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Record1. 卵に戻る少年

 私が彼だけの魔女で、彼が私だけの怪物であった頃。

 世界にはふたりだけ、それが寂しいということにすら気づいていなかった遠い日の記憶を夢に見た。

 だからか、列車の寝台で目が覚めたときから予感があった。

「ウルフくん、今日はもう一仕事してから帰ることになりそうだ」

 到着を知らせるベルの音が鳴り響く。私はホルターネックのブラックワンピースの上から羽織った白衣をはためかせ、連れと共にホームに降り立つ。

 高いドーム上の屋根についた天窓から、光が差し込んでいる。

 この『グランドア中央駅』は時計や階段、番線の標識までもが重厚感ある装飾に溢れている。ひとつの芸術品のように美しいことから『鉄道の大聖堂』とも呼ばれているほどだ。

 ホームにはステッキを持ったモーニングコートの紳士やワンピース・ドレスの淑女、ラフなスーツや軍服に身を包んだ様々な人たちが行き交っている。そんな中、私の隣を歩く連れが言う。

『やれやれ、ですね。ここからでも、臭いが鼻を突いてきます』

 低音の美声がチャームポイントのウルフくんは、ライトグレーとホワイトの毛色をした狼だ。首には、私が髪をまとめるのに使っているディープレッドのリボンと同じリボンが巻かれている。

 人間ならば、さぞダンディーな紳士であろう私の相棒にして有能な助手だ。かれこれ、八年近く一緒にいる。

 ウルフくんは私生活においても、仕事においても、私にとって必要不可欠な存在だ。大勢の人の中から〝とある臭い〟を嗅ぎ分けることができる。

『こちらです、シャルロッテ様』

 治療道具やカルテが入ったレザーのトランクケースを手に、ウルフくんのあとをついていく。

「なにするんだよ!」

 声が聞こえたほうへ目をやれば、人混みの隙間から年配の駅員に羽交い絞めに抱き上げられている少年が見えた。歳は十かそこらだろうに、きりっとした眉と切れ長の目がどこか大人びて見える。

「あの子だな、ウルフくん」

 少年の身体から黒い霧が出ている。あれは常人には目視できない、ミアズマと呼ばれる瘴気(しょうき)だ。心の器から溢れ出た負の感情そのもので、ウルフくんはこの臭いを探知できる。例えるなら、石炭が焼け焦げるような臭いらしい。

「で、おっさん。〝町角の魔女〟って知ってるか?」

 少年の口からこぼれ出た単語に、私はウルフくんと顔を見合わせる。

『シャルロッテ様のお客様のようですね』

「私のお客のようだな」

 ふたりで話しているときだった。駅員が「うああああっ」と悲鳴をあげた。

 視線を戻せば、少年が尻餅をついているのだが、信じられないことに先ほどよりも四、五歳ばかり若返っている。身体も小さくなっているので、シャツとズボンに着られている状態だ。

「お前まさか、キャリアか?」

 騒ぎを聞きつけた乗客たちはどよめき、少年から距離をとる。

悩める人々の精神を(むしば)む心の闇は、ああしてときどき奇妙な症状を引き起こす。その(やまい)を『アビス』という。

『キャリア』というのは、アビスを発症しうる可能性を秘めた患者を指す医学用語なのだが、市民らが言う場合は差別用語として使われることが多い。

 負の感情が(みなもと)になった心の闇は、しばしば常人には見えないミアズマとなって身体から放たれ、周囲に災害という形で悪影響を及ぼす。

 ミアズマの過多、それによる軽度の身体的変化、周囲への病災を引き起こしている状態の患者を『キャリア』。心の闇に取り込まれ重症化し、重度の肉体的変化――怪物となった患者を『アビス』と呼ぶ。

 アビスを発症すると感情をコントロールできず、たびたび人を襲うことから皆が患者を忌み嫌うのだ。

 普通の枠を外れた者を異端と忌み嫌う眼差し。その無数の棘の前に晒された少年は、青ざめながら微かに唇を動かした。

『誰か……』

 普通ならば聞こえるはずがないほど、か細かった。けれども、私の耳にはしっかり届いた。少年の助けを求める声が。

 私には見えた、縋るように伸ばされた手が。

「行こうか、ウルフくん」

 ――あの手を掴みに。

 ウルフくんは『御意(ぎょい)に』と言い、あとをついてくる。

 通常の医学では太刀打ちできないアビスを治せるのは、古くから異端と忌み嫌われ、伝説上の存在と信じられてきた魔女だけ。

 ゆえに人々は、畏怖しながらも最後の救いを求め、私をこう呼ぶ。

 ――Dr.ウィッチ、と。


   ***


 世界七大陸の中で最も大きい楕円形のグラーシア大陸。その最西端に三日月のような形をした島がふたつ、背を向け合うように海に浮かんでいる。大陸から少しばかり切り離された位置にあるマリンヴェネと呼ばれる小国だ。

 町の都市部は建造物や道が暖色を基調としたレンガ造りで、水路が多く、ゴンドラが主な交通手段になっている。ゆえに水の都とも謳われる。

 温暖で雨が少なく、四季の区別がはっきりしているので、季節の花々が町を美しく彩っており、観光地としても有名だ。

 ふたつの島は西部、東部と呼ばれ、双方を行き来するには船もしくは海にかけられた鉄道に乗る必要があるのだが……。

 さっそく、黒煙を噴き上げながら走る漆黒の列車の窓から、金髪碧眼の男が顔を出す。

 白いワイシャツに、モスグリーンのサスペンダー、ブラウンのズボンに黒革のブーツを履いており、腰のベルトの右側には護身用のリボルバー拳銃一丁が入ったホルスター、左側に短剣一本をつけている。

 恰好こそキマっているが、見た目は十歳の少年。認めたくないことに、受け入れがたいことに、これが今の俺――クウガ・エーデルワイスだ。

 言っておくが、俺は子供ではない。決して威張っている子供の戯言(ざれごと)でもない。俺は二十五歳、れっきとした大人の男だ。

 ――わけあって、〝子供に戻って〟しまっただけで。


 マリンヴェネ東部、ガルダ。

 水車小屋や田園、素朴ながらも心を和ませる風景が広がっている町。その外れ、静かで美しい自然に囲まれた湖の(ほとり)に立つ木造一軒家で、俺は弟と慎ましやかに暮らしていた。

 けれども五日前、俺の日常は一八〇度変わってしまった。

『嫌だっ、兄さん、悪いやつ!』

 十歳の弟が両の拳でテーブルを叩く。ガシャンッ、ビシャッと数少ない食器や貴重な朝食が音を立てて床に落ちた。

 バジルがかかったエッグトーストの潰れた黄身が、どろりと床を汚していく。これから仕事に出なければならないというのに、散った食器の破片を片づけるのに時間を取られる。また食器を買わなければならないのも、合わせて痛手だった。

『オルガ……怪我はないか』

 自分の声に疲れが滲んでいることはわかっていた。だが、それはとても罪深いことに思えて、表情だけでもいい兄像を崩さないよう努める。

『兄さん、悪いやつ! なな、なんで、なんで、僕の、僕の赤い、コップ!』

 そこで、弟の言わんとすることを察することができた。いつも使っていた食器でないことが嫌なのだと。

 そんなことで……と黒い感情が湧き上がってきそうになり、俺は頭を振る。今のは兄として、間違った感情だ。

 弟が産まれて数年と経たないうちに両親ははやり病で他界、その日から俺はオルガの兄であるのと同時に、親代わりになった。

 弟は同年代の他の子供に比べて発達に遅れが見られ、今のように使う物に強いこだわりがあったり、言葉のレパートリーが少ないために気持ちを伝えることが苦手で、誤解されがちだ。

 自分の欲求がうまく通らないと、すぐにかんしゃくを起こし、近所の子供を叩いたり、奇声をあげたりする。そうして問題を起こすたびに引っ越しと転職を余儀なくされ、いつまで経っても貧乏生活から抜け出せない。

 町の外れに引っ越してきたのも、弟には周囲の目を気にせずに生活してほしいからだった。オルガを見た人間は決まって、奇異の視線を無遠慮に向けてくるからだ。

 そこで、唇の端に自嘲的な笑みが滲む。

 いや……それは建前だ。俺自身が、もう疲れていたからかもしれない。問題を起こす弟の代わりに、謝罪して回ることに。

 幸い、都市部から遠く離れているからか、年季の入ったこの中古戸建は安く借りられた。あとは俺がこれまで通り、パン屋の下働きなり郵便配達なり、仕事を続けられれば生活していける。

『オルガのコップは古くなって、割れてしまったんだ。今日からは、それを――』

 キーッと、奇声をあげながらコップを手で払うオルガ。買ったばかりのそれは地面にぶつかり、パリンッと乾いた音を立てて割れる。

 仕事帰りに、オルガが気に入るだろうと思って選んだコップだった。オルガの好きな猫の絵が入っているコップで、普段なら安物で済ませるところ、ほんの少しだけ奮発して買ったものだった。

『いらない! こんなもの、いらない!』

 オルガが手足をばたつかせながら、わーわーと喚く。

 わかっている。オルガのために作った朝食も、買ったコップも、結局は俺が勝手にしたことで、感謝や見返りを求めるべきではないことくらい。

 第一、オルガは生まれつき生きづらさを抱えている。それを思えば、オルガがかんしゃくを起こすのも理解できる。

 オルガが産まれたときから、両親には『お兄ちゃんなんだから、弟をしっかり守るんだぞ』と言い聞かせられてきたのだ。兄として、どんな感情も受け留めてやるべきだ。

 なのに、胸の奥でピキリと音がする。

 俺は目の前で潰れた卵に視線を落とした。

 そうまるで、卵の殻にヒビが入るような、そんな音だった。

『オルガ……』

 その先は言葉にならず、行き場のない思いをため息で流す。

 弟の罵声を聞きながら、俺は無言でほうきとちりとりを持ってくると、食器の破片を拾う。しゃがんだ俺の頭に弟が投げつけたスプーンがぶつかって、床に落ちた。スプーンについていたクラムチャウダーで、また床が汚れる。

 こういうときは決まって、ただ無心に目の前の作業に没頭した。何も考えないように、黙々と破片を片付け終えた俺は立ち上がる。

『水、汲んでくる』

 床にしみ込んだ卵を拭き取るため、俺はバケツを手に外へ出た。

『はあ……』

 水も汲まず、湖の前で深く息を吐く。

 しばらく、思考が停止していた。なにかを考えだしたら、よくないほうに転がり落ちていくだけのような気がして、自分がひどく嫌な人間になってしまう気がして、少しでも気分が変わればと自然に目を向ける。

 青空は、俺の気持ちなど知ったことかと言わんばかりに清々しい。それが憎らしくて、つい――。

『俺は……』

〝よくないもの〟が口をつきかけ、慌てて唇を引き結んだときだった。

 瞬きをした次の瞬間、一気に空が遠くなった。それだけじゃない、湖を囲うように立っていた木々も心なしか背が高くなったような。

 なん、だ……?

