姉の死
ある日突然、姉はこの世から姿を消した。
その死は、あまりにも不可解な謎を多く残していたので、
私と母は悲しいより先に、どうしてという気持ちが強かった。
私の姉、桜田 蓮子は祖母の眠るお寺の納骨堂で、39年という短い人生の幕を下ろした。
お彼岸やお盆以外はほとんど人気の無い暗く冷たい納骨堂の、祖母の仏壇の前で、彼女は仰向けに寝転んでいた。
お寺の住職が、まさに「眠っているのだと思った。」と発見当初の印象を事細かに語ってくれた。
手はお腹の上で組まれており、まるで棺桶に納められたような姿で、発見されたのだ。
その顔の穏やかなこと。
心地よい夢でも見ているように、うっすらと笑みを浮かべたその死顔は、
生前の寝顔よりもよっぽど美しく、完成されていた。
その日、どうして彼女が祖母のお寺に行ったのかはわからない。
普段であれば私や母に一言伝えてから出かける姉が、何故その日に限って誰にも何も伝えずにお寺へ足を運んだのか。
不審死という扱いで司法解剖された姉の身体からわかったことは、心臓が止まったのだ、という当然の事実だけだった。
何らかの理由により心臓が止まった。
心臓麻痺。
そんなことがあり得るだろうか?
突然心臓が止まった人間が、きちんと手を組んで、
この世界にありがとうと別れを告げるべく微笑みを浮かべ、髪も乱さずに美しさを演出するなんてことが。
出来るものだろうか?
和葉は、はぁと深いため息を吐いた。
秋の夜の雨。
窓の外にはしとしとと冷たい雨が降り続いている。
この夜の静けさを強調するように、雨音が外側の世界を埋め尽くしていく。
実家の食卓テーブル。
私と姉が中学生の頃から使われている木目の立派なテーブルは、かつては4人プラス1匹の家族で囲んでいたものだ。
オレンジ色のライトが、遠い日の食卓風景をぼんやりと照らし出していた。
今ではもう2人きりになってしまった。
姉の葬式に使う遺影の写真を選びながら、私は一人、姉のことを思い出していた。
数日前までは当たり前に会うことができたのに。
これから始まる後半の人生をどう謳歌しようかと、二人でよく話していたというのに。
今はもう、話すことも、触れることも叶わない。
いや、触れることはできるか。と思い直した。
リビングの中央。
かつて父が、愛猫がそうであったように、花に囲まれた彼女が確かにそこで眠っている。
生前の彼女のうたた寝とは明らかに様子が違い、寝息も聞こえなければ柔らかい呼吸の動きも感じられないけれど。
かつて姉だったものが、今はただそこにある。
横たわって目を閉じているのは、姉であって、姉ではない。
ーーーお姉ちゃん、起きてよ。
意味のない言葉を繰り返す。
そんな私の願いも虚しく、姉はもうこの世界に未練はないのだと主張するように、頑なに目を閉じている。
そんな風に見えた。
姉は未完成なものが好きだった。
未だ解かれていない世界の謎や、未開の地、神秘的な超能力など、
答えがまだわからない物事を深く愛していた。
人生の終わりに不可解な謎を残して、彼女はこの世を去った。
姉の死を説明する時、「立ち去る」という言い方が一番しっくりと心に馴染む。
遺体と対面した時、「姉は、この世界を立ち去ることを選んだのだ」、というイメージが強く頭に浮かんだからだ。
私と姉は、3つ歳の離れた姉妹だが、双子のような繋がりを感じる瞬間が何度もあった。
遠く離れて暮らしていた時期は特に、お互いの繋がりを強く感じていた。
同じ日に3食全く同じ食事を摂っていたり、何年も使っていなかったお揃いの時計を同じタイミングで修理に出して使い始めたり、過去に家族で行った水族館のことを考えていたら姉も同じ話を突然始めたり。
ーーー双子の片割れがこの世を去る時、もう片方はどうなるんだった?
あの瞬間から、ずっと姉のことを考えている。
彼女が死んだという、突然の報せを受けたあの時から。
時間はそれほど経っていないのに、もうずっと昔から会っていないような気持ちになった。
ホットココアを一口飲む。
お気に入りのマグカップをテーブルに置くと、コトン、と乾いた音がした。
マシュマロを入れて、美味しいと飲んでいた姉の顔。
テーマパークで買ったお揃いのマグカップ。
それを使う彼女は、もう居ない。
死とは不思議なものだ。
つい一昨日まで生きていたのに。
死は、驚くほど決定的に世界を2つに分けてしまう。
とりとめもなく記憶の断片が、溢れて出してくる。
数年前に姉と交わした会話。
不慮の事故や病気で突然死するのと、長いこと病気を患って少しずつ死んでいくのと、どちらがいいか?と姉が私に質問したことがあった。
「長く苦しむのは嫌だけど、突然死だと死んだことに気付けないかもしれない。」
死を身近に感じたことがなかった私にとって、死はいつも他人事だった。
事故も病気も、自分だけは大丈夫、と思い込んでいるタイプだ。
「そういうものなのかなぁ。さすがに気付きそうなものだけど。」
姉は違った。
幼い頃から「自分が死ぬこと」について深く考え込んでいる人だった。
私たち姉妹が小学生の頃、母が病気になり生死の境を彷徨ったことがある。
今でこそ元気で、姉よりも長生きしてしまったけれど、姉は母親の死に直面したことがきっかけで、自分にもいつか訪れる「死」を身近なものとして捉える癖がついてしまったようだった。
いくら考えたってわからないんだから、考えるの辞めたら?
何度その台詞を彼女に言ったかわからない。
旅行する時も、もし飛行機が落ちて死んだとしたら、といつも口にしていたし、
楽しみなことが先にあるとそれまでは生きていなきゃね、と1週間先の自分の生存を危ぶんだりしていた。
「お姉ちゃんはどう?突然死と、少しずつ死に近づいていくのはどっちがいい?」
姉はうーんと、真剣に数分考え込んでいた。
「突然死んだら、見られて恥ずかしい物を処分できないからそれは嫌だなぁ。」
「じゃあ余命宣告されて、残りの時間を大事に過ごす?」
「性格的にそれもできないから、準備ができた上で突然死がいいのかな。」
そんな風に笑った彼女の顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。
ーーー準備ができた上で突然死。
あの時の姉の言葉が、妙に心に引っかかっていた。