ」

 クウガの肩をぽんぽんと叩いた私は、ソファーまで歩いていくと、足を組んで座った。

「は……仕事?」

 私はテーブルの上の手紙を手に取る。

「ああ。ウルフくんが戻り次第、私たちも数日ばかり国外へ出かけるぞ」

「え?」

 寝耳に水、といった顔のクウガにふっと笑い、指に挟んだ手紙をひらひらさせた。

「ぬしの初仕事だ」


 グランドア中央駅から、列車でマリンヴェネ最大の港である『西マリンヴェネ港』の最寄り駅まで行き、そこからさらに渡航して隣国『ブロッサムエイク』へと渡ってきた。

 一日かけてやってきたブロッサムエイクは、岸壁と冴え渡る紺碧の海に囲まれている。その青を引き立てるのが、オレンジの屋根と白壁の建物で統一された景観だ。

 だが、石造りのメインストリートを外れ、何本も張り巡らされている迷路のような細道を進むと、旧市街地に出る。そこには、数年前にあった内戦の痛々しい傷跡が残っている。

「周囲に気を取られて、はぐれるなよ? メインストリート以外は道が入り組んでいるからな、迷子になるぞ。それと、旧市街地は治安が悪いゆえ、危険だ」

 口を半開きにして町を見渡していたクウガは、「あ、ああ」と返事をする。その様子に、ふっと笑ってしまう。

「ブロッサムエイクに来たのは初めてか?」

 そう尋ねれば、町を見渡していたクウガが慌てたように唇を引き結んだ。それから気恥ずかしそうに視線を逸らし、小声で言う。

「……カプスピテから出たことがない。旅行する余裕もなかったしな」

「そうか。でも、これからは嫌というほど、いろんな国に行けるぞ」

 美味しいものも食べられるし、と考えていたら、さすがは私の助手。ぴんと耳を立て、半目でこちらを見上げてくる。

『シャルロッテ様、無駄遣い禁止ですよ。お酒と食べ物、それから植物には目がないんですから』

「先輩、それに関しては問題ないです。財布の管理は俺がしてるんで」

 助手見習いとしての心構えなのか、クウガは助手のウルフくんを〝先輩〟と呼ぶことに決めたらしい。

 大きなショルダーバックの中から財布を取り出したクウガに、私はため息をつく。

「大仕事のあとの楽しみを奪うとは、血も涙もない」

「せっかく仕事で稼いだ金を、一気に使い果たしたら意味がないだろ」

 呆れ気味に財布をしまうクウガに、ウルフくんも念を押す。

『心を鬼にして、シャルロッテ様のわがままは突っぱねてくださいね』

 まるで、私が問題児みたいだな。

 小姑がふたりに増えた気分で歩いていると、目的地に辿り着く。

 芝生広場に隣接する柱に囲まれた外廊や、尖がり屋根の塔がある建物の前で足を止めた私は、その大聖堂のような外観を仰ぎ見た。

「着いたぞ。ブロッサムエイク一の国営大病院、聖イデア病院だ」


「遠路はるばる足を運んでくださり、ありがとうございます。私はここでドクターをしているイライア・マッカーニーです」

 私たちを出迎えたのは、三十代くらいの冴えない丸メガネの男だ。どことなく、陰気な空気を纏っており、ストレスが多いのか、若干量のミアズマも出ている。

 この男が手紙の送り主なのだが、イライアは魔女を信じていないのか、私を胡散臭そうに見ていた。それどころか、クウガに視線を移すや否や眉間を寄せて嫌悪を露にする。さしずめ、クウガのオッドアイに対する感情だろう。それに気づいたクウガも、不愉快そうに顔をしかめた。

「私に診てほしい患者がいるとか」

 イライアの視線を遮るように、クウガを背に庇い、尋ねる。すると、後ろにいるクウガの苛立ちが僅かに矛を収める気配がした。

「ええ、こちらです。といっても、患者はもういなくなったあとですが」

 石造りの長い廊下を先導するように進むイライア。そのあとをついていくと、半歩ほど後ろを歩いていたクウガが「いなくなった?」と聞き返す。

「アビス患者のマープル・ドライヤーの症状は深刻でして、他の患者に危害を加えられたら迷惑ですから、隔離していたんです。ですが、三か月前のある日、忽然と姿を消してしまった」

「…………」

 自分がアビス患者だからだろう。出会い頭に不躾な視線を受けたこともあり、クウガの空気がまたもぴりつくのが、背中越しでも感じられた。それを悟られぬうちにと、質問をぶつける。

「隔離……いつからそのような対応をしている」

「一年前です。もともと重度のアルコール依存症で入院したのですが、アビスの発症が疑われたので、対処を」

「そうか。一年もの間、鍵のかかった部屋に閉じ込めていたわけか」

 イライアは癇に障ったらしく、眉を寄せた。反論はしてこなかったが、イライアの声に棘が増す。

「私は人間を治す医者です。化物は治せない」

 こういう人間がいるから、アビス患者の末路は悲惨なのだ。Dr.ウイッチが見つけられなければ、その患者は退治される時を待つだけだからな。

「なあ、依頼してきた割に向こうの態度、悪すぎやしないか」

 腹を据えかねている様子で耳打ちしてくるクウガに、私は鼻で笑う。

「今回は、まだ好意的なほうだぞ。酷いときは、それこそ遠路はるばる来たというのに、追い返されたこともある」

『シャルロッテ様は、お若いですからね』

 ウルフくんの言う通り、若い上に魔女なんてファンタジーな存在を受け入れられる人間は少ないのだ。

「特に医者は、根拠(エビデンス)に乗っ取って考える生き物だ。怪物になるだの、若返るだの、目に見えないミアズマだのという非現実的なものを受け入れられないのだよ。そのくせ、得体がが知れないからと過度に恐れる」

「だから、見たくないものに蓋をするみたいに、目につかない場所に閉じ込めるのか。これが、アビス患者の現実……」

 隔離されたマープル・ドライヤーのことを考えて胸を痛めているのが、その悲痛な面持ちから伝わってくる。

「心優しいのは結構だが、そこまで憐れむことはないと思うぞ」

 不思議そうなクウガの眼差しを受け止めつつ笑みを返したとき、イライアが廊下の最奥にある部屋の前で足を止めた。

 白衣のポケットから鍵の束を取り出したイライアは、ジャラジャラと不愉快な音を鳴らしながら、分厚い鉄の扉の鍵を開錠する。

「患者はいなくなったんだよな? それなのに、なぜ鍵を?」

「気味が悪いので」

 その意味は、キイィィッと不気味な音を立てて開いた扉の先、部屋に足を踏み入れてすぐにわかった。

 病室の壁にある、おびただしい数の人の顔のシミ。それに近づいて触れてみると、指に黒い粉のようなものが付着する。

「煤……のようだな」

「おい! むやみやたらに、怪しいものに触れるな」

 駆け寄ってきたクウガが慌てたようにバックからハンカチを取り出して、私の指の煤を拭った。

「さすが、クウガお母さんだな」

「せめて、お父さんにしてくれ」

 クウガは苦い顔をする。

 この男は、相手が誰であろうと世話を焼いてしまう質なのだろう。

 胸がほんのり温かくなるのを感じつつ、私は室内を見学しながら、イライアに声をかける。

「イライアとやら、患者のことを教えてくれ」

「マープル・ドライヤー、三十歳は酒に依存し、娘の育児もままならず、それどころか精神異常をきたして、娘と家の二階から飛び降りました」

 クウガは固い表情と声で問う。

「自殺を図った……ってことですか?」

「心中、のほうが近いですね。そのあと、娘は一命を取り留めましたが、危険が及ぶことを懸念した夫がマープルを入院させました。最近は依存症状もよくなっていたのですが、先ほどもお話ししたように三か月前、巡回で部屋を訪れた看護師の話によると、黒い霧となって扉から飛び出し、姿を消したと」