 心臓がバクバクいっている。恐る恐る自分の両手を見ると、弟と同じくらい小さかった。

 ひゅーっと喉が鳴る。思わず後ずされば、肩からワイシャツがずり落ち、俺はへたり込んだ。

 立ち上がろうにも、長くなったズボンの裾に足を取られ、転びそうになる。とっさに四つん這いになると、そのまま湖の前まで這っていく。

 そして、水面に映った自分の姿を見た俺は驚愕する。

『……嘘、だろう?』

 声変わりしたはずなのに、自分の喉から響く声は明らかに高い。

 そう、それは唐突に、なんの前触れもなく起きたのだ。

『俺、子供に……子供に、戻ってる……?』


 とにかく焦っていた俺は、町の中心部にある診療所に飛び込んだ。

 医者は俺を見るなり、目線を合わせるように深く屈んで、こう言った。

『お父さんとお母さんは、どこかな?』

 今考えれば、当然と言えば当然だが――。

『俺は子供じゃないんだ! 急に子供に戻ったんだ! 頼む、どうにかして治してくれ!』

 そう馬鹿正直に話してしまったもんだから、子供のイタズラだと思われて、診療所を追い出されてしまった。

 それからたくさんの町医者を訪ねたが、相手にされず、茜色に染まる人気のない路地をとぼとぼと歩いていた。

 これからどうすればいい。こんな身体で、どうやってオルガを守っていけば……。

『なんで、俺ばっかり……こんな目に……っ』

 もう駄目かもしれない。

 拳を握り締め、諦めかけていたとき、そいつは現われたのだ。

 地面しか映っていなかった俺の視界に、なんと形容すべきか……。バッファローのような角とハリネズミのような棘を持ち、コウモリのような翼を生やした大きな影が入り込む。それを総じて表すなら、〝怪物〟だろうか。

『うわっ』

 慌てて後ずさると、足がもつれて尻餅をついてしまった。ゴクリと唾を飲み込み、冷や汗が額に浮かぶのを感じつつ、顔を上げていく。

 すると、黒いシルクハットにタキシード姿の長身の男が立っていた。後ろでひとつに結ばれた銀の長髪は、夕日を吸い込んだように赤く煌いている。

 男は白い手袋をはめた左手で細やかな彫刻が施されたシルバーグリップのステッキを持ち、右手でシルクハットのつばを押さえていた。

 人間……だよな?

 影をもう一度確認すれば、ちゃんと人型をしている。

 さっきのは見間違いか。子供の姿になってから、いろいろあったからな。俺は相当疲れているらしい。

『前を見てなかったので、すみません』

 立ち上がった俺は早口でそう言い、シルクハットの男の横を通り抜けようとした。

『きみは面白いね』

 俺に話しかけてるのか?

 戸惑いつつも足を止める。シルクハットを深く被っているせいで口元しか見えないが、男は微笑を浮かべていた。

『今、なにを見た?』

『え……』

 その問いに頭を過ったのは、男の影だ。でも、あれは俺の見間違いで……。

 感じていた薄気味悪さが、はっきり恐怖に変わり、膝が震える。そんな俺とは対照的に、男は余裕を崩さず、ふっと笑みをこぼす。

『見えるほど重傷なのに、まだ堕ちていない。きみの辿る結末を見てみたくなった』

『さっきから、なにを言って……』

『それは、普通の医者には治せないよ』

『な……っ』

 こいつ、俺が子供じゃないことに気づいて……?

 目を見張っている俺に、シルクハットの男が向き直る。

『カプスピテにいる〝町角の魔女〟を訪ねるといい』

『は?』

『それでは、また会おう。憐れな怪物の子』

 男は自分のシルクハットを脱ぎ、俺の頭に被せる。成人の男が身に着ける帽子だ、子供サイズの俺には大きすぎた。

『おいっ』

 シルクハットに視界を奪われた俺は、慌ててそれを脱ぎ去る。

 しかし、俺に謎の助言をしていった男は、すでに消えていた。その顔を拝む間もなかった。

 からかわれていると思いつつも、翌日。俺は縋るような思いで、列車に乗っていた。あの男のシルクハットを抱え、マリンヴェネ西部のカプスピテを目指して。


 マリンヴェネ西部中央、カプスピテのグランドア中央駅は都市部なだけあって、人でごった返していた。

 背丈が低いので、大人から俺の姿は見えづらいのだろう。ぶつかられながら、人の間を縫うように出口を目指していると――。

「おい、子供がひとりで危ないぞ」

 ひょいっと、羽交い締めにするように後ろから抱き上げられる。

「なにするんだよ!」

 手足をばたつかせ、抗議しながら振り向けば、年配の駅員が怪訝そうに俺を見ていた。

「お父さんとお母さんは?」

「その質問は聞き飽きた。そんなことより、聞きたいことがある」

「お前、子供らしくないなあ」

 そんなの、昔からだ。

 自覚していることを指摘されるほど苛立たしいことはなく、俺はふてぶてしく返してしまう。今の俺に、他人を気遣えるほどの余裕はなかった。

「で、おっさん。町角の魔女って知ってるか?」

 駅員は「おっさんって、お前なあ」とぼやく。

「なんでまた、町角の魔女に興味を持ったんだあ? 坊主」

 否定しないのか? 魔女なんて伝説上の生き物を。……いや、違うか。その人間が医者なのか、カウンセラーなのかは知らないが、通り名かなにかなのだろう。

「坊主じゃない。俺の頭見ろよ、おっさんよりふさふさだろ」

 髪のことを言っているわけではないことは、わかっていた。

 子供って得だな。悪態ついても角があまり立たない。俺の八つ当たりも、「おいおい、ひでえな」で済んでいる。

 そんなことを考えたときだった。駅員が「うああああっ」と悲鳴をあげ、俺を地面に落とした。尻餅をついた俺は、駅員を睨み上げる。

「危ないだろ! 急に手を離すなよ!」

「お前……その身体……」

 駅員は怯えたように俺を指さした。

 なんだ……?

 訝しみながらも、自分の姿を見下ろす。すると、さらにひと回り身体が縮んでおり、シャツもズボンもだぼだぼだった。

「なっ……」

「お前まさか、キャリアか?」

 キャリア? キャリアってなんだ? 

 それを尋ねる間もなく、駅員の声を聞いた乗客たちが、「キャリアだって?」「嘘っ、キャリアですって?」と口々に言いながら、ばっと俺から距離を取る。

 この視線を俺は知っている。自分とは違う、普通から逸脱したものを蔑む奇異の眼差し。いつも弟が受けてきたものだ。それが今、俺に注がれている。

 さーっと血の気が引いていった。

 ――誰か……。

 助けを求めるように視線を彷徨わせるも、関わり合いになりたくないと言わんばかりに目を背けられるか、俺がここに存在していることを責めるように睨まれるかだった。

 今の俺は子供だ。味方がいないこの状況で、自分の身を守る術など持ち合わせていない。

「誰か……」

 そう声に出してすぐ、はっと嘲笑する。

 俺を守ってくれる人間なんて、今までいたことがあったか?

『嫌だっ、兄さん、悪いやつ!』

 弟を養うために働いても、肝心の弟は俺を責めるばかり。

 俺が仕事に行っている最中、弟が家から勝手に抜け出していなくなったときも、

『すみません、仕事、途中で抜けさせてください』

『また弟? これで何度目? こういうの、困るんだよね。仕事をなめてるとしか思えないよ。悪いけど、今日でやめてくれる?』

 弟が近所の子供と喧嘩して手をあげたときも、

『すみません、治療代はお支払いしますから……』

『あなた、お兄さんなんでしょう? ちゃんと面倒見てもらわないと困るのよね。そんなに問題ばかり起こすんなら、弟さん、どっかの施設にでも預けたらどう?』

 雇い主や周囲の人間から返ってくる言葉は、だいたい決まっていた。

 頭を下げるたび、何度、拳を握りしめてきたかわからない。

 ――世界はいつだって、俺に冷たかったじゃないか。

 助けを求めて手を伸ばしたところで、誰も掴んではくれない。人に期待するから、虚しい気持ちになるんだ。

 だったら、初めから期待しなければいい。諦めてしまえばいい。今までもそうして、生きてきたはずだ。

 それなのに……なんで、こんなに不安なんだ。涙が滲むんだ。

 心が弱くなってしまったのは、救いを求めてしまったのは、きっと身体が子供に戻ってしまったせいだ。

 もう何度目だろう。俺は厳しくて、優しさの欠片もないこの世界で、窒息しかけていた。そのとき――。

「失礼、通してくれ」

 人混みが左右に割れていき、白衣を着た女と大型犬がやってくる。

 女のほうは二十歳くらいだろうか。女の緑がかった黒髪は足元まであり、ディープレッドのリボンで左サイドに三つ編みにまとめられている。

 顔周りの髪と同様にまっすぐ切り揃えられた前髪の下には、神秘的なエメラルドの瞳。左目の下にはほくろ。

 くるぶしまで隠れるブラックワンピースの胸元で、瞳の色と同じ宝石が埋め込まれたブローチが煌めいている。

 女はダークブラウンのブーツをコツリと鳴らし、俺の前で足を止めた。

「ほう、これまた重症だな」

 腰を折った女は顎をさすりながら、俺の顔を無遠慮に覗き込む。

 乳白色の肌とふっくらとした艶のある薄紅の唇が近づき、鼓動がとくりと跳ねた。

 女は地味な出で立ちながら、淡い月に照らされた野草のように、神秘的な美しさがある顔立ちをしている。

 不覚にも目を奪われていると、女は失礼なことに「臭うかね、ウルフくん」と言い、大型犬を振り返った。

 俺のときめきを返せと思いつつ、こっそり自分の臭いを確認する。そんなに匂うだろうかと首を傾げたりしながら、大型犬に目をやる。

 あの犬、ウルフ……だったか。ウルフ……いや待て。まさかこいつ、犬じゃなくて狼……なんてことはないよな?

