小説を書くと言う事
私は「小説が書きたいのだ」と思う。
誰もが涙を流せる悲劇を。
誰しもが明るくなれる喜劇を。
書きたいのだ。描きたいのだ、と。
時々、私はそう衝動的に思う事がある。
けれど、偶にこうも思うのである。
私は、「本当に小説が書きたいのかな」と。
本当はただただ自己中心的に、誰かに私と言う存在を認めてほしいだけなのかもしれない。
本当は『それ』が小説である必要はないのかもしれない。
何かを描くのならば、絵画でも良ければ、楽曲でも良いのだ。
けれども暫くすると、やはり私は「小説を書きたい」と、そう思う。
大抵それは、何かがあった時だったり、好きな作家の本を読んだ時だったり、魅力的な絵画を見た時だったり、心地よい楽曲を聴いた時だったりするわけである。
同様にして、こう言う時は「幻想的」だとか、「文学的」だとかと、全く文学に詳しく無いのに思うのである。
人が亡くなって、人が産まれて。
誰かが泣いて、誰かが笑って。
知らない人が怒って、怒られて。
そんな誰とも知らぬ人の日常を想像しながら、或いは目撃をして、やはり私は思うのである。
「小説を書きたいな」と。
でも少しするとやはり私は思うのである。
「本当に小説を書きたいのかな」と。
或いは、「結局私は何を描きたいのだろう」と。
きっと今日も。
恋人が亡くなって、両親が涙を流して、彼か彼女が八つ当たりの様に怒鳴り散らして、誰かが萎縮する。
そんな日常が流れているのだろう。
きっと今日も。
些細な出来事に恋人と笑って、お互いに好きなことをして楽しんで、徹夜でもしながら、一日を無駄に過ごす。
そんな日常が流れているのだ。
だから私は「小説が書きたいのだ」と、そう思うのかもしれない。
そんな日常を過ごしている彼ら彼女らとは違う、ちっぽけな自分という存在を自認して、下らないと思いながらも周期的な日々をただひたすらに浪費する。
「幻想的」でも「文学的」でも無い、「周期的」な出来事に嫌気が差して、そんな日常に「悲劇」や「喜劇」と言うスパイスを、気軽に「小説を書く事」に求めているのかもしれない。