 イライアは戸口に立って、中に入ってこない。よほど、アビス患者を毛嫌いしているのだろう。

「ですから、マープル・ドライヤーを見つけていただきたいのです」

 室内を見て回りながら、私は尋ねる。

「それで、またここに収容するのか?」

「収容……というのは響きがいささか悪いですが、隔離措置で治療を再開できればと」

「なるほど……」

 壁の顔のひとつひとつを眺めていた私は、ぴたりと足を止めた。

「一年間、Dr.ウイッチを頼ることなく隔離していたというのに、今になって私を呼びつけた。よほど深刻な事態なのだろうと、思ってはいたが……」

 肩を小刻みに震わせ、我慢できずに言い放つ。

「よくやった!」

 両手を広げながら振り返れば、イライアやクウガは状況が理解できずに戸惑っている様子だった。

「自分の運命に抗い、逃げ出すために怪物になる。それほどまでにマープル・ドライヤーは自由になりたかったのか、それとも会いに行きたい誰かがいたのか」

 意気揚々と語る私についていけないといったように、イライアの眉間のしわはどんどん深まっていく。

「どちらにせよ、己の願いのために怪物になるとは、実に人間らしい!」

「怪物なのに、人間らしい……?」

 矛盾しているのでは? と言いたげなイライアの聞き方に、私は鼻で笑う。

「人間の本質は欲深い怪物よ。それを皆、ひた隠しにしているだけだ。つまりアビス患者は、他の人間に比べて、ちょっとばかし素直すぎるだけなのだ。自分の欲に、な」

「は、はあ……」

「……ゆえに」

 すっと表情を消せば、イライアの顔が強張った。

「アビス患者を閉じ込め、抑圧する行為は、返って病状を悪化させる。こたびの原因は、ここの医者の間違った処置によるもの。それをゆめゆめ忘れるな」


 病院を出たあと、私はクウガとウルフくんと共にマープル・ドライヤーが働いていたという服飾店に来ていた。

「マープルは手先が器用でね、特に花柄のステッチはお客に好評だったのよ」

 私たちを出迎えてくれたのは、四十くらいの女主人だ。胸元が大きく開いたドレスを着ており、面倒見がよさそうな肝っ玉母さんという雰囲気の女性だ。

 わざわざ警戒心を持たせることはない。聞き込みを円滑に進めるため、私が魔女であることは伏せ、知り合いだと当たり障りない嘘をついた。

 店の奥に通されると、衣服などを縫うお針子たちが会釈してくる。すると、クウガが小声で尋ねてきた。

「ここへ来たのは、患者の生活環境を知るためか?」

「ほう、ぬしは優秀だな。私が前に言ったことを覚えていたのか」

「アビス患者は、取り巻く環境に問題があることが多い。病の原因がわからないと、適切な治療ができないんだろ?」

「百点満点だ」

 わしゃわしゃと頭を撫でれば、クウガは気恥ずかしそうに私の手を払う。

「あんたは、俺をやたら過大評価しすぎだ」

「愛しい者を愛でて、なにが悪い」

 怪物は等しく愛しい。その狂う様までも、人間らしくて。

 クウガは息を詰まらせ、耳を赤く染めながら、疲れたように言う。

「愛しい怪物の子、か。初めて会ったときに、そう言ってたよな。紛らわしい。俺をあんたに会わせたシルクハットの男は、俺を『憐れな怪物の子』って言ってたけどな」

「……そうか」

〝あれ〟は、怪物であることを憐れだと思うのか。切なさにも似た感情が胸をよぎり、ぎこちない笑みをこぼす。そんな私の顔を、クウガが「シャルロッテ……?」と気遣うように覗き込んできたとき。

「まさか、マープルの知り合いが訪ねてくるなんて思わなかったねえ。ほら、あんなことになって、入院しちまっただろう?」

 娘と自殺を図ったことは、職場の人間の耳にも入っているようだった。

「仕事中、マープルから酒の匂いがしたことはあったか?」

「まさか! だからね、マープルの旦那から聞いたこときは信じられなかったくらいさ!」

「旦那が説明をしに、ここへ?」

「そうだよ。マープルは旦那の稼ぎがなくて、苦労してるみたいだったし、あたしは戻ってくるまで待てるって言ったんだけどねえ。旦那が病状が思わしくないから、仕事は辞めさせてほしいって」

 何台もの糸車の前に、椅子が一定間隔で置かれている。女主人は寂しそうに、その作業台をそっと手で撫でた。おそらく女主人が降れた、その席に座って、マープルは働いていたのだろう。

「マープルがしでかしたことを聞いても、復職を望まれる人材だったのだな、マープルは」

「ああ、そうさ。それに、母親としてのマープルも、あたしは見てきたんだ。ここで娘の服に刺繍したりして、娘思いのいい母親だったのに、どうしてあんなことをしたのか……」

「ぬしから見て、マープルはどんな人間だ?」

 その問いに、女主人は迷わず答えた。

「有能なお針子で、苦労性のいい母親だったよ」


 服飾店を出たあと、私たちは昼食をとるためにカフェテラスに入った。パラソルの日陰には、涼しい潮風が入り込んでくる。

「重度のアルコール依存症で育児放棄……そんな母親には思えない評価だったな。それとも、外面はいい親を演じてたのか……」

「クウガよ、腹ごしらえの時間に仕事のことは忘れろ。ここは羊肉料理が有名らしいぞ!」

 メニュー表を目の前に置いてやれば、なにか言いたげに見てくる。

「クウガよ、視線がうるさいぞ!」

「クリニックにいるときは、食事も忘れて研究してるくせに、外食は別なのか?」

 私のしている研究というのは、アビスの新しい治療法についてだ。ウルフくんとクウガが止めなければ、いつまででも没頭してしまう。

『クウガも察しの通り、シャルロッテ様は普段、研究時間を奪われるからと、挟むだけのサンドイッチで済ませるですとか、生活に無頓着です。ですから、外にでも出ないと休めないのでしょう』