 ライトグレーとホワイトの毛色が混じった犬(?)は、女の言葉を理解したように頷いた……ように見えた。

「おい、あれって……」

「ああ、町角の魔女だよ」

 そんな野次馬の話し声が聞こえてきて、俺は驚愕する。

 この女が……!

 周囲の奇異の眼差しをまったく気にしていないのか、俺に視線を戻した女は呑気にニンマリとする。

「やあ、少年。ぬしの手を取りに来たぞ」

「は……?」

「さっき、私を求めただろう? 誰か助けて、とな」

「……!」

 聞こえるはずがない、あんなか細い声。それに、はっきりと『助けて』とは言葉にしていない。そんなことをしても、無駄だと知っているからだ。でも――。

「今まで、よく頑張ったな。大変だったであろう」

 女は俺に手を差し伸べる。

「おいで、愛しい怪物の子よ」

 でも、偶然か必然か。

 俺の声なき声を拾い上げてくれたのは、白衣を着た黒衣の魔女だった――。


   ***


 海沿いの町角にある二階建ての診療所【Dr(ドクター).Witch(ウィッチ) clinic(クリニック)】は、窓から水上を走るゴンドラが見えて眺めがいい。

 クリニックに入ってすぐに感じるのは、緑の香りだ。天井を覆う勢いでぶらさがっているドライフラワーと、柱や壁につるを張っている植物から発せられるものだ。

 一階は事務所兼リビングになっており、奥にキッチンやバスルームなどの生活空間がある。二階は私室が二部屋あるのだが、私とウルフくんしかいないので、一部屋は物置化していた。

 家具は落ち着いたものが多く、マホガニー材の書斎机や二人掛けのソファーに挟まれたコーヒーテーブル、ビューローブックケースなど。ブックケースには、私が直筆で書いたアビスに関する分厚い医学書がびっしりと収納されている。

 サイズダウンしてしまったせいで、服がだぼだぼのクウガ少年は、ティーカップを手に、室内を物珍しそうに見回していた。

 彼の向かいに腰かけた私は足を組み、両手の指を交差させるや、さっそく本題に入る。

「単刀直入に言おう。ぬしはアビスを発症しかけておる」

「あび……す?」

「今、ぬしの身に起こっておるような、やっかいな症状を起こす奇病のことだ。知らずとも無理はない。アビスの存在が認知されるようになったのは、最近のことだからな」

 そんな病があるのか、とクウガ少年の顔に書いてある。

「常人には見えんが、心の器に収まりきらなくなった負の感情は、ミアズマとなって身体から放たれ、自他ともに悪影響を及ぼすのだ」

「その、みあ……なんとかってのは、なんなんだ?」

「古代から病を引き起こすと考えられた悪い気のことだ。私の優秀な助手、ウルフくんは、その匂いを嗅ぎ分けられる」

 私は隣で姿勢よくおすわりしているウルフくんの背を撫でた。

「ウルフくん……」

 クウガ少年は警戒しながら、ウルフくんに視線を移す。

「ちなみにそいつ、狼……じゃないよな? そう見える犬種か?」

「いいや、まごうことなき純潔の狼だ」

 誇らしげに胸を張って答えれば、クウガ少年の顔からさっと血の気が失せた。

「狼を飼うのは好きにしろ。けどな、あんな人が多い駅に連れてくのは、危険じゃないのか?」

「人間ってのは、つくづく固定概念の強い生き物だな。狼が危険だと決めつける」

「俺は一般常識としてだな……」

「ぬしの常識など知らん。ウルフくんは狼としての身体能力はあれど、人に危害を加えるような狼ではない。先入観は時に、自分の首をも締めるのだぞ」

 なにか思うところがあるのか、クウガ少年はぐっと黙り込む。

「話を戻すが、ミアズマは周囲にいる人間の苛立ちを駆り立て、自殺願望を触発したりと、悪影響を及ぼす。災害のようにな。ぬしのように、人間の姿を保っていられている段階の患者は闇持ち――キャリアと呼ばれておる」

「人間の……姿を保っていられてる段階?」

 クウガ少年の顔がわずかに強張った。

「ミアズマはいずれ患者本人をも取り込み、擬態化(ぎたいか)と呼ばれる症状を起こす。簡単に言えば、怪物となり人を襲うというわけだ」

「怪物? おとぎ話じゃあるまいし……」

「ぬしはどうやら、田舎者らしい。アビス患者の擬態化は、都市部ではそれこそ一般常識だぞ。都市部の病院や警察でも問題視されておる」

ごくりと、クウガ少年は喉を鳴らした。

私は手で作った銃の先を少年の胸に向けて、「バンッ!」と脅かすように言う。

すると、クウガ少年の肩が飛び跳ね、やがて苛立ちと困惑が混じったような顔をした。

「発症のトリガーは、心の闇」

 クウガ少年はびくりとする。

「心当たりはないか?」

 唇を引き結び、わずかに俯くクウガ少年。やがて、絞り出すような声で言う。

「これは……治るのか?」

「ミアズマが出ているだけなら治療は容易いが……ぬしは姿を変えてしまうほどの心の闇を抱えておる。長期的な治療が必要になってくるであろうな」

「それは難しい。うちは余裕がないんだ、そんなに治療費を払えない」

 ふむ、と私は顎をさする。

「まあ、それはおいおい考えればよい」

「いや、おいおいじゃダメだろ。金のことだぞ」

 ウルフくんが『シャルロッテ様……』と窘めるように見上げてくる。

そうは言われてもな、と息を吐き、私はソファーの手すりに頬杖をついた。

本気で払えない人間から、金を取るつもりはない。無論、慈善事業をしているわけでもない。金を取れる者から、たんまり貰うだけだ。

「ぬしの家は貧乏なのか?」

 うっと苦い顔を見せたクウガ少年に、ウルフくんから『シャルロッテ様』と再び窘められる。

「すまん、すまん。私は言葉を飾る、というのができん(たち)でな。許せ」

「……まあ、事実だしな。別に、いい」

 いいという顔ではないが、ぐっと堪えるあたり大人だな。子供らしくない。そう、子供らしくないのだ。この男は。

「ちぐはぐ、だな」

 クウガ少年は不思議そうに私を見る。

「子供なのに、大人のように振る舞っておる」

「実際、あんたより年上だからな。別にちぐはぐなんかじゃない」

「いいや、ぬしはちぐはぐよ。痛々しいほどにな」

 腑に落ちていないクウガ少年に構わず、私は尋ねる。

「見たところ身体は丈夫そうだな。働けないわけではなさそうだが、貧乏なのは顔に似合わずギャンブラーなのか?」

「違う」

「では、あれだ。娼館の女に惚れ込んで、貢ぎまくっておるのか? まあ、楽しみたいだけなら、後腐れなくてよさそうだがな。ぬしは、意外とドライな男らしい」

「…………」

 無言だが、面白いくらいに苛立っているのが、眉間のしわと据わった目から伝わってくる。

 私も本心から、少年がギャンブラーで娼婦に惚れ込んでいるとは思っていない。

治療費のことも『金のことなんだから、おいおいじゃダメだろ』やら、貧乏などと失礼なことを言われたのにも関わらず文句のひとつ返さないところを見れば、根っからの優等生であることは明白だからな。

 ここまで心の殻が頑丈だと、壊すのに時間がかかる。だからあえて、だ。

「違うなら、なぜ金がない。私より年上だと言っておったが、貧乏な男に嫁ぎたい女はそうそうおらんぞ。一生独り身トラベラーを目指しているんなら、まあいいと思うがな」

「……弟が、いるからだ」

圧のある声音で訂正したクウガ少年は、観念したようにため息をつき、語りだした。

「弟は……医者が言うに、発達に障害があるらしい。だから気持ちをうまく伝えられない。それでかんしゃくを起こして、周りに馴染めない。言葉の代わりに手が出たり、とかな。問題が起こるたび、仕事も住む場所も変えなきゃなんなかった。だから、金がない」

端的に言えば、こういうことらしい。

「なるほど。アビスを知らない時点で、ぬしが都市部に住んでいないのは明らかだ。金がないなら普通、仕事に溢れてる都市部に住むところ、そうしないのは……問題児を周囲の目から隠すためか」

「なんだと?」

 図星だからか、それとも弟を(けな)されたと思ったのか、クウガ少年の顔に怒りが這う。

「ぬしが弟に嫌気が差し、町の郊外に移り住もうと、軽蔑したりはせんよ。醜さも弱さも持たない完璧な人間など、この世におらんからな。それゆえ、ぬしがどんな下種(げす)であろうと、私はどうとも思わん」

