ep6.フロストフラワー編・1話
一2022年・4月一
日本女子医学付属病院の丸茂秀一の診察室にある簡易的なキッチンで看護師の深田みくるが細口のコーヒー専用ポットからコーヒー粉の入ったドリッパーの中心に点滴の様に湯を注いでいた。
ポトッ…ポトッ…ポトッ
湯を注がれた粉がおはぎの様にふくふくと香りを漂わせながら膨らんで行く。
深田みくるの側には、お皿に乗せられたバウムクーヘンとフォーク。暖められたコーヒーカップが用意されている。
ポタッ…ポタッ…ポタタ
抽出されたコーヒーの液体がペーパーフィルターを通過し雫となってコーヒーサーバーへ落ちて行く。
深田みくる 「あぁ~…紅茶みたいな香り。これが本当にコーヒーだなんて思えないくらいフルーティーで素敵♪」
コーヒーの香りに酔いしれる深田は2人分のホットコーヒーを抽出し終える。
用意しておいたコーヒーカップにコーヒーを注ぐと、パソコン画面と資料をにらめっこしている丸茂のデスクの上にコーヒーとバウムクーヘンを置いた。
深田みくる 「先生~。準備出来ました~」
丸茂 「あ、ありがとう深田君。じゃあ、休憩にしようか」
深田 「先生~。今日はもう診療おしまいなんですよ~。だから私がコーヒー淹れたんですから」
丸茂 「あれ?そうだったっけ?…ごめんごめん、最近曜日の感覚も無くなってきててね」
深田 「もう~気を付けてくださいよ。じゃあ、頂きまーす」
丸茂 「はい、召し上がれ」
…スッ…ハムッ…スッ
深田は丸茂の隣に置かれた患者用の丸い椅子に座り、両手でコーヒーカップを持って唇に近付ける。口に入ったコーヒーの液体が深田の口の中を幸せに包む。
深田は飲んだ後のコーヒーの余韻を楽しみながら、次にフォークで一口サイズに切ったバウムクーヘンを口に入れる。
深田 「先生、このバウムクーヘンやっぱり美味しい~」
丸茂 「それは良かった!丸茂が自信を持っておすすめする´´豚トコトン´´のバウムクーヘンは絶品ですから」
深田 「は~しあわせ~」
丸茂は深田がコーヒーとバウムクーヘンのマリアージュを堪能したのを確認してから、自分のコーヒーとバウムクーヘンに手をつけた。
丸茂 「…ん~ん。深田君の淹れてくれたコーヒーは美味しいね。紅茶みたいに華やかだ」
深田は自慢気な表情を丸茂に見せつける。
深田 「…そう言えば、先生って仕事の事は沢山話してくれますけど、自分の事は全然話さないですよね~?」
丸茂 「そーう、かな?」
深田 「そうですよ~。私が先生の助手に着任して3ヶ月も経つのに、バウムクーヘンが好きって事しか知らないんですから」
丸茂 「ハハハハハハッ」
深田は丸茂に全然笑えないんですけど。の顔でブスッと頬を膨らませる。
丸茂 「アァ……。そう…だね。話をしようか」
深田 「へへ~♪」
丸茂は深田が淹れたコーヒーを一口飲むと目を瞑りながら話を始めた。
・・・・・・
僕は大学の医学部を卒業して一般病院に就職したのが25歳。医学部の中でも僕は頭が悪い方でね。
外科の新人医師として働き始めてから29歳までの4年間は、今でも昨日の事のように覚えてるよ。
´´外科に向いてないよ´´
´´邪魔。そこの隅で立ってなよ´´
´´やることないよ、吐くなら家でやって´´
厳しい言葉を沢山頂いて、毎日泣きながら夜道を歩いていたよ。もちろん先輩達は嫌がらせで言ってる訳じゃないのは十分理解していたよ、でもね、それでも言葉は言葉。心に刺さる強さは一緒だったんだ。僕の場合はね。