 足元で行儀よく座っているウルフくんが、困ったように言う。

「その反動で、そんなに上機嫌なのか」

「外食はいい息抜きだからな。だが、クウガが来てからは、時間に余裕ができているぞ。手料理があそこまで美味かったとは思わなかったしな! 私はいい拾い物をした」

 手放しで褒めたつもりなのだが、クウガは嬉しそうではない。

「拾い物……なんでだろうな、喜ぶところなのか悩むのは」

「クウガの料理は家庭の味がする。それもそれで大満足だが、たまには洒落た味も楽しみたいわけでだな。手の凝った料理が頼めば出てくる外食も捨てがたいのだ」

「はいはい。あ、すみません」

 手を上げ、注文を済ませてしまうクウガ。私の意見はなにも通らず、あっという間に料理が運ばれて来る。

「私のトリュフがけステーキ……」

 べそをかきながら項垂れれば、クウガが野菜をとりわけた皿を私の前に置く。

「ほっておいたら、肉料理かデザートのオンパレードになるだろ。肉はこれで十分だ」

 クウガが顎をしゃくった先にあるのは、香辛料を効かせた大きな皮なしソーセージだ。それをナイフとフォークで切り分け、口に運ぶ。

「おいひい」

「よかったな。先輩のは、牛の生肉を特別に用意してもらったので」

 ウルフくんの前に、分厚い生肉が載った皿を置くクウガ。オルガの面倒をひとりで見てきただけあって、手際がいい。

 ウルフくんの皿の分厚い牛肉を羨ましく思いながら眺めていたら、クウガは自分の分のソーセージを私の皿に載せた。

「さっき、病院で言いそびれたけど……ありがとな」

「病院? なんのことだ?」

「俺の目、気味悪がってただろ、あの医者。あんたが庇うみたいに前に立ってくれたとき、ムカムカしてた気持ちが一気にどうでもよくなった」

 このソーセージは、その感謝の礼らしい。

「ふっ、これは謝礼か。ならば、私のデザートはぬしにあげよう。私が食べ物を分けるなんて、滅多にないことなのだぞ」

「そこ、自信満々に言うところなのか? けど、まあ……ありがとな」

「ぬしは甘いものが好きだからな」

 頬杖をついて、ふふんと笑えば、

「なっ――んで……」

 面白いくらいクウガの目元や耳たぶに、驚愕と恥じらいの色が浮かぶ。

「わかったかって? そりゃあ、なあ?」

 私に同意を求められたウルフくんが頷く。

『シャルロッテ様が買ってくるスイーツを、それはもう目を輝かせながら食べていますしね』

「下手したら、オルガよりも喜んでいるな」

 私たちの温かな眼差しが落ち着かないのか、クウガは黙々とソーセージを口に運んだ。それもまた愛らしいなと思いつつ、話しかける。

「オルガと、子守をしてくれているマーベルにも土産を選ばんとな」

「オルガのこと、考えてくれてたのか」

「ぬしたちはもう、家族のようなものであろう? そのためにも、とっとと仕事を片付けるぞ」

 クウガは「家族……」と?みしめるように呟き、口元を緩めた。

「ああ、そうだな」

 他愛のない話をしながら食事を平らげた頃、コーヒーを飲んでいると、クウガが切り出す。

「このあとは、どうするんだ?」

「ん? それはだな……」

 コトリとカップを置き、私はにやりとする。

「乗り込むぞ、いざ怪物たちの巣窟へ」


「突然押しかけた上に、ケーキまで頂いてしまって、すみません」

 ドライヤー家の食卓で、クウガは軽く頭を下げた。

 マープルのことを聞きたいと言うと、なぜか『お茶でもしながら話しませんか』と私たちを快く家に招き入れてくれたのだ。

 席には例のマープルの夫であるグレガーと、十四歳になる娘のジェシカがいる。そして、向かいの席にいる彼女は――。

「若い奥さんを貰ったのだな」

 夫グレガーが四十くらいなのに対し、二回りは年下の再婚相手。マープルが起こした一件で、夫婦関係が続けられなくなったにしても、早い再婚だ。若い妻を娶るとは、グレガーもなかなかやる。

 だが、気がかりがひとつ。おそらくクウガもそれに気づいているだろうが、本人たちを前にして、態度には出せないのだろう。

「マープルがいなくなってから、もう三か月です。どんなに探しても見つからず、意気消沈していた私の前に、今の妻……マープルと友人だったというミラが現れましてね」

 ふたりは見つめ合い、小さくはにかんだ。

「じゃあ、再婚は本当に最近のことなんですね」

 クウガが相づちを打てば、

「一緒にマープルを探してくれて、そのうちにミラに惹かれるようになり、先月一緒になったばかりなんです」

 そう言ったあと、グレガーは殊勝げに続ける。

「まあ、妻がいなくなって、そう時間も経っていないので、不謹慎と思われてしまうかもしれませんが……」

 空気が重苦しくなったのを感じ取ったのか、ミラが席を立ち、私とクウガを見た。

「ケーキのおかわりは、いかがですか?」

「ぜひ!」

 空っぽになった皿を差し出せば、「おいっ」とクウガに咎められた。

「遠慮なさらず。そちらのワンちゃんも、新しいミルクをお持ちしますね」

 ワンちゃんではなく狼だなのだが、まあ今さらだ。ウルフくんへのおもてなしも忘れないミラは、いいやつだ。

 ミラがキッチンのほうに去っていくと、途端にグレガーの挙動がおかしくなった。それをカップに口をつけながら眺める。

 そわそわと視線を彷徨わせたり、椅子に座り直したりと落ち着きがない。いい加減、鬱陶しくなり、静かにカップを受け皿に置いた。

「……私に、なにか話したいことがあるのではないか?」

 グレガーは持ち上げかけたカップを落としそうになる。クウガの頭上にも、疑問符がいくつも浮かんでいるのが見える。

 私は飛び散った紅茶の雫をちらりと見やり、ため息をついた。

「さすがに家族相手に偽るわけにもいかないからな。私は玄関先でDr.ウイッチであること打ち明けた。……にも関わらず、だ」

 トポンッ、トポンッと角砂糖を紅茶に落とす。

「ぬしは快く私たちを受け入れた」

 いくらここが都市部だからといって、Dr.ウイッチの名を聞いてすんなり受け入れられるのは、妙だ。

 医者ならばまだしも、一般市民は魔女を恐れるか、その存在自体を疑うのがほとんど。

 だが、初対面で私がDr.ウイッチだと名乗っても、グレガーは驚いてすらいなかった。むしろ、待ち望んでいたみたいに、縋るような目つきをしていた。Dr.ウイッチの存在を知っていたのは間違いない。