 今すぐ捨て台詞のひとつでも吐いて、ここを出ていってやりたい。そんな表情をしながらも背に腹は代えられないのか、クウガ少年は渋面でこの場に留まっている。

「ぬしの主治医であるこの私に、遠慮なく話してみよ。ぬしに症状が現れた日のことをな」

 自分の胸をぽんっと叩いてみせると、クウガ少年は不本意そうに、それでいて気まずそうに話し出す。

「……朝食の時間、いつも使ってるコップじゃないって、弟が怒ったんだ。今まで使ってたのは、だいぶくたびれてたから……新しいのを買ってやったら、それをオルガは……」

 オルガというのが、弟の名らしい。

 クウガ少年は言葉にするのを躊躇うように、それっきり口を閉じてしまった。その間、静かに待ち続けていると、ざーっと波の音がした。

 自然が唄う声は、いつだって心を落ち着かせてくれる。そんなことを考えていたら、ふいに今朝見た夢のことを思い出した。

 ふたりだけの世界に響いていたあの唄が、記憶の彼方でも響いている。

 クウガ少年も少し気持ちが落ち着いたのか、ふうっと息をついて続けた。

「オルガは、『いらない』って……コップも、作ったエッグトーストも手で払って、床に落とした。コップが割れて、床で潰れた卵の黄身を見てたら……なんか、俺の中でもピキピキ割れるみたいな、そんな音が、して……」

 揺れる紅茶の水面を、虚ろに見つめているクウガ少年。その身体から放たれるミアズマが濃くなり、私はウルフくんと視線を交わす。

 おそらくクウガ少年にとって、この出来事は心の闇を羽化させた原因に関わっているのだろう。

「それで、湖へ息抜きに出たんだ。青空を見上げて、俺は……そう、言いかけて、飲み込んで……気づいたときには……」

「子供に戻っておった、と」

 クウガ少年は黙って肯定する。

 もともと、心の器にヒビは入っていたのだ。そのヒビから、本人が気づかぬ間に負の感情がたらたらとこぼれていた。

 溢れるか溢れないか、ぎりぎりのところで保っていた心。最後のひと押しは、心と正反対の青空だった。

 日常の中にいつものようにあった我慢が、弟の前でずっと抑え込んできた感情が、器いっぱいの闇が、一気に溢れ出した。

 そこまで追い詰められていたら、もうきっかけなんてなんでもよかったのだろう。

 私はがばっと身体を起こし、前のめりに言う。

「面白い」

 今の言葉は不快だったのか、クウガ少年の眉がぴくりと動く。それでいい。その不満こそ、人間らしい。

 まあ、面白いのは本心だが。

「ピキピキと割れる音……地面に落ちたエッグトースト……ぬしが心に飼っている怪物は、どんな姿をしているのだろうな」

「は……?」

「ぬしは子供に戻り続けて、最後になにになる? 卵に戻るのか? そうしてまた、殻の中に閉じこもるのか」

少年の瞳が心細げに揺れる。

「憎らしいほど青い空を見て、ぬしはなにを思った。なにを飲み込んだ?」

青空を仰ぎながら、『俺は……』のあとに続くはずだった言葉。そのときのことを思い出しているのか、クウガ少年の目が遠くなる。

見かねたウルフくんが、小さくため息をついた。

『シャルロッテ様、ピッチがお早い上にズバズバ言い過ぎでは?』

「でもなあ、ウルフくん。遠回しに濁した言葉は、不信感を招くものだ。どんなに耳心地がよくともな。アビス患者には特に、ごまかしたり隠したりするのは、返って心を閉じさせてしまうものなのだよ」

『わかっています。ですが、シャルロッテ様が誤解されてしまわないかと、心配しているのです』

 私のやり方を否定して言っているわけではないことは、わかっている。ウルフくんの助言はいつだって、私を思ってのことだ。

 私たちを見ていたクウガ少年は、躊躇いがちに口を開く。

「……まさか、あんた……狼と会話してるのか?」

 あんたも病気か? と言わんばかりの表情だ。

「〝狼〟ではない、ウルフくんだ。ぬしも、〝人間〟と呼ばれたことはないであろう?」

「あんたは、そのウルフくん……と話せるのか」

「……ああ。私は魔女、だからな」

「町角の魔女って、あれ。通り名かなんかなのか?」

「通り名ではあるが、事実、私は魔女だ」

「そんなの、お――」

「おとぎ話じゃあるまいし? ならよかったな。そのおとぎ話で、親の仇かのごとく悪役として登場する魔女が、ぬしの目の前にいるぞ」

 先手を打つように少年の言わんとすることを代弁すれば、半信半疑の眼差しがこちらに向けられる。

「まったく、疑い深いやつだな!」

 私ははあっとため息交じりにそう言い、両掌を天井に向けながら、深く背もたれに寄りかかる。

「現在進行形で奇怪な症状に悩まされているというのに、魔女の存在は信じぬのか。ぬしは運がいいのだぞ?」

「はあ」

「各機関、個人から依頼を受け、アビスの治療を行うために世界中を飛び回るアビスの専門医。行き場のない怪物たちのために存在する――このDr.ウィッチに診てもらえるのだからな。まあ……」

 私はクウガ少年が抱えているシルクハットに視線を落とす。

「ぬしは来るべくして、ここへ来たようだがな」

 あの道化師に出会えたことも、その道化師に狂わせられなかったことも、幸運ともいえる。

 どういう意味だ? そう問うように首を傾げているクウガ少年を見つめながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

〝あれ〟も、ちぐはぐだ。助けたいのか、堕としたいのか……天邪鬼な〝あれ〟の真意など知る(よし)もないが、私は私の信じる道を進むしかない。その道の先で、ぬしに会えると信じて。

「そうと決まれば、クウガ少年。行くぞ」

「行くってどこに」

「お宅訪問に決まっておろう」


春のうららかな日差しが、青葉をつけた木々の隙間から、こぼれるように降り注いでいる。

列車と路面列車を乗り継ぐこと三時間、ガルダにあるクウガ少年の家に向かって、森の中を歩いていた。

「静かでいいところだな、気に入ったぞ。いつか隠居する日が来たら、ウルフくんとこういう場所に住むのもいいな」

 辺りを見回しながらそう言えば、ウルフくんは曖昧に笑う。

 わかっている、ウルフくんはいい歳だ。私が隠居を考えるときには、もう隣にいないかもしれない。

「まあ、すぐに決めることではないか。どこにいても、私はウルフくんのそばにいる。それだけは間違いないからな」

『シャルロッテ様……ありがたき幸せでございます』

 少しの切なさが胸をよぎったとき、クウガ少年がおずおずと尋ねてくる。

「魔女も、その……偏見を受けたりするんだろ? なんで、あんな人がいっぱいいる町に住んでるんだ?」

 私は歩きながら、「ふむ」と思考を巡らせ――。

「クウガ少年、そこに咲いている花は食用だ。食ってみろ」

 踊るように揺れている、黄色いダファディルの花々を指さした。クウガ少年は群生するそれに目をやり、

「……は?」

 口を半開きにして、間抜け面を晒す。

「そう言ったら、ぬしはあの花を食えるか?」

「……いや、食える保証あるのか?」

「私の言葉を疑うのか。魔女なんて、いかにも薬草の知識に長けていそうであろう?」

「いや、あんたのことたいして知らないし……俺は花に詳しくないからな」

 私は再び「ふむ」と言い、頷いた。

「そうだ。ぬしはそこに咲いている花に毒があるのかどうか、知らない。わからないから、腹を壊すやもと恐れる」

「なにが言いたいんだ?」

「わからぬか。見せないから怖がられるのだ。魔女のことも、よく知らないから人間は忌み嫌う。皆、ぬしのように伝説上の生き物と思っている者も多いであろう。それどころか、童話の中で魔女はたいてい悪役だ。危険な存在だと、先入観を持っている者がほとんどであろう」

 そこでようやく、クウガ少年は腑に落ちた様子だった。

「あんたはあえて、人間社会の中にいるのか。危険なものではないと、知ってもらうために」

「ああ。世界に受け入れてもらうため、自分を殺すことも多少はあるだろうが、この世界で生きていくために必要な努力だ」

 Dr.ウイッチの肩書きも、私は人間を喰ったりなどしない、助けることもあるのだと、そう証明するために謳っているようなもの。

「……こんな世界で生きていきたいなんて、変わってるな」

 俯き、足を止めたクウガ少年を私は追い抜く。

「そうではない。こんな世界でも、生きていかなければならないのだ。この世界にひとつでも大切だと思えるものがあって、そのために死ねぬのなら、生きるしかない」

 くるりと回りながら、迷子の顔をした少年を振り返る。三つ編みの髪が、ワンピースの裾が踊るように揺れる。その様を少年は目を見張りながら見つめていた。

「ぬしにも、あるのではないか? アビスにかかるほどの苦しみと天秤にかけても、今生きている理由が」

 そのハッとしたような顔を見れば、生きる理由がちゃんと少年の中にもあるのだとわかる。それにふっと笑い、私は歩き出す。

「生きるしかないのなら、どうせなら堂々としていたいであろう? ゆえに私は、自分を曝け出す。万にひとつの確率でも、私を愛してくれる者と出会うためにな」

 それがきっと、〝あれ〟と道が分かたれた理由。〝あれ〟は闇の中を、私は光の中を進むことを選んだ。

「そうして私は、ウルフくんやぬしに出会った。そうして私の世界は広がっていく。Dr.ウイッチの仕事も、結果的に私のためにしていること、とも言えるな」

 後ろをついてくるクウガ少年は、しばらく考え込んでいる様子だった。ざくざくと地面を踏みしめる音だけが響き、やがて静かにこぼす。

「なあ、弟に会って、どうするんだ?」

「アビス患者は、取り巻く環境に問題があることが多い。病の原因がわからねば、適切な治療はできんゆえ、この目で確かめるのだ」

 話し込んでいるうちに、湖のそばにぽつんと立つロッジに辿り着く。扉の前のデッキに上がれば、ギシリと床が軋む音がする。ところどころ板が抜け落ちてはいるが、立派な家だ。