医学部の同期は皆、一般病院から大きな総合病院へと栄転して行くし。自分のやっている仕事が前に進んでる気が全然無かった。
そして医者の道を諦めようかと悩んで真剣に考えた末。僕が唯一頼りにしている女性の先輩医師に相談をした所。
´´そうかぁ、訪問診療はどうなの?´´
その言葉が新鮮だった。僕の中にある医者があるべき姿は、病院の中だけで完結する職業だと思っていたからね。
でも、医師経験4年程の経験値で異動が出来る話じゃないのもその時頭の中でわかっていた。
´´医者に歴なんて関係ないわよ。心配なら最初の5年。私の知り合いに頼んでサポート付けさせるわよ´´
衝撃だった。なんでこんなに話が前に進むんだろう。なんでもっと早く先輩に相談しなかったんだろう。そう思うくらい先輩が優しくてね。
それから僕は、勤め先の病院長に深く頭を下げて訪問診療の部署へ異動させてもらったんだ。
そこからが本当にあっという間だった。たぶん、今思えば訪問診療が凄く僕に向いていたんだね。サポートで付いてくれていた先輩は、たった1年僕と一緒にいただけで、´´あとは大丈夫だね。´´て、あれよとひとりにさせられて放り出されたんだから。
29歳からの5年間は東京の奥多摩村で訪問診療の経験を積ませてもらった後。
35歳からは同じく東京の檜原村に異動になった。
そして、僕が檜原村で訪問診療をしている2019年に´´新型コロナウイルス´´が国内で初めて発生したんだ。
各地で医師不足が起き続ける状況で、檜原村への応援要請は受理されたものの全く連絡が来なかった。
医者は僕ひとり。檜原村の人達を外科だけに問わず何でも対応した。
苦労はそれだけじゃなくてね。檜原村の人口の約4割の人の名前が´´橘´´だったんだ。
僕はその時、檜原村に4年もいても橘さん探しに時間を要する程。僕は頭が悪かった。
2020年4月。コロナウイルスの第一波が国内に猛威を奮い始めた時。僕は変わらず訪問診療を続けていた。
その日は、谷川さんと言う75歳のおじいちゃんの所に診察に伺っていて、玄関口で世間話までしてくれるいい人でね。
その谷川さんが急に何かを思い出してね、´´あそこの黒い家の橘さんいるでしょ?旦那さんこの間見かけたんだけど、何か顔色悪そうだったから見に行ってやってくんねえ?´´
谷川さんは僕が何でも知っているかのように話してくれたんだけどね。´´黒い家の橘さん´´が皆目検討が付かなくてね。
そしたら谷川さんが紙に橘さんの家までの地図を手書きで書いてくれて。僕はその足で黒い家の橘さんの所へ向かったんだ。
・・・・・・
一現在・丸茂秀一の診察室一
深田 「ちょっと待って下さい!…コーヒー無くなっちゃったので淹れてきます」
丸茂 「待ってました」
深田は席を立つとコーヒーを淹れる準備を始めた。
深田 「…先生バウムクーヘンおかわりします~?」
空になった皿を見て深田が聞く。
丸茂 「…大丈夫かな。コーヒーだけで」
深田(心の声) 「あら珍しい、先生がバウムクーヘンおかわりしないなんて…」
・・・
新しいコーヒーを淹れ終えた深田が、丸茂のデスクにコーヒーをひとつ置き、自分の分のコーヒーを手に持ったまま席に座った。
深田 「お待たせしました。グアテマラのコーヒーです~」
丸茂 「ん?さっきとは違う産地かい?」
深田 「はい~」
ふたりがコーヒーに口を付ける。柑橘系の酸、カカオの様な風味、余韻に感じる甘味。暖かいコーヒーの液体が丸茂と深田をほんわりとリラックスさせる。
深田 「はい。先生~。続きをどうぞ」