 おそらく主治医から、マープルがアビス患者であるかもしれないと宣告されたとき、専門医であるDr.ウイッチのことを聞かされたのだろう。

「それのなにが問題なんだ?」

 ティースプーンで紅茶を掻き混ぜながら、まだわかっていないクウガのために説明してやる。

「私のような得体の知れない存在にも縋りたくなるほど、困った事態に陥っているのだ、この家族は」

 それを裏付けるように、グレガーと娘のジェシカは視線を交わした。

「……その、ミラのことで、少し困ったことがありまして……」

「もったいぶらずに話せ」

 クウガに「おい、失礼だぞ」と腕を掴まれる。こくこくと頷くウルフくんも、揃いもそろって、お小言が多い。

「ミラと結婚して、同じ寝室で過ごすようになった頃からです。夜になると、ミラが……」

 言いにくそうにしているグレガーに痺れを切らす。

「私を誰だと思っている、魔女だぞ。どんな奇怪な出来事であろうと信じる。いいから、とっとと続きを聞かせろ」

 額を押さえるクウガが視界の隅に入ったが、気にせず「ほれほれ」とティースプーンを揺らして急かした。

「はい……実は、ミラが人間の形をした、黒い霧……みたいになるんです。それで、私の首を絞めたり、娘の前にも現れて……」

「娘にも危害を加えるのか?」

「いえ、娘のときは……」

 父親の視線を受けたジェシカは、唇を震わせながら言う。

「扉の外を指差したり……部屋の窓を割られたり、されます」

「それは怖かったですね」

 クウガが労わると、ジェシカは俯いてしまう。思い詰めている我が子を見かねた様子で、グレガーは頭を下げてきた。

「厚かましいとは思いますが、なんとかしていただけませんでしょうか? その間、うちに泊まっていただけるのでしたら、食事も用意しますし……!」

「いえ、そこまでしていただくわけには……」

 断ろうとするクウガの言葉尻に被せる勢いで、私はその申し出を受ける。

「ぜひ、そうさせてもらおう。ただし、依頼の報酬は前払いだ」

「え……」と、クウガが私を凝視してきた。

 自分のときは報酬を求められなかったのに、なぜグレガーだけ? そんなクウガの心の声が聴こえてくるが、グレガーは藁にも縋る思いなのだろう。何度も大きく首を縦に振る。

「は、はい! ありがとうございます!」

「ついでに、毎食ケーキをつけてくれると、私はなお頑張るぞ」

 また、クウガのお咎めが飛んできそうだったが、タイミングよくミラがキッチンから出てきた。

「こちら、どうぞ」

 ミラがケーキの載った皿をテーブルに置こうとしたとき、手から滑ったのだろう。ガシャンッと音を立てて、皿が落ちた。

 幸い皿もケーキも無事だったが、ジェシカはよほど驚いたらしい。肩を大きくびくつかせ、爪を噛む。気を静めるための癖なのか、その爪はボロボロだった。

「ミ、ミラ、Dr.ウイッチさんたちは、マープルのことを探してくださってるんだ。せめて、数日うちでおもてなしさせてもらえたらと思っている。構わないな?」

「ええ」

 ミラは好意的な笑みを浮かべ、優雅に首を縦に振った。

「では、部屋の支度をしてきますね。ジェシカ、部屋をふたつ用意しないとだから、あなたは数日、お母さんの部屋で寝なさい」

「うん……」

 ジェシカは頷く。

「ふた部屋も用意するなんて、大変であろう? 私は――」

 クウガとウルフくんの首に腕を回し、その頭を引き寄せる。

「可愛い助手たちと同じ部屋で構わん」

 満面の笑みで答えると、

「は?」

『わう?』

 クウガとウルフくんが、耳元で同時に声をあげた。


 ミラに案内された二階の客室は、夕暮れ色に染まっていた。

 我先にと中へ入っていった私は、ベッドに背中からダイブする。バタンッと部屋の扉が閉まるなり、クウガが私の前に立ち塞がった。

「あんたのことだ。深い意味はないとは思うけど、せめてどういう意味かは説明してくれ」

「それは一緒の部屋がいいと言った真意を聞きたい、ということか? お年頃、だな」

 口元に手を当ててにやりとすれば、クウガは首元を手で押さえて、ふいっとそっぽを向く。

「茶化すな。俺より子供のくせに生意気だぞ」

「照れてるうちは説得力がないぞ。可愛いやつめ」

「ぐっ……あんたと話すと、体力を根こそぎもっていかれる」

 その場に力なく座り込むクウガ。その丸まった背を、ウルフくんが尻尾でさする。

『シャルロッテ様は、クウガをとても気に入っているのです』

「さすがはウルフくん。私のことをよくわかっているではないか。好きな子をイジメたい女心だよ」

 勢いよく起き上がると、ベッドサイドにいるふたりを抱きしめる。すると、クウガがじとりと見てきたので、仕方ないなと教えてやる。

「なあに、深い意味はないさ。近くにいたほうが、問題が起きたときに呼びに行かずに済む。それに、ぬしたちを守りやすい。ただ、それだけのことだ」

 腕を解いて、小首を傾げながら小さく笑うと、クウガは神妙な顔つきになる。

「問題……」

「ぬしも気づいたであろう。新妻と娘から、ミアズマが出ていたことに」

「ああ」

 家を訪ねてすぐ、私たちの視線を奪った彼女たちのミアズマ。娘のほうは微量だが、深刻なのは新妻のほうだ。ときどき、そのミアズマの多さで顔が見えなくなるほどだった。

「ミアズマは周囲の人間にも影響を及ぼすことが大抵だが、グレガーはピンピンしておる。それがむしろ……異常に見える」

「ミラさんが黒い霧人間になるのと、なにか関係があるのか?」

「まだ、わからん」

「娘のジェシカも怯えてたしな。窓を割られたり、扉を指差す霧人間なんて見たら、怖いに決まってる」

 ミラが皿を落としたとき、肩を大きくびくつかせたジェシカのことを思い出す。

「ミラが怯えているのが、霧人間だけとは限らんぞ」

「……? でも、扉を指差すなんて、どこかに誘われてるみたいだろ? 気味が悪い」

「でも、傷つけられたりはしていない」

「それは、まあ……そうだけど」

 すっきりしない様子で、クウガは胡坐をかく。

「それとな、私たちの部屋をふたつ用意すると話をしていたとき、義母であるミラの部屋にいるように言われたジェシカは、素直に受け入れた。霧人間に変わる上に、義母になって日が浅いミラと同じ部屋で過ごすなど、普通は全力で避けたい事態ではないか?」

「そう……だな。でも、ジェシカは嫌がってなかった。なら、ジェシカはなにを怖がって……」

「ジェシカの怯え方は、異常だ」

 ミラが皿を落としたときのジェシカの反応を、クウガも思い出したのだろう。

「物音に過剰に反応するのは、霧人間の件があったから、じゃないか?」

「私が言っているのは、癖のほうだ」

「癖?」

「噛みすぎて、爪がボロボロだったであろう」

 クウガは気づいていなかったのか、目を見開いた。

「あの短時間で、そこまで見てたのか」

「ぬしも、相手の一挙一動に目を光らせておくのだぞ。この仕事は、それができずに本当の怪物に気づけなければ、命を落とすことになる」

 ごくりとクウガは喉を鳴らした。少し、怖がらせすぎたようだ。

「まあ、私がいるうちは、ぬしらに手出しはさせないゆえ、安心しろ」

 胸を叩いてみせれば、クウガはなぜか首を横に振り、真剣な眼差しを向けてくる。

「守られっぱなしは性に合わない。いつか、あんたが背中を預けられるような助手になるから、先輩も俺をビシバシ鍛えてくれ」

 私はウルフくんと顔を見合わせ、おそらく同じ気持ちで助手見習いを振り向いた。

「いい子だな」

『いい子ですね』

 私たちの反応はお気に召さなかったのか、

「再三言ってるけど、子ども扱いするな」

 クウガは据わった目で睨んできた。

「本当は嬉しいくせに、ぬしはやはりちぐはぐだな。だから愛しい」

 私たちの我が子を見守るような眼差しを無視して、

「あ、もうひとつ気になってたことがある」

 クウガは話題を切り替えるが、私は娯楽をそう易々と逃しはしない。

「可愛い弟子の質問ならば、いくらでも答えよう」

 苦い顔をするクウガに、私は大満足だ。

「……なんで報酬が前払いなんだ? 俺のときは、おいおい考えればいいって感じだっただろ」

「ああ、そのことか。服飾店の女主人の話では、グレガーの稼ぎは少ないはずだが、見たところ生活に困っている様子はない。ゆえに、いつむしり取ろうが私の自由だ」

「確かに……ケーキを買う余裕もあるみたいだ。金に困っていないのに、マープルを働かせていたのはなぜだ?」

 金意外に目的があったのは明白だが、あれもこれも答えを与えてやってばかりでは、弟子の成長の機会を奪うというものだ。

「その理由は、おいおいわかるであろう」

 クウガは納得がいかなそうに沈黙した。

「……報酬を前払いする本当の理由は?」

「あとで必要になると思ったからだ。それと、今徴収しておかんと、おそらくその機会はもうなくなる」

 ヒントをやったというのに、クウガはますます得心がいかない顔になる。

 こればかりは、私にもどう転ぶかわからない。なにはともあれ、早く愛しの怪物殿に会いたいものだ。

 私は窓の外に目をやり、夜を連れてくる夕空を眺める。

「夜が待ち遠しいな」


 夜を引き裂くような悲鳴と、ガラスが割れるような音で飛び起きた。

 私とクウガは寝間着姿のまま、枕元に置いておいたキュアガンを掴み、すぐさま部屋を飛び出す。

 音がしたほうへ裸足で駆けていき、部屋を開け放てば――。

「入るぞ!」

 ベッドの上で自分の身体を抱きながら震える娘のジェシカと、半裸のグレガーがいた。窓ガラスは割れており、床に落ちている破片が月明りで鋭利に煌めいている。

「こんな格好ですみません。娘の悲鳴を聞いて駆けつけたのですが、例の……アレが、部屋の窓を割って外へ飛び下りていって……」

 ということは、ここは娘の部屋か。

 窓辺に近づこうとしたとき、クウガに腕を引かれた。

「裸足で、危ないだろ。どうしても自分の目で確かめたいって言うんなら……っと」

 ひょいっと、軽々しくクウガが私を抱き上げた。あの短時間で、どこにそんな余裕があったのか、ちゃっかり靴を履いている。

 クウガは私を抱えながら、窓に向かって歩き出す。

「紳士なところまで、ウルフくんに似てきたな。後輩は先輩の背を見て育つらしい」

 後ろを振り返れば、ウルフくんが感慨深そうに私たちを見守っていた。その真剣な瞳に、なぜか胸騒ぎを覚える。

 ウルフくん……?