「オルガ、遅くなってすまない」

 クウガ少年が扉を開けるが、中はもぬけの殻だった。

「オルガ?」

 クウガ少年に続いて中に入ると、テーブルの上には食べかけのサンドイッチと野菜スープがある。おそらく、クウガ少年が作っていったのだろう。

 慌てて席を立ったのか、床にスプーンも落ちている。

 私はなんとなくその椅子に近づき、座ってみる。すると、窓からデッキが見えた。デッキの手すりに(すずめ)が一羽留まり、首を傾げている。

「クウガ少年、オルガはいくつだ?」

 外の景色を眺めながら尋ねれば、「十歳だ」と部屋の奥のほうから返事があった。

 十歳の子供の背丈なら、せいぜい見えたのは手すりくらいか。

「オルガ、オルガ!」

クウガ少年は何度か弟を呼ぶが、返ってくるのは反響する自分の声だけ。部屋を歩き回るクウガ少年の顔が次第に青ざめていき、勢いよく踵を返した。

「どこへ行く」

 席を立ち、その腕を掴んで引き止めれば、クウガ少年は噛みつかんばかりに言う。

「探しに行く!」

「あてはあるのか?」

「っ、それは……ここで、ただ待ってるよりはいいだろ!」

 私はため息をついた。

「弟のこととなると、こうも冷静さを欠くとはな。心配する気持ちはわかるが、ここまでくると過保護がすぎるぞ」

「兄が弟を心配するのは、当たり前のことだ」

「当たり前……では、弟思いのぬしが弟と代わってやるか?」

 ゆっくりと腰を折り、クウガ少年の顎を持ち上げて、不敵に笑いかける。

「私は魔女だからな、ぬしたちの身体を入れ替えてやることもできるぞ。大事で、可哀想な弟のために、自分を犠牲にして、弟を幸せにしてやれ」

「それ、は……」

 兄という皮で覆い尽くしていた本音を無理やり剥がされた少年は、まるで追い詰められた獣。哀れで、そしてその弱さこそが人間らしかった。

「できぬか? 兄ならば当然……そう言うと思っていたが」

「……っ、薄情だって言いたいのか」

 クウガ少年は見たくないものを見たように目を伏せる。

「いいや、兄弟だろうが、譲れないこともある。血の繋がりが呪いになることもな。家族は自分の分身ではない、ひとりの人間であり、他人だ。寄り添うことはできても、代わりになることはできない……そう言いたかったのだ」

 声も立てられない様子のクウガ少年の鼻を、ぎゅむっと摘まむ。

「安心しろ。魔法が使えるっていうのは、嘘だ」

 クウガ少年は「なっ……」と勢いよく顔を上げた。目をかっぴらき、眉尻を吊り上げながら、私の手を振り払う。そんなクウガ少年にくすくすと笑い、私は身体を離した。

「それにしても……」

 片手で鳥のシルエットを作り、パタパタ宙を泳がせながら言う。

「ぬしの優しさの檻の中は、さぞ安全であろうな。だが……中の鳥は、飛び方を知らぬまま、生涯を終えるであろうな」

 押し黙るクウガ少年の頭に、私は手を置いた。

 抗議するようにクウガ少年は睨んできたが、今度は手を振り払われなかった。

「まあ、落ち着け。こういうとき、鼻の利く助手は頼もしいのだぞ」

 振り返った先にいるウルフくんが、とことことクウガ少年の前にやってくる。

『クウガ様、弟様の持ち物を拝借してもよろしいでしょうか?』

「クウガ少年、弟の持ち物を借りてもいいか」

 私とウルフくんの視線を受け、クウガ少年は戸惑いつつも、弟の使い古された猫の人形を持ってくる。

「これでいいか?」

『はい、それでは失礼して……』

 ウルフくんはくんくんと鼻を鳴らす。そして扉の前まで歩いていくと、私たちを振り返った。

『シャルロッテ様、クウガ様。オルガ様は外へ出られたようです』


 地面の臭いを嗅ぎながら、オルガの辿った道を探っていくと、町の中心部に向かっていることがわかった。

 よほど弟が心配なのだろう。終始、クウガ少年の顔は青かった。

 やがて、見かける人の数が多くなり、町の広場まで来ると――。

「ちょっと、離しなさいよ!」

 女の怒声が聞こえた。

 私たちは顔を見合わせ、そちらへ足を向ける。人だかりの中心に、若い女のカバンを引っ張る子供の姿があった。

「なんだなんだ、物盗りか?」

 そんな野次馬たちの声を聞きながら子供を見れば、どうやら女のカバンではなく、そこについている猫の人形を引っ張っていたようだ。

「オルガ!」

 そばにいたクウガ少年が駆けていく。

「やめろ、オルガ!」

 クウガ少年は女から弟を引きはがした。弟はキーッと甲高い声をあげ、じたばたと暴れる。今のクウガ少年は弟と体格もそう変わらないので、当然ながら顔を叩かれ、頬を引っかかれ、苦戦しているようだ。

 人だかりの中心を見つめていると、ウルフくんの耳と尾がぴんと立つ。

『――シャルロッテ様』

 狼の防衛本能は、人間のそれよりも鋭い。

 見張るような視線を感じ、密かに辺りを見回す。路地の壁に寄りかかるようにして煙草をふかしている男も、カフェの座席で新聞を読んでいる客も、アパートメントの二階に見える影も、悟られない程度にこちらを観察している。

 特に新聞で顔を隠しながら、こちらの様子を窺っている男には見覚えがあり、私は「はあっ」とため息をつく。

「穏やかじゃないな」

『いかがいたしましょうか』

「まあ、もう少し成り行きを見守ることにしよう」

 視線を前に戻せば、クウガ少年が弟に馬乗りになり、なんとか動きを封じているところだった。

 クウガ少年は怒りに眉を吊り上げ、腕を組んでいる女を見上げる。

「申し訳ありません、弟がなにか……」

「ずっと後をつけてきて、私のカバンを盗もうとしたのよ!」

 それを聞いた町民たちは、「最近、ここいらで現れる物盗りって……」「まさか、あんな子供が犯人だったとはな」とざわざわしだす。

「違うっ、弟は物盗りなんかしません! ただ、あなたのカバンについてる猫の人形に興味を持っただけなんです!」

「はあ?」

「弟は少し、成長が遅くて、こだわりが強いところがあるんです。好きなものを見つけると、夢中で追いかけていってしまうし、人との距離が測れなくて、いきなり手が出てしまうこともあって……」

「それで、欲しいものがあったらなんでも盗るわけ? 迷惑な子供」

 クウガ少年は、ショックのあまり言葉が出ないようだった。それほど、パンチが効いた言葉だった。

「このままでは、本当に物盗りに仕立て上げられそうだな」

 人だかりに向かって歩き出すと、ウルフくんがボディーガードのようについてくる。

「オルガは猫を追いかけて家を出たのだろう」

 頭に浮かんだのは、数時間前にクウガ少年宅で見た光景だ。

 テーブルの上の食べかけの昼食や床に落ちていたスプーンから、慌てて席を立ったのがわかる。

 ならば、なぜ慌てていたのか。答えは単純だ。興味をひくものが、目に飛び込んできたからだ。

 十歳の子供の座高で、あの席から窓を見ると、デッキの手すりが視界に入る。その上を猫が歩いていたら、どうだろう。

 オルガはこだわりが強い。一度気になったものは、とことん気になる。カバンについていた猫の人形に執着を見せたことを(かんが)みれば、猫を追ってここまで来たことは容易に想像がつく。

 地面に寝っ転がったままのオルガの頭の上で足を止めた私は、その顔を覗き込むようにしゃがむ。

「だ、だ、だれ、誰?」

「私は魔女だ」

 野次馬が「魔女?」「冗談だろ」「いや、風の噂で奇病を治す魔女がいるって聞いたことがあるぞ」と、ざわつく。

 Dr.ウイッチの存在自体が希少ゆえ、やはり田舎まで浸透していないようだった。

「魔女は、し、白じゃなくて、く、くく、黒い服を着て、尖がった帽子、帽子をかぶってるんだ。偽物だ!」

「失礼なやつだな。黒い服なら着ているであろう? ただ、上から白衣を羽織っているだけで」

「ぼぼ、帽子がない!」

「私の仕事は、少々アクティブなんだ。帽子なんて邪魔でつけられんよ。それにな、魔女だって好きなものを着てもいいではないか。まったく、兄弟揃って頭が固い」

「偽物っ、偽物っ」

「黙れ、小童(こわっぱ)が」

 オルガの額をぴんっと指で弾けば、「痛い、痛いっ」と喚き散らす。

 子供相手に大人げない……と見守っている者たちの声なきメッセージが聞こえてきたが、気にせず問う。

「オルガ、追いかけてきた猫は何色だった」

「みみ、ミケの色!」

「ミケ?」

 首を傾げれば、クウガ少年が答える。

「ミケの冒険って絵本があって、その主人公の三毛猫のことだ」

「ほう、三毛猫……」

 私は女のカバンについている三毛猫の人形をちらりと見る。

 不幸な偶然が重なってしまったというわけか。

「オルガ、どうやら猫違いのようだな。あれはカバンに繋がれておる。あれでは冒険になど到底出られん。ミケではない」

「ミケじゃない、ミケじゃない……?」

「ああ、ぬしは間違えたようだな。というわけだ、騒がせて悪かった。私たちはこれから、本物のミケを探す旅に出るゆえ、皆散るといい」

 しっしと野次馬たちを手で払えば、

「ちょっと! 話は終わってないわよ!」

 女が逃がさないとばかりに噛みついてくる。

「なんだ、まだなにか用があるのか」

「その子供は、この町で盗みを働いてるかもしれないのよ? このまま逃がしてはダメだと思うわ! みんなも、そう思ってるわよね?」

 注目を集めるためか、わざとらしいまでに大きな身振り手振りで訴える。

 女に同意を求められた町民たちは、「ううむ」と気まずそうに顔を見合わせていた。

 クウガ少年は悔しさを堪えるように、拳を握り締めた。私はそんなクウガ少年を背に庇うように立ち、ぱちぱちと拍手をした。

「名演技だな! 自分のことを棚に上げて、さすがとしか言いようがないぞ」

「なんですって?」

 不愉快そうに眉を顰めた女に、私はすっと目を細め、冷淡に言う。

「責任転嫁も甚だしい」

「おい、火に油を注ぐようなことを……」

 騒ぎが大きくなるのを恐れている様子のクウガ少年に、私は前を見据えたまま言う。

「ぬしも、なぜこんな女の機嫌なんぞとっている」

「なっ――こんな女ですって?」

 喚いている女を無視して、私は続ける。

「この女は、これぞ好機とばかりに弟に罪を擦りつける気だぞ」

「どういうことだ?」

「周りをよく見てみろ、この女は見張られている。もともと目を付けられていたのだろうな、警察に」

 言われて初めて気づいたのか、女は「えっ」と周囲を見回した。

 すると、路地やアパートメント、カフェにいた男たちがぞろぞろとこちらへやってくる。

「ここいらでは、物盗りが出没するんだったな。皆の不安の煽り、自分に同調する者たちを増やし、その集団心理を利用して、発達に遅れのある弟を犯人に仕立てあげようとするとは、弱き異端を食らうぬしこそ……」