「あれは……病院にもあった……」

 クウガの呟きで我に返った私は、窓の下を覗き込む。

 地面に残っているシミは、娘を抱きしめて倒れる母のようなシルエットをしていた。

「あのシルエットって、まさか……」

 クウガの言いたいことはわかったが、私はその唇に人差し指を当てて黙らせる。

「わざわざ口に出さずとも、わかっている」

 黙るクウガに笑みを返し、娘の部屋を見回す。しなやかなS字を描く脚――カブリオールレッグのドレッサーの上に写真立てがある。

 娘を後ろから抱きしめている母の写真。その中で満面の笑みを浮かべている彼女たちを見れば、仲がいい親子だったのがわかる。ただ、そこに映っていてもおかしくない人間がいないのは気になったが。

「今、ミラはどうしている?」

「それなら、ベッドで寝ているかと……」

 自信なさげに答えるグレガーに違和感を覚えるも、今はミラが霧人間なのかどうかの事実確認が先だ。

「では、見に行くぞ。ぬしらの寝室はどこだ?」

「こ、こっちです」

 クウガに床に下ろしてもらい、グレガーの案内で私たちが泊まっている客間と同じ階にある寝室に行く。

 すると、黒い人型の霧がベッドに横になっていた。ぞっとするような姿に、皆が言葉を失っている。

「まさに霧人間、だな」


 翌朝、ドライヤー家の面々と食事をとっていた。

 昨夜のことを覚えていないのか、ミラは初対面のときと変わらず人当たりの柔らかい微笑みを浮かべて、ブレックファストを口に運んでいる。

「ジェシカ、食事が進んでないみたいだな」

 グレガーが娘の顔を覗き込もうとしたとき――。

「うわあああっ」

 バチッとふたりの間に黒い稲妻が走り、グレガーは椅子から崩れ落ちた。そんな夫をミラが険しい表情で見つめている。

「ミラさん?」

 それに気づいたクウガが気遣うように声をかけると、ミラは我に返った様子で、すぐにぎこちなく笑った。

「ごめんなさい。私……やっぱり、おかしいのね」

「えっ」と、皆が動きを止める。

「最初は、ただの夢だと思っていたの。でも、何度も何度も、娘の部屋の窓から落ちるっていう、同じ夢ばかり見て……実際に窓も割れているし、あれは現実だったんだって」

「気づいていたのか?」

 驚くグレガーに、ミラは弱々しく頷いた。

「ええ、信じたくなくて……ごめんなさい」

「お前のせいじゃない。あいつの……マープルの呪いなんだよ、これは……っ」

 頭を掻きむしるグレガーを眺めつつ、私は添えられているベイクド・ビーンズをトーストと一緒に食べる。

 呑気に食事してる場合か? と言いたそうな視線をクウガが送ってきたが、とんだ茶番劇を見せられて辟易しているのだ。

「Dr.ウイッチさん、どうか……っ、あの怪物をなんとかしてください!」

 せっかくのバジルソーセージが不味くなるセリフだな。

 うんざりしながら、荒っぽくフォークとナイフを置き、食事を中断した。

「私は退治屋じゃないんだがな」

「そこをなんとか! 娘も妻も、怖がっていますし……」

 皿をぼんやりと見ていた娘は、焦ったように顔を上げる。

「私は、大丈夫……だから」

 娘のジェシカが本当に恐れているもの、求めている結末はなんなのか、それにようやく確信が持てた。

「いいだろう。退治してみせよう、怪物を」


 その日の夕方、私はクウガと向き合うように床に座り、キュアガンを磨いていた。

「なあ、なんで銃弾によって保存方法が違うんだ?」

 クウガは私たちの間にある麻袋と、ジュエリーボックスを見比べている。

「シードブレットには植物の種が詰まっている。植物の種は湿気、温度、直射日光を嫌うからな。通気性がよくて、遮光できる麻袋のほうが居心地がいいんだ」

 興味津々に「へえ」と相づちを打ちつつ、銃身を磨くクウガ。やはり、銃の話になると子供みたいに目が輝く。男のロマン、というやつなのだろう。

「それに対して、ジュエリーブレットは宝石だ。持ち主の邪気や周りのネガティブな気を吸いやすい。それから守るために、しっかりケースにしまう必要がある」

「なるほど。銃弾の性質に合わせて、保管しなきゃならないんだな」

「それだけではないぞ。クリニックに水晶クラスターがあったであろう?」

 水晶クラスターとは、水晶が集合したものだ。クウガも覚えていたのか、「ああ」と頷く。

「最も純粋で、すべての石の基となる存在……それが水晶だ。浄化作用があるゆえ、定期的に水晶クラスターの上にジュエリーブレットを置くことで、吸い込んだ邪気を浄化すると同時にエネルギーをチャージさせる」

「植物を育てるみたいだな」

「世話し甲斐があるであろう?」

 クウガは「ああ」と笑い、それから表情を引き締めた。

「昨日の……あの地面に残ってたシミのことだけど。マープルの病室の壁にあったものと、似てるよな?」

 その事実を口にしかけたクウガを指先で黙らせたのは、記憶に新しい。

「そのことについて、ぬしが聞きたがっていたのはわかっていたが、もう少し泳がせたくてな」

「あの霧人間を?」

「いいや……ここいらで、少し整理をしようではないか」

 私はキュアガンを夕日に照らすように持ち上げる。目を細め、その磨かれ具合を確認しつつ話す。

「マープル・ドライヤーは、アルコール依存症で入院したとのことだったが、服飾店の女主人での話では、酒臭い状態で仕事に来たことはなかった。娘への育児放棄と虐待の疑いもあったが、傍から見ればいい母親だったと」

「評価が矛盾しまくりだな」

「そう、その矛盾の発生点はどこにある」

「発生点……それは、夫であるグレガーのマープルに対する評価と、周囲の人間のマープルに対する評価の相違点に、じゃないか?」

「グレイト!」

 銃口を向けて褒めれば、クウガは私のキュアガンの先に手を添えて、下げさせた。

「指と銃口は、むやみやたらに人に向けるな」

「喜びのあまり、ついな」

「恐ろしい衝動だな」

 可愛い助手見習いとの掛け合いを楽しんだあと、私は本題に戻る。

「昨夜、娘の部屋に駆けつけたとき、ドレッサーの上に母と娘が一緒に映っている写真があった。自分を虐待した親との写真を、いつまでも飾るなど、おかしいとは思わないか」

「ジェシカは母親を嫌っていない……?」

「なにをされようと、生みの親を嫌えないのも、また子供の心理。とはいえ、今朝の発言は許容範囲を超えている」

 私は愛銃のキュアガンを立て、寄りかかるように頬を寄せる。

「食事のとき、父親が怪物退治を命じたな。その正体はマープルだと確信しながら」

「マープルの呪いだとか言ってたな。妻想いの夫だと思ってたのに」

「自分を虐待した母親が化けて出るのに、父が私に退治してくれと言ったとき、『私は大丈夫』だと言った。母を憎んではいないのは確実だな」

 クウガは頭を乱暴に掻く。思考がこんがらがっているのだろう。

「ぬしはグレガーを妻想いの夫だと思ってた、そう言ったな。それは、いなくなった妻をずっと探していたなんて話を聞いたからか?」

 質問の意図が読めない様子だったが、クウガは「ああ」と返事をする。

「あと、マープルが病気になったことを服飾店に説明しに行ったりしてただろ?」

「ほう、ぬしはそれを善意ととるのか。その純粋なところ、嫌いではないぞ」

「……? どういう意味だ」

 褒め言葉半分、甘さに少々呆れる気持ち半分で言った言葉だ。それを察したクウガは、怪訝な表情になった。

「グレガーには稼ぎがない。妻に仕事を辞められたら困るはずだ。だが、服飾店の女主人がマープルの復職を歓迎していたのにも関わらず、仕事は辞めさせると言った」

「それは戻れる病状じゃないから、休ませてあげたかったとか、いろいろあるんじゃないか?」

「では、見方を変えよう。そもそも金に困っていないのに、マープルを働かせていたのはなぜだ?」

「それは……そう、だよな。グレガーには、金意外に働かせる目的があった……?」

「身内が精神の病を患っていることは、皆だいたいは隠したがる。それをわざわざ、仕事場まで赴き、言いふらす。それがもたらすものは、なんだ? ぬしは、身に染みているはずだ」

 オルガが家を抜け出すたび、仕事を休まなければいけなかったクウガならば、わかるはずだ。お荷物を背負っている従業員、そんな冷たい目で見られるあの生きづらさを。

 そして、外見が違うというだけで、アビス患者や魔女というだけで受ける偏見を。

 クウガは震える声で、答えを紡ぐ。

「まさか……マープルを社会的に陥れるために? でも、どうしてだ。そんなことをして、グレガーになんのメリットが……」

「暴力というのは、身体だけでなく精神にも与えることができるのだよ。マープルは女主人の話によれば、評判のいいお針子だった。その仕事に誇りを持っていたやもしれん。そんな彼女のアイデンティティを奪う、それは立派な虐待だ」

 クウガは、まるで雷にでも打たれたような顔をした。

「でも、服飾店で働かせた目的がわからない。金もあった、そもそもやめさせるつもりだったなら、どうして……」

「服飾店にいる間、マープルはどこにも行けない」

「……! つまり、行動を制限させるため?」

「ああ。そして、行動を制限させるなら、家の部屋に監禁すればいい。だが、わざわざ服飾店に縛り付けた理由は?」

 クウガは眉間を寄せて俯き、考え込んでいる。

「……家の中だと、不都合があったんだ。たとえば、マープルが不在の間に、別の女に手を出していた、とか」

「私の弟子は優秀だな。さて、ぬしの洞察力をもっと試してみようか」

 私は自分の頭を、とんとんと指で叩いてみせる。

「こたびの本当の被害者は、誰だったのか。よーく、昨夜の出来事を振り返ってみろ」

 クウガは小さく唸り声をあげつつ、難しい顔で再び下を向く。

「昨日あった出来事……夜、ジェシカの悲鳴を聞いて、部屋に駆けつけたときのことだよな」

 真実をひとつひとつ手繰り寄せるように、言葉にしていくクウガ。その声に、私は耳を傾ける。

「部屋に行ったら、ベッドに怯えるジェシカと半裸のグレガーがいた。さっきのあんたの考察を踏まえれば、ジェシカは母親を憎んではいない。霧人間が母親かもしれないと考えているなら、それに怯えていたとは考えづらい」

 人の口が紡ぐ言葉は、脚色と偽りがほとんどだ。それは一本の真実に繋がる糸に複雑に絡んで、私たちを惑わす。

「そもそも、なんであんな時間に娘の部屋にいたんだ? 年頃の娘の前に、半裸で現れるなんて、デリカシーがなさすぎる」

「ごもっともだな」

「二十も離れた妻と再婚ってのも、どうなんだ。グレガーは若い女が好きなのか?」

 自分でそう言ったあと、なにかに気づいたように、勢いよく顔を上げた。

「いや、待て……ジェシカはグレガーに怯えていたのか? 大きな物音がしたとき、触れられそうになったときに過剰に怯えていたのも、虐待を受けていたから……それも、娘を辱めるような、惨い虐待を……。きっと、マープルを外に追い出して、その間に……」

 クウガの推理が終わったのを見計らい、私は拍手する。

「九十点。減点箇所は、昨夜のグレガーの言動についての考察が抜けているところだ」

「言動?」

「グレガーは『娘の悲鳴を聞いて駆けつけた』と言っていたが、それなら私たちもそうだったように、すでに黒い霧が窓を割って落ちたあとでないとおかしい。窓が割れる音と悲鳴は同時だったのだから」

 クウガの目が見開かれていく。

「……でも、グレガーは駆けつけたとき、黒い霧状の人間が窓を割って外へ飛び下りていくのを見たって……。部屋に駆けつけたタイミング的に、目撃できるはずがないのに」

「そうだ。それが可能だとすれば、グレガーは霧人間が窓を割り、娘が悲鳴をあげる前から、娘の部屋にいたことになる。夜分になにをしていたのだろうな?」

 不愉快だとばかりに、クウガの顔が露骨に歪んだ。

「それから、部屋にあった母マープルと娘ジェシカの写真。あそこに父親が映っていないのも、不自然だとは思わないか?」

「やっぱ、あんたの観察力には恐れ入る」

「治療者に必要なのは、まさにその能力だからな。ともかくだな、私たちは茶番劇を見せられていたのだよ」

 麻袋とジュエリーボックスから、ペパーミントのシードブレットと、灰色のマーブル模様が入っている白い石――ハウライトのジュエリーブレットをふたつずつ取り出す。それをキュアガンに詰めるよう、クウガにも手渡した。

「あの窓もない隔離室から、霧となって逃げたマープルは、間違いなくアビス患者だ。そして、病室の壁に残されていた顔と、ジェシカの部屋の窓の下にある地面に残されていたシルエットは、どちらも煤で描かれていた。ミラが霧人間となり、マープルが娘を抱いて窓から飛び降りた場面を再現したことからも、ふたりにはなにかしら繋がりがあるといえる」

「マープルがやってるにせよ、ミラがやってるにせよ、自分の痕跡を残すってことは、なにか伝えたいことがあるんだろうな……」

 そういう考え方ができるクウガを、助手見習いにしてよかったと思う。たいていの人間は気味悪がって、終わるからだ。

「霧人間は、夫には首を絞めるなどの危害を加えるのに、娘には扉の外へ出るようメッセージを送っていた。まるで逃げろと言わんばかりにな」

 扉を指差す仕草をすれば、クウガは納得したふうに頷いた。

「確かに。窓を割るのも、憶測の域は出ないけど、虐待の事実がわかった今、外へ逃げろっていう警告にとれる」

「そして、娘がグレガーに触れられそうになったとき、黒い稲妻が娘を守るようにグレガーを拒んだ。しかもあのとき、ミラはグレガーを睨んでいた」

「あれは、気味悪がってたわけじゃないのか?」

「いいや、マープルとミラは、グレガーから娘を守っている」

「ミラも?」

 クウガは見開いた目に、驚きの色を浮かべている。

「もしマープルがアルコール依存症ではないのに隔離入院させられたのだとしたら、アビス患者を不当に収容した病院側にも問題がある。そこの倫理観が欠如した医者と夫に貶められた母マープルは、幸か不幸か、隔離によって暴力による支配から抜けることができ、気づいた。暴力を受けながらも、娘と生きて逃げる選択ができなかった自分の異常さに」

 思考という舞台で上演される、マープル・ドライヤーが怪物になるまでの物語。まるでオペラハウスで劇を見ているかの如く、マープルに起きた出来事が鮮明に頭に浮かぶ。

「マープルはあの隔離室の中で、夫への怒りと憎しみからミアズマを溜め込みながらも、娘を助けなければという気持ちを募らせていった。とはいえ、病院に隔離された時点で自分が捨てられ、もうドライヤー家に帰ることができないこともわかっていた。だから……顔をつけた」