「怪物」と呟いた私を、クウガ少年が弾かれたように仰ぐ。

 ぞろぞろと潜んでいた男たちが女の周りを包囲した。その中でもカフェにいた男が前に出て、痛ぶるようにほくそ笑む。

「キャリー・トンプソンだな。てめえには盗難の容疑がかかってる」

 癖のある深い紫の髪は、無造作にハーフアップにまとめられている。長い前髪は真ん中で左右に分けられ、真実を見抜くようなインディゴの瞳がよく見えた。

 白のワイシャツに緩く巻かれた赤ネクタイ、黒のスーツジャケットにズボン。どれもしわくちゃで、清潔感とは程遠い。

「つっても? ほぼ証拠は掴んでっから、あとは煮るなり焼くなりして、自白させるだけだがな。つーわけだ、おとなしく縄にかかっとけ」

 カフェにいた男が顎をしゃくれば、他の男たちが女を取り押さえる。

「嫌っ、触らないで! 第一、あなたたちは誰なのよ!」

 暴れる女に舌打ちをした男は、面倒臭そうに懐に手を突っ込んだ。それから黒い拳銃を取り出すと、ちゃきっと音を立てて容赦なく構える。

「黙れ。額に穴を開けられたくなかったらな」

 残酷に笑う男。こんな男を見て、誰が思うだろう。

「俺はジーク・ランディーニ、マリンヴェネ西部中央警察の刑事だ」

 この男が刑事、などと。

 あれよあれよと連行されていく女を、呆然と町民らが見送っている。仕事を終えたとばかりに振り返った刑事は、迷わずこちらへ歩いてきた。

「よお、シャルロッテ」

「ぬしは相変わらず粗暴な男よ。それから、ここでタバコは吸うな。ウルフくんの鼻がもげてしまうからな」

 胸ポケットから、ストレス発散用のタバコを取り出したジークを止める。

 ジークは「はいはい」と苦笑し、渋々タバコをしまうと、クウガ少年に目を向けた。

「災難だったな、ガキ。あの女は娼婦で、金欲しさに相手をした貴族から金品を盗んでは、いろんな町に逃げてやがったんだ」

「なっ……」

「でも、引き際を間違えたんだろうな。〝泥棒娼婦〟なんて貴族の間でも有名になっちまって、町で盗みを働くしかなかったってわけだ」

「弟は……その犯人にされそうに……」

 クウガ少年は下を向き、視線を彷徨わせる。

 少年は今、絶望しているのだろう。ああ、自分が生きる世界はこんなものなのかと。

「そうなるな。どんな境遇にいても、悪にならねえやつはならねえ。堕ちるやつは堕ちる。堕ちてから変わるやつもいるんだろうが、まあ……ごく一部だな」

「は、はあ……」

 呆気に取られているクウガ少年の頭をわしゃわしゃと撫でるジーク。

「弟を侮辱されて許せねえだろうが、人間、堕ちるには理由があんだ。まあ、俺がちゃんと牢屋にぶっ込んどくから、許してやってくれや」

 銃で脅した割に犯罪者を擁護するジークに、クウガ少年は目を丸くしていた。

 まあ、当然の反応だろう。この男は悪を知る正義のヒーロー、だからな。

「ジーク、お前の仕事は終わったのであろう? ならば、とっとと散れ。私の仕事が進まんではないか」

「相変わらず、つれねえな。いつになっても、デートの誘いを受けてくれやしねえ」

「ならばまず、それらしい身だしなみで出直すことだな」

 私たちのやり取りを聞いていたクウガ少年は目を瞬かせる。

「その刑事と知り合いなのか?」

「ああ、この男は――」

 説明しようとしたのだが、

「俺の女だ」

 ジークは悪びれもせず、にやりとして、私の言葉を遮った。あろうことか、事実無根の情報を口にしながら。

「たわけ。歳は三十、深刻なタバコ中毒のこの男は、Dr.ウイッチである私にアビス患者絡みの依頼を持ち込んでくる〝仕事相手〟だ」

 訂正する私に、ジークは「ははっ」と笑っている。呑気なうえに迷惑極まりないなと呆れていると、

「ねねね、猫!」

 路地に消えていった猫を指さして、クウガ少年の下にいたオルガが起き上がろうとする。

「オルガ! 今は大人しく……っ」

 クウガ少年が慌てて押さえつけると、オルガはキーッと甲高い声をあげて、兄の顔を何度も爪で引っ?いた。

「離せ! じゃ、邪魔するな! 離せ!」

「っ、オルガ……」

 ここまでされても、叱りもしないのか。ただ受け入れるだけが、愛情ではないというのに。

「言われっぱなしでいいのか?」

「……っ」

 私の声が聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、クウガ少年は答えない。

「弟は、ぬしの表情や話しぶりから、気持ちを汲み取ることはできん。今のままでは、ぬしの苦悩を悟ることは一生ないぞ」

「そんなこと、わかってる! それでも、弟を守るのが兄の務めで……っ」

「ぬしの守り方は、人をダメにする」

 今までの努力を踏みにじられたからだろう。クウガ少年は奥歯をぎりっと噛みしめ、言葉にならない怒りに震えている。

 それに気づきながら、私はオルガに視線を移した。

「オルガ。今の兄は、ぬしと同じ子供だ。今の兄がぬしを世話する義理はない」

「おいっ」

 クウガ少年が大声を出すと、オルガもまた耳を両手で塞いで、「うるさい、うるさい!」と吠えた。

「オルガ、大丈夫だ。兄さんはどんな姿になったって……」

「いらない! 兄さんもいらないっ」

「オル、ガ……」

「いらない! ぼぼ、僕はひとりでも平気なのに、兄さんは邪魔ばかり、する!」

 ぶわっと、クウガ少年のミアズマが膨れ上がる。

「そうだ。なぜ、今までオルガになにもやらせてこなかった。できないと制限をかけてきたのは、他の誰でもなくぬしではないのか? ぬしのしてきたことは、オルガの羽をもいできたのと同じだ」

「そん、な……」

 心を抉る挑発を繰り返し、ようやくパキッと殻が壊れる音がした。私は一歩下がり、クウガ少年から目を逸らさず、この場に残っていたジークに声をかける。

「全員、建物内に避難させろ」

「荒療治だな。ま、お前の腕は疑ってねえから、手は貸してやる。その代わり、デート……」

「とっとと行け」

「はっ、そのツレなさがたまらねえな」

 こんなときまでふざけながら、ジークは町民たちを非難させに走る。

「ウルフくん!」

 振り返れば、ウルフくんはすぐに私の意図を察知し、オルガを守るようにそばに立った。

「ぐあああああああああああっ」

 クウガ少年が頭を押さえて叫ぶ。その身体からおびただしい量のミアズマが噴き出し、肉体はどんどん幼くなっていき――。

「おぎゃああっ、おぎゃああっ」

 ついには赤ん坊になってしまった。

 町民たちは、それを建物の中から恐れと嫌悪の眼差しで見ている。

 赤ん坊の泣き声に合わせて大地が激しく振動し、地面に亀裂が走った。町の建物も大きく揺れ、ミアズマの黒い風が、立っているのもやっとなほど吹き荒れる。

「シャルロッテ! そろそろ手を打たねえと、町が崩壊すんぞ!」

 町民たちを避難させ終えたのか、ジークが戻ってきた。

「……っ、もう少しだ。心の闇は消えない。それを受け入れなければならない。そのために、怪物である自分を許してやらねば……!」

 話している間にも、ミアズマはクウガ少年を取り込み、黒く大きな卵へと姿を変える。辺りは静寂に包まれ、皆が卵を凝視していると――中から、かつんっと音がした。

「な……んだ、あれは」

 ジークは息を呑み、卵を見上げている。

「生まれるぞ。少年の中の怪物が」

 パキパキとヒビが入り、どっと衝撃波が放たれると、周囲の建物を破壊しながら、〝それ〟は現れた。

 鶏の頭を持つ黒いドラゴンだった。ピーッと割れるような鳴き声をあげ、大きな翼を広げると、トカゲのような尾をぶんっと振り落として地面を揺らし、赤い瞳でこちらを鋭く見据える。その手には鋭く赤い爪も生えており、少しでも掠めれば、人間の身体など容易く裂けてしまうだろう。

「っ、擬態化か……」

 そう言ったジークの頬には汗が伝い、その笑みを引きつらせていた。

 怪物を目の当たりにした町民たちは悲鳴をあげ、子供は泣き喚き、警察でさえ銃を構えるのも忘れて足を震わせている。

「皆、身の内に飼っているものだというに、なぜ恐れるのか。自分の黒い部分を毛嫌いするから、ああして怪物は自分を見てくれと駄々をこねるのだ」

 私はその場に膝をつき、トランクケースを開けた。中から銃身の長いウッドボディの散弾銃――治療銃(キュアガン)を取り出す。ガンショップで特注で作ってもらったものだ。

 Dr.ウイッチの治療法は魔女によってさまざまだが、これは私にとって大事な仕事道具だ。

 数ある小さな(あさ)袋の中から、手書きで【Lavender(ラベンダー)】と書かれたラベルがついているものを手に取り、紐を解く。中に入っているのは、種の形をしたキュアガンの銃弾――シードブレット。その名の通り、植物の種が詰まっている。それを詰め、次に金装飾が美しい夜空色のジュエリーボックスを開ける。深紅のベルベットクッションの上に並んでいるのは、宝石のように煌めく銃弾――ジュエリーブレット。そのうち、ムーンストーンでできた銃弾を手に取り、キュアガンに詰めた。