「顔……そうか! 壁の顔は、仮面だったのか……!」

 クウガは擬態化を経験している。姿を変えられる怪物がいたとしても、その事実をもう否定することはない。

「そういうことだ。マープルが消えた時期と、ミラが現れた時期は同じ。そこから導き出されるのは?」

 喉に張り付く言葉をなんとか紡ぐように、クウガは答える。

「マープルは……ミラという顔を被った?」

「そうだ。これは呪いではない。ふたりは同一人物」

 私は磨き上げられたキュアガンを見下ろし、その銀のレシーバー部分に映る自分の顔を見つめた。

「仮面をかぶり、他人になりすますことができる怪物は、憎き夫の新妻となって、この家に潜り込んでいる。娘を守る、そのためだけに」


 その夜、私たちはミラが黒い霧に変わる前に、密かに彼らの寝室の前で待機していた。

 ほどなくして、夫グレガーの苦しげな声が聞こえた。私はクウガと顔を見合わせると、中に突入する。

「ぐうっ……ちょうど、いいところに……! た、助けてくれ!」

 黒い霧状の人間に首を絞められているグレガーが、助けを求めてこちらに手を伸ばす。クウガはすぐに走り寄ろうとしたが、私はその腕を掴んだ。

「まあ、待て。ようやく愛しの怪物殿に会えたのだ。ゆっくり話でもしようではないか」

 窓辺に置いてあったチェアーをベッドの前まで引きずってきて、腰かける。足を組み、肘掛けに手を置くと、クウガが乱暴に背もたれを掴んできた。

「おい、呑気に話なんてしてる場合か!」

「なぜだ? 夫婦喧嘩なら、とことんやり合うべきであろう」

 あっけらかんと答える私に、クウガはなおも息を荒くして喋ろうとした。

 しかし、ウルフくんはこういうとき、決まって口出しをしない。クウガも、そんなウルフくんを責めるように振り返る。

「先輩も、なんで止めないんですか!」

『弟子というのは、意思を持ちつつも、その根本を主と共有すること。主がなにをしようと付き従う。私の考える助手とは、そういうものなのです』

 クウガは迷うように怪物に襲われているグレガーとウルフくんを見比べて、拳を握る。

 ウルフくんは決して強制はしていない。だが、見習いの立場だからか、クウガは先輩にならうことにしたようだ。

「なにを……っ、さっきから、ベラベラと……! こっちは、死にそうなんだぞ……っ」

 クレガーが怒声を飛ばしてくるが、私はそれを冷笑を浮かべながら眺めた。

「なにを言う。ぬしが依頼したのであろう? 怪物を退治してほしい、とな」

「そうだよ! 早く……っ、こいつをなんとかしてくれ!」

「なにを勘違いしている」

 グレガーの「へ……?」という間抜けな声を聞きながら、私は自分の髪の先を摘まんで、枝毛を探しつつ続ける。

「ぬしは己の欲のため、妻の未来を喰らい、娘を喰らい、その魂を穢した。それでもアビスにかからないとは……」

 私は足を組み替え、肘置きに頬杖をつくや口端を持ち上げた。

「他者を穢し傷めつけても、ぬしは良心が痛まぬということ。ある種の怪物だ。私が愛せないタイプの、な」

「なっ――俺が、退治される怪物だって、そう言いたいのか?」

 グレガーは声を裏返らせ、顔面を蒼白させる。

「おお、物分かりがよくて助かる。ちなみに、ぬしを退治するのは私ではないぞ」

 私は霧人間に向かって、顎をしゃくってみせた。

「娘を守るため、怪物になった母……ミラという仮面をつけたマープルが、だ」

「嘘、だろ……っ、う、ぐぐぐっ……苦し、い……」

 顔を真っ赤にして、自分の首を絞める霧人間の手を何度も掴もうとするが、敵わない。第一、霧なので触れることすらできないのだ。

 でも、母の怨念がそうさせるのか、グレガーの息の根を止める手だけは、その首をきつくきつく締めあげている。

「シャルロッテ、もう十分懲らしめただろ? このままだと本当に……」

 どんな人間でも死んでほしくない、か。そんなお人好しのクウガにしては、よく我慢したほうか。

「それを決めるのは、私たちではない。マープルと娘だけが、その罪を裁けるのだ」

 戸口に視線をやれば、騒ぎを聞きつけたのだろう。娘のジェシカが、悔しさと怒りを堪えるような涙を浮かべて、立っていた。

「だが……クウガよ。ぬしの綺麗事は曇りなくまっすぐ胸に届く。もしかしたら、ふたりを説得できるやもしれんな」

 その言葉にはっとした様子で、クウガはホルスターから抜いたキュアガンに視線を落とす。やがて、意を決したように私を見つめた。

「今のままじゃ、ダメだ。俺の声が届かない。だから、あんたの唄で、まずはマープルの怒りを鎮めてくれ」

「自分の役目を、私の使い方をよくわかっておるようだな。いいだろう、思うままにやってみろ」

 強く頷いたクウガは、キュアガンをすっと構える。

「まず、一発目」

 シードブレットをマープルたちのいるベッド周りに撃ち込む。中の種がばっと撒かれると、それに気づいたマープルが霧の触手をぶんっとこちらに振り下ろしてきた。

 私たちは大きく飛び退いて、それを避ける。触手が床をぶち抜き、家が激しく揺れた。

「ウルフくん!」

『御意に』

 すぐに私の意図を汲み、悲鳴をあげるジェシカのもとへ、ウルフくんが走っていく。

 クウガは次々と振り下ろされる触手を、床を転がりながらかわし――。

「……っ!」

 片膝をついたまま、すっと目を細め、マープルの頭上目がけて二発目を放った。空気を震わせるような甲高い音を立てながら、砕けた宝石の銃弾がキラキラと細長い線を描き、まっすぐに飛んでいく。

「頃合いだな」

 すうっと息を吸い、発した一声。水に落ちた雫が起こす波紋のように、静かで美しい旋律が広がる。

 唄の恵みを受けた種は芽吹き、床をペパーミントの葉が覆う。室内に満ちる爽やかな清潔感ある香りは、心の興奮状態を抑える効果があるのだ。

 夕方、ジュエリーブレットに選んだハウライトの白亜の輝きが、唄声に合わせてマープルたちの周りをぐるぐると回る。

 ハウライトは怒りを鎮め、地に足がついたような安心感と安定感をもたらす宝石。その煌めきの輪がゆっくりとマープルの動きを鈍らせていき、私はクウガに視線を送る。

 クウガはひとつ頷き、私の隣に並んだ。

「マープル! こんなやつのために手を汚したら、今度こそ本当に娘と引き離されるぞ!」

 娘を引き合いに出されると、やはり無視できないのだろう。マープルはグレガーの首から手を離さないものの、動きを止めた。

「ジェシカも、どんなに憎い父親でも、助けなかったことを後悔するかもしれない! 罪悪感で後々、苦しむことになるかもしれない!」

 クウガが説得しているときだった。ジェシカの足元の床板がバキッと抜ける。

「きゃあああああっ」

 ウルフくんがジェシカの服を噛み、なんとか堪えるが、人間ひとりを支えるのは厳しい。

「ジェシカ!」

 そう叫んだクウガと私が駆けつけようとしたとき、ジェシカの悲鳴を聞いたマープルがすぐさま黒い霧となって娘のもとへ飛んでいく。

 その身体を包み込むようにして引き上げた霧は徐々に人型のシルエットに戻り、娘を抱きしめた。

「お母さん……」

 そこにいるのはミラの仮面を被るでもない、もとのマープルの姿に戻るでもない、ただの黒い霧状の人間。目も鼻も口もないおぞましい姿だというのに、ジェシカは驚いていなかった。

「そうして生きて会えることが、どれだけの奇跡の上で成り立っている幸せなのか、俺は親を早くに亡くしたから、わかる! 今ある温もりを絶対に離しちゃいけない! そのために、復讐はやめてくれ。苦しんだ分、日の当たる世界をふたりで生きてくれ!」

 クウガの言葉や考えは綺麗すぎるものの、なぜか耳心地がいい。きっと、怒りや憎しみに邪魔されて、そういった純粋な感情を人は歳を重ねるごとに失っていってしまうものなのだろう。

 でも、クウガは……どんな苦境に立たされても、綺麗なままだ。

 マープルもクウガの言葉に迷っているのが、揺れる霧の様子でわかる。すると、ジェシカがマープルの頬に手を添えた。

「ずっと、存在を感じてた……でも、確証が持てなくて……お母さん……なんだよね?」

 びくりと、マープルの身体が震える。そして、人間離れした割れたような声で弱々しく発した。

「どう、して……」

「私がピンチになると、必ず助けてくれたでしょう?」

 娘のひと言が、マープルの最後の仮面を壊した。霧が晴れていくごとに、人間のときのマープルの顔が現れ、その身体も元に戻る。

「ありがとう、お母さん」

「ありがとう、なんて……私は、あなたと心中しようとしたのよ? 許されることじゃないわ。そんな言葉をかけてもらう資格がない……」

 項垂れる母を、娘が「お母さん……」と縋るように呼び、そっと抱きしめる。

「お母さんは、私を連れて逃げようとしてくれただけ。私、それがわからないほど子供じゃないよ」

「っ、ジェシカ……」

 マープルは目に涙を溜め、娘を抱きしめ返した。

 私は唄うのをやめ、崩壊した床に気をつけつつ、マープルたちに歩み寄る。

「もう少し、痛い目に遭わせてからでもよかったが……」

「あんた、初めから助けるつもりで……」

 クウガのそんな声が聞こえ、横を通り過ぎる間際に笑みを向けると、私はマープルとジェシカの前で足を止めた。

「マープルは服飾店のお針子という顔も、妻という顔も失った。そんなぬしにもひとつ残った顔がある。母という顔だ」

 不安げに揺れていたマープルの瞳に、意思の光が戻る。

「私の愛弟子も言っておったが、ここで殺人など犯せば、これから娘と幸せに暮らせなくなってしまうぞ。それどころか、アビス患者の殺人は情状酌量の余地なく死罪だ。ゆえに踏みとどまり、娘と生きろ」