 そしてゆっくりと、立ち上がる。

「クウガ少年、ぬしは『兄なんだから』が口癖になるほど、子供でいることを許されない人生を送ってきたのだろうな」

 怪物の悲鳴のような鳴き声とともに風が吹き、家々の窓ガラスにヒビが入る。私の身体も後ろに飛ばされそうになり、踏ん張った足元がじりっと鳴った。

「『お兄ちゃんなんだから』『お姉ちゃんなんだから』は、親がつい言いがちな台詞だが、長男、長女にとっては呪いの言葉だ」

 声をかけながら、一気に駆けだす。怪物の尾が私を潰さんとばかりに降ってくるが、それをステップを踏むように避け、銃を構えた。

「だがな、クウガ少年。ぬしだって母や父の子であろう。わがままや甘えを言ったって、よかったのだぞ」

 怪物の足元目がけて、まずは一発。シードブレットが空中で弾け、中のラベンダーの種が四方に放たれると、怪物は苛立ったようにビーッと鳴いた。

「弟はなんでも手に入ってずるい、なんで自分だけ……そうして、弟を羨み、妬むのは普通の感情だ」

 怪物は翼をはためかせ、私を吹き飛ばそうとする。私はその風圧を利用して、空へと舞い上がり、天に銃口を定めた。

「だが、ぬしは優等生でそれができない。与え、見本であることを自然と求められてきたからだ」

 スカートが、髪がふわりと浮き上がる中、私はトリガーに指をかける。

「クウガ少年、譲る必要も、我慢する必要も、大人になる必要もないのだぞ。好きで兄になったわけではないであろう。望んでその立場にいるわけではない。ぬしが自分を押し殺す必要はない。誰を傷つけようと甘えろ。しっかり者でなくていい」

 ビュンッと放たれた二発目の銃弾は、まっすぐ天に昇っていき――。淡青色の光を放って砕け散ると、キラキラと怪物に降り注いだ。

 月の輝きが結晶化したムーンストーンには、心を解きほぐし、大らかな気持ちにさせてくれるヒーリング作用がある。

降り注いだ月の光は、対象に安らぎと癒しをもたらすのだ。

 地面に着地した私は、すうっと息を吸う。

 ――少年、ぬしの心を解き放とう。

 息を吐きだすのと同時に、奏でる唄。その声音は心の隅々まで染み渡るように響き、先ほど()いたラベンダーの種を芽吹かせる。

 これが私が魔女と呼ばれる所以。見えざるものを見、聞こえざるものを聴き、その唄声は物質の効能や人の生命力を活性化させるだけでなく、精神にも作用する。

 鎮静作用のあるラベンダーが柔らかなヴァイオレットの花を咲かせ、優しく匂い立つ。荒ぶる精神を鎮め、ささくれ立った心を癒し、たまった闇を発散させる。香りや光といった環境を調整し、治療効果を最大限に引き出すのもDr.ウイッチの腕の見せ所だ。

「いいぞ、大人しくなりやがった!」

 ジークの言った通り、怪物は静かに唄に聞き入っている。やがて、甘えるようにぴーぴーと鳴くと、どんどん小さくなっていき……。

「ぴいーっ、ぴーっ」

 私は産声をあげる怪物に歩み寄り、そっと抱き上げた。なだめるように唄いながら、額にキスをする。

「そうして、いくらでも泣いたらいい。世界がどんなに、ぬしに冷たくとも、その声を拾って抱きしめてくれる人間はいる」

 その声を聞き届けたかのように、怪物はひとりの赤ん坊に、少年に、そして青年の姿へと戻っていく。

 地面に座り込んだまま、涙に濡れた顔で見上げてくるクウガ少年――クウガの瞳は、片方が紅色に変わっていた。これは擬態化の後遺症だ。怪物の一部分が、身体に残ったのだろう。

 私はそのちぐはぐな碧と紅のオッドアイをまっすぐに見つめ返し、笑う。

「ちぐはぐだと言ったであろう。心が求める自分と、身体が」

「…………」

 身体が大きくなって、クウガの服は裂けてしまっていた。私は自分の白衣を脱いで、肩にかけてやる。

「見てみろ、憎らしいほどの青空だぞ。あの空を見て、ぬしはなにを思った。なにを飲み込んだ?」

 私につられてか、クウガも空を仰ぐ。

『俺は……』のあとに続くはずだった言葉を聞かせてくれ。

「俺は、オルガの親じゃないのにって、最低なことを考えたんだ。俺だって、誰かに寄りかかって、守られたいって……っ」

「ぬしは産まれながらにして、『兄』という呪いに縛られていたのであろう。だが、忘れてはならぬ」

 私はクウガの前に膝をつき、その頭を撫でた。振り払われると思ったが、意外なことに、じっとしている。

「ぬしはオルガの兄である以前に、クウガ・エーデルワイスというひとりの人間なのだ。その人生を捧げてまで守らねばならないものなど、この世にはない」

 眩しそうに私を見つめるクウガに、ふっと笑みを返す。

「オルガのことも、守りすぎては育つものも育たんぞ。傷つくから成長するのだ。危険から遠ざけすぎるな。もう少し、弟のことを信じてみもよいのではないか?」

 クウガは、ウルフにしがみついているオルガを見やる。

「オルガのような生きづらさを抱えている者は、確かに人に合わせることができず、周囲と調和を図ることができないこともあるであろう。だが、逆を言えば人の意見にぶれることなく、意思を突き通すこともできるということだ。それはむしろ、オルガの強みともいえよう」

「……!」

 クウガは夢から覚めたように目を見開いた。

「好きなものへのこだわりを生かして、その能力を発揮できる環境に置いてやるのがいい。そのためにも、ぬしのゆりかごから旅立たせ、いろんな場所へ連れて行ってやるのだ。そしてぬしも、自分の人生を歩め」

 他人との違いにばかり目がいきがちなのは、人間の悪いところだ。発達が遅かろうと、心に闇を抱えていようと、この世のすべての存在に替えはきかない。誰もが特別で、唯一無二なのだ。その者にしかできぬことは必ずある。

「オルガの生きづらさも、ぬしや皆が抱える心の闇も、持って生まれた個性。それを(かせ)と考えず、強みに変えてゆけばいい。そうして己を受け入れ、愛してやれ」

「こんな俺でも……いいと思うか……?」

「オルガの兄は、ぬししかおらん。ぬしでなければダメなのだ。それゆえ、もっとありのままの自分に自信を持て。それを曝け出しても、受け入れてくれる者たちと出会えるまで、生きるのだ」

 クウガは俯いて、肩を震わせながら涙を流す。そんな兄を見たオルガが、そばに駆け寄って、なにも言わずにその首に腕を回した。

 その瞬間、タガが外れたように、クウガは声を上げながら、まるで赤子のように泣く。それを温かな気持ちで見守っていたとき、ふいに路地に人影を見つける。それは私が振り向くより先に、踵を返して闇へと消えていった。

 ――〝あれ〟は、この結末を見てどう思ったであろうな。早く気づけ、何者であっても、愛してくれる者がいるということに。


 昼間の温かな日差しに包まれた室内に、波音と往来のざわめき、羽ペンが紙に文字を綴る音が響いている。

 クリニックに戻ってきてから三日、私は書斎机でクウガ・エーデルワイスのカルテを記入していた。

『彼は来るでしょうか』

 足元で丸まっていたウルフくんが、こちらを見上げて問う。私は羽ペンを置き、「さてな」と背もたれに寄りかかって、天井を仰いだ。

 思い出されるのは、クウガとの別れ際の会話だ。


『俺……町をこんなにして、どう弁償すれば……』

 ボロボロになった広場や町の建物を見回し、途方に暮れているクウガ。その肩をその場にいたジークがぽんっと叩く。

『安心しろ。人的、物的問わず、アビスによる被害が明らかな場合、それは災害扱いになるからよ。それに応じて必要な治療や修復は国が請け負う』

『そうなんですか……』

 荷物をまとめた私は、ほっとした様子を見せるクウガの前に立った。

『安心するのは、まだ早いぞ。ぬしは擬態化するほど病んでいた。誰しも心に怪物を飼っているが、それとうまく折り合いをつけて生きていくというのは、簡単なことではない』

『でも、もう大人に戻ってる』

『それは、私の応急処置のおかげだ』

『応急処置……そういえば、あんたの唄を聴いてたら、不思議と心が落ち着いて……』

 怪物になっている間、患者は強い怒りや悲しみに囚われ、自我や記憶が混濁していることが多いのだが、クウガの意識ははっきりしていたようだ。やはり、アビス患者の中でも、彼は例外らしい。

『人は月を見たり、いい匂いを嗅いだり、音楽を聴くと、リラックスするであろう? その環境を整えて、より効果的に作用するよう高めたのだ』

『作用って、なんの』

『魔女の唄声はその物質の効能や人の生命力を活性化させるだけでなく、精神にも作用する……それが、私が使える唯一の魔法だ』

 体感したからか、今度は『おとぎ話みたいだ』なんだとは言わなかった。

『お前は弟のため、自分を殺してきた。子供でいられなかった時間が長すぎたのだ。甘える、守られるという経験が極端に少なすぎた。染みついた考え方というのは、そう簡単には変わらん。ゆえに、また症状に悩まされることもあるであろう』

『俺はまた、子供に戻る可能性がある……ってことか?』

『そうだ』

『俺はずっと、この怪物を抱えて生きていかなきゃならないのか……?』

 悔しそうに、クウガは私の貸した白衣の胸元あたりを握り締める。

『お前に必要なのは、自分を開放していくこと、真面目な優等生をやめることだ。それがいちばんの治療薬になる。だが、簡単に生き方を変えられるなら、皆、苦労しない』

『だから、継続的に治療が必要だってことか……』

 疲れたように、クウガは背を丸めた。

『お前は危うい。だが、同時に可能性も秘めている』

『可能性……』

 今の状況のどこに、そんなものがあんだよ。そんな顔で見てくるクウガを、私は静かに見つめ返した。

『アビスは悪魔学において『進化の終着点』、すなわち人間の行き着く最後の未来を意味する』

 なんの話だ? と言いたげなクウガの視線に、ふっと笑う。

『捉えようによっては、アビスは誰よりも優れ、特別な存在になり得る可能性を秘めているともいえる。そう考えたほうが、人を怪物に変える病よりもずっと、希望があるとは思わんか?』

『……ポジティブだな』

 呆れているクウガの額を、人差し指でぐりっと押す。

『絵空事ではないぞ。現に魔女の存在がそれを体現している』

 腑に落ちていないクウガに、私はにやりとしながら告げた。

『私はもともとアビス患者だ』

『……!』

 クウガは瞬きも忘れ、絶句していた。

『そもそも魔女というのは、アビスの症状を完璧にコントロールできるほど、怪物と同調した女のアビス患者のことをいう。魔女になりうる可能性を秘めた患者は、その症状――いや、能力がどういうわけか声に宿りやすい』

『それが、あんただって言うのか……? どうして、女だけ……』

 信じられないといった様子で、クウガはなおも食い下がる。

『さあな。だが、女は子を産めるであろう? 性差が関係しているのだとしたら、女はそもそも痛みに強いからだと、私はそう考えている』

『アビスって病は、わかってないことが多いんだな……』

『そうだな。……クウガ、魔女が異端と言われる所以は、なんだと思う』

 建物の中から、怯えるようにこちらの様子を窺っている人々に視線をやりつつ問う。

『普通じゃない……から、じゃないか?』

『そうだ。人間の勝手で都合のいい概念から逸脱した存在だからだ』

 自分の笑みに嘲りが滲むのがわかる。

『誰しもが、社会から弾き出された魔女やアビス患者になり得る可能性を持っているというのに、アビスにかかっていない者たちは、自分がそうなったときの可能性は考えない』

 建物を壊されて迷惑そうな町民らの眼差しが証明している。誰だって、こちら側に足を踏み入れる可能性があるというのに、無関係だと思っている。

『だから、弱き者の立場になって物事を考えられない』

 世界はこんなにも広いのに、人間の視野は卵の殻並みに狭い。そこから飛び出せば、どこまででも飛んでいけるというのに。

『昔はたくさんいたらしい魔女も、異端を恐れた人間たちによる魔女狩りによって死に、数が減った。自分を救えるかもしれない医者だとも知らずに、殺したのだ』

 私が知る魔女も、Dr.ウイッチの仕事を教えてくれた師匠以外にいない。

『そんな背景もあり、魔女がアビスの専門医であるDr.ウイッチを生業(なりわい)にしているのも、異端だと排除されないためだ。人間にとって必要不可欠な存在だと、立場を確立するために必要な処世術だったのだろう』

 少しずつではあるが、すぐに排除すべきだと差別されないだけ、アビスに対しても理解が広がってきている。とはいえ、まだまだ世間の風当たりは強い。

 声にも憂いがこもる。

『怪物同士で、なんとかしろということなのだろうが……。昔は忌み嫌われた魔女も、人間の役に立ちさえすれば重宝される。逆を言えば、人間にとって都合のいい存在でなければ、社会に居場所がない。実に不愉快なことにな』

『アビス患者も同じだって、言いたいんだな?』

『そうだ。アビス患者も、この世界で生きていくための処世術を見つけなければならんのかもしれん。先代魔女の機転が功を成し、今やアビスに怯える人々にとって、Dr.ウイッチの存在が排除できないものとなったように』

 ここにいる者たちの中で、こちら側の人間に同情したのは、患者本人のクウガを除いてジークくらいだろう。

『ですが、シャルロッテ様は人間にとって、都合のいい道具で終わるつもりはないのですよね。こんな世界でも、自分らしく生きようとしていらっしゃる』

 ウルフが喋った途端、なぜかクウガが固まった。

『狼が……喋った……?』

 自分の声が、私以外の人間にも聞こえたことに、ウルフくんも驚いている。

『ほう、ウルフくんの声が聞こえるのか。……ぬしも、〝あれ〟と同じ素質があったとはな』

 クウガは『あれ?』と、眉を顰めた。

『いや……ぬしは魔女にはなれぬが、それと同等の素質があるということだ。人外の声が聴こえ、見えないものが見える。クウガ、自分から出る霧が見えるか?』

『霧……』

『今は少なくなってるが、よく目を凝らしてみれば……』

 自分の手を見つめるクウガは、そこからちりちりと黒い霧が上り立っているのを見て、ぎょっとしている。

『嘘だろ……なんだよ、この黒い霧……』

『それがミアズマだ。やはり、ぬしは特別なのだな。可能性を秘めている』

 なるほど、〝あれ〟はこの可能性に期待したのか。自分と同じかもしれない、そんな存在を開花させるために、私の存在が必要だと考えた。自分のときと同じ状況を作ったわけだ。

 そして、この者が自分と同じ道を辿るのか、私と同じ道を辿るのか、はたまた別の道を見出すのか、結末を見てみたくなった。自分の選んだ道が正解だったのかどうか、確かめるために。ならば、私は……。

『Dr.ウイッチは、早期に病の根源である心の闇を見抜き、その闇と共存していくための治療法を見つけることができるアビスの専門医。依頼を受けたDr.ウイッチは、世界中を飛び回る』

 もう二度と、独りにしない。闇の中を歩かせない。日の当たる世界に、ぬしの居場所を見つけてみせる。

『ぬしは、何者かになれる可能性の卵。Dr.ウイッチの助手見習いとして、うちで働かぬか?』

『え……』

『その枷を外して飛び出す決意をしたなら、私にその白衣を返しに来るといい』

 そう言い残して、私は踵を返し、ウルフくんとその場をあとにした。


「現状維持を選ぶも、新しい一歩を踏み出すも、やつ次第だ。白衣が返ってこないのは痛いが、強制できるものでもあるまい」

 記憶の旅から帰ってきた私は、カルテを持ち上げて日差しに透かす。

「光の中を行くか、闇の中を行くか……決めるのはやつだ」

 闇の中を行く〝あれ〟の背中が頭に浮かんだとき、クリニックの扉がカランカランッと軽快な音を立てて開く。

 振り返れば、弟を連れたクウガが室内を覗き込んでいた。手には律義に畳まれた白衣と、あのシルクハット。

「……白衣を……返しに来たんだが」

 そうか、ぬしは光の中を行くと決めたのだな。

 明るいけれど、明るいからこそ人の悪意もよく見えてしまうこの世界で、生きていくことを決めたのだ。

 それが嬉しくて、つい頬を緩ませながら、私は席を立つ。彼らに近づくと、

「わんわん!」

 オルガはウルフくんを犬と勘違いしているのだろう。私たちの横をすり抜け、室内に飛び込んでくるや否や、ウルフくんの首に抱き着いた。

 あの一件で、オルガは自分を守ってくれたウルフくんをすっかり気に入ってしまったようだ。

 そんなふたりを微笑ましく一瞥して、クウガの前まで行くと、私はふっと笑い、白衣を受け取った。それをバサリと羽織り、ついでにシルクハットも奪って頭にかぶる。

「確かに受け取ったぞ」

「ああ、それで、その……」

 クウガが、なにかを言いたそうにしている。内容の察しはついていたが、気づかないふりをした。

 他の誰でもなく、自分のための願いを口にする。それも優等生だったクウガが、心を開放するために必要な勇気だからだ。

「……俺を助手見習いに雇ってくれるって話、まだ有効か?」

「正直言って、過酷な仕事だぞ。命の危険も伴うしな。それでもなりたいのか、助手見習いに」

 クウガは一瞬黙って、それからまっすぐ私を見据えた。その瞳に、もう迷いはない。

「自分の身に降りかかったことだ。生半可な気持ちでできる仕事じゃないことは、身に染みてる。でも、俺自身に起きたことだからこそ、知りたいんだ」

「知りたい?」

「怪物は個性、なんだろ」

 その言葉に脳裏に蘇るのは、自分の言葉だ。

『オルガの生きづらさも、ぬしや皆が抱える心の闇も、持って生まれた個性。それを枷と考えず、強みに変えてゆけばいい。そうして己を受け入れ、愛してやれ』

 それを覚えていたのかと、私は微かに口元を綻ばせる。

「俺の中にいる怪物を受け入れるためには、まず怪物のことを知らないとって思ったんだ。アビスがなんなのか、アビス患者のために存在するDr.ウイッチのそばでなら、否応なしにその機会は訪れるはずだしな」

 誰しも、自分の闇を真正面から見つめるのは恐ろしい。それなのに、向き合うことを選べるクウガは強い。

「俺を肯定してくれるあんたといれば、自分を卑下したり、世界に絶望してるだけじゃなくて、怪物の俺にしかできないことを見つけられる気がする」

 自分の気持ちを押し殺してきたクウガが、おそらく初めて口にする願いに、静かに耳を傾ける。

「俺、今までパン屋の下働きとか、郵便配達とか、単純作業しかしたことないけど、初めて生活のためじゃなくて、俺自身が興味を持った仕事なんだ」

 人生を諦めたような活力を失っていたクウガの瞳に、確かな意思の輝きが宿っている。

「だから――」

 クウガは、がばっと頭を下げた。

「俺を、あんたの助手にしてくれ」

 挫けても、また立ち上がろうとするから、私は怪物を健気で愛しいと思うのだ。

「助手見習い、だ」

「え?」

 クウガが目を丸くしながら、身体を起こす。

「簡単にこなせる仕事ではないと思うが、先輩のウルフくんに教わるといい」

 扉をさらに開けて、中に入るよう促すと、クウガの目が嬉しくてたまらないというようにキラキラしだす。

 無邪気に喜んで、子供みたいだな。

 我が子を見守るような気持ちでクウガを迎え入れれば、彼の門出を祝うように、扉は軽やかなベルの音を奏でて閉まる。扉にかけてある【OPEN】の札を揺らしながら。


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