「……っ、わた、私……あいつが許せなくて……っ」

 膝の上で拳を握り締めたマープルは、涙を浮かべながら怒りに身体を震わせた。

「ぬしの事情は大方、察しがついている。アルコール依存症というのも嘘だな。娘と心中を図った精神異常者は、アビスを発症していても、おかしくないと疑われたのであろう。病院側も危険人物を野放しにはできん。ぬしを閉じ込める必要があった」

「はい。でも、アビス患者がいると他の患者に知られれば、家族から非難されるかもしれない。だから、アルコール依存症なんて適当な診断をしたのだと、看護師が廊下で話しているのが聞こえました」

 悔しさに突き動かされてか、マープルは早口でそう言ったあと、やがて気を静めるように深く息を吐きだした。

「私は娘のために、あそこから逃げ出した。そのはずなのに、怒りで我を忘れてしまって……また捕まったら、本末転倒……ですよね」

「そういうことだ。悪いが、悲観に暮れている暇はない。ぬしの事情は正直言って、あまりいいとは言えん」

 私にならうようにして、皆が気絶しているグレガーを振り向く。

「マープルよ、ぬしは擬態化まではいってないが、それに近い状態だ。このまま治療をすれば、本来の姿を維持し続けることも可能だろうが……」

「でも、それだと病院に戻されてしまうわ」

「そうだな。ならば、腹をくくるしかあるまい。これからも娘を守る怪物のまま、マープルの人生を捨てて生きていくほか、道はない」

 マープルは思ったより動揺することなく、私の話を聞いていた。そして、娘の手をしっかりと握りしめる。

「そうね、覚悟を決めるわ」

「母は強いな。それでは、さっそく旅支度をしようか」

 荒れ果てた寝室に、グレガーひとりだけを残して、私たちは荷物をまとめた。


 数十分後、家の前にはグレガー以外の面々が集まっていた。

 改めて彼女らと向き合い、大きく膨れた布袋を差し出す。そこにいるマープルの姿は、すでにマープル・ドライヤーではなく、ミラだった。

「選別だ。これでしばらくは生活できるであろう?」

「これって……」

 膨れた布袋の紐を解いたマープルが、中身を見て驚愕の表情を浮かべた。

「グレガーから巻き上げた金だ。あやつ、ぬしの稼ぎをせしめていただろう。ぬしが受けた仕打ちを思えば、これでも足りないだろうが、貰えるもんは貰っておけ」

 ジャラジャラと音を立てる硬貨の山に、クウガははっと目を見張る。

「だから前払いだったのか。あとで必要になる、今徴収しておかないと、その機会はもうなくなる……確かにそうなったな。初めからこの結末が見えてた、あんたが恐ろしいよ」

「褒め言葉として受け取っておこう。して、マープル」

 私はマープル親子に向き直り、折りたたまれたメモ紙を差し出す。

「怪物として生きていくにしても、アビスの治療を続けなければ、自分が望む望まないに関わらず、誰かを傷つけてしまうこともあるであろう。それゆえ、うちのクリニックを訪ねてくるとよい。そこに住所が書いてあるゆえ」

「なにからなにまで、本当にありがとうございます」

 母につられるようにして、ジェシカもウルフくんの前にしゃがみ、その頭を撫でる。

「あなたも、さっき落ちそうになった私を助けてくれて、ありがとう」

 ウルフくんは『わう!』と返事をして、そのまま撫でられている。そんな娘を優しい眼差しで見守っていたマープルは、しみじみとこぼす。

「私に外へ飛び出すきっかけを作ってくださったあの人にも、感謝しないと……」

クウガは「あの人?」と眉を寄せた。

「ええ、お医者さんの中にひとりだけ、私を気味悪がらずに様子を見に来てくださる方がいらっしゃって……」

 マープルは自分の胸に手を当て、微笑む。

「その方が、力の使い方を教えてくれたのです。負の感情を募らせて、それを自在に操る……そして、自由になる術を」

「……憐れな怪物の子。そやつは、ぬしにそう言ったのではないか」

 驚いたように、マープルは目を瞬かせる。

「なぜ、Dr.ウイッチ様が、それを……?」

 クレガーもその医者が誰なのか、気づいたのだろう。

「あの、シルクハットの男か」

「そうなるな。だが、マープル。ぬしは憐れではない。特別で、愛しい怪物の子だ。底知れない闇に堕ちても、母の愛を忘れずにいた己を誇り、生きていくがよい」

 マープルの喉が込み上げてくる涙を?み込むかのように、ごくりと動いた。

「……っ、はい。たとえ、どんな不幸に見舞われたとしても、私はジェシカの母です。それだけは見失いません」

 お辞儀をして、私たちに背を向けるマープルとジェシカ。手を固く繋いで、夜の闇の中に消えていくふたりを、私たちは見送った。


 二階建ての大きな蒸気船が豪快に波を切る。

 甲板の最後尾から遠ざかるブロッサムエイクの港を眺めていると、手すりに背を預けていたクウガが言う。

「それにしても、あのまま行かせてよかったのか? 病院の依頼はマープルを探して再入院させることだろ? 今後も探されるんじゃないか? それに、依頼を受けた俺たちだって……」

 手すりに肘をつき、潮風に髪を靡かせながら、私はふっと笑う。

「病院側はマープルがアビスだと診断される前から、アビス患者だと決めつけ、病院に隔離したのだぞ? しかも、入院させるためにアルコール依存症だと適当な診断をくだしてな。さあて、この事実が公になれば、どうなる?」

「そりゃあ、信用問題に関わるだろうな。国営の大病院ともなれば、国の要人とか、貴族の患者もいるだろうし、かなりの痛手だよな」

「そうだ。アビス患者が入院していることを、病院側は権力のある患者に知られたくなかった。だから、アビスの疑いがある段階で隔離し、万が一にアビスを発症されても、その事実が露呈しないようにした。ゆえに、これらを脅しの材料に、病院の委員長宛に手紙を送っておいた。今頃、手紙の内容にガクブル震えているだろうよ」

 堪えきれずに「ふふふふふっ」と笑っていたら、ウルフくんが呆れ気味に見上げてくる。

『楽しそうですね、シャルロッテ様』

「楽しかったことといえば、もうひとつ。グレガーにも置き手紙を残しておいたぞ」

 クウガとウルフくんが渋い面持ちで、視線を交わす。

「目が覚めたら家はボロボロ、妻も娘も家出、依頼したDr.ウイッチは報酬だけ奪って逃走……なんて状況、なかなかないであろう?」

「一生分の不幸が一気に襲ってきた勢いだよな」

「警察を呼ばれると面倒だ。それゆえ、あやつが娘や前妻にした数々の悪行を町の新聞社にリークされたくなければ、金輪際、彼女たちを探さないこと。それを守らなければ、Dr.ウイッチの名において、ぬしがアビス患者であると公言し、永久に隔離入院させるぞ、と丁重に牽制しておいたぞ!」

 語尾を弾ませると、クウガが白けた目で言う。

「楽しそうだな、あんた」

「報酬は全部、マープルたちにやってしまったからな。これくらいは楽しませてもらわんと、割に合わん」

 それにクウガの初仕事にしては、難易度も高すぎずで丁度良かったしな。これが擬態化するアビス患者相手なら、怪我は避けられなかったやもしれん。

「ふふん」

 鼻歌を唄いながら青空を仰ぐと、クウガとウルフくんも同じように顔を上げた。

「確かに、まあ、清々しい仕事ではあったな」

『そうですね。あとはあの親子が向かう先に、幸福が待っていることを祈るばかりです』

 ふたつの雲が寄り添うようにして流れていく。あの親子のように、果てしない空をどこまでも、いつまででも。

「マープルは私の患者だ。きっとまた会える。そのときは、ふたりがどんな旅をしたのか、どんな幸せを手に入れたのか、土産話を楽しみに待つとしよう」



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