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カースト下位層の闘い

作者: 熊 あずさ

1


「いちについて、ようい、ドン」


 シゲ爺がしゃがれた大きな声で合図をする。2つの運動靴が同時に土を蹴る。小さく上がった砂煙が、シゲ爺の白いスニーカーに纏わりついた。

 伊生と弘志は、目をひん剥いて100m先のゴールに向かって走り始めた。どちらも、最後まで走ることに意味があるぞ、と言ってやりたくなるくらいの低速度だが、大きく腕を振り回し、必死に進もうとしている。伊生は、ばたばたと足音を立て、前に進みたいのか埋まりたいのかわからないフォームで懸命に走っている。一方弘志は、足も腕も前へ進もうとしているが、顎が上がって頭が後ろに傾いているので、そのまま後転してしまいそうだ。


「あと少し、けっぱれえ」

 シゲ爺が、声を上げながら杖を振り回す。残り20m。息が上がってきた伊生は思わずチラッと弘志を見やると、顔を真っ赤にしてぜえぜえと苦しそうな呼吸をしている。いける、と脚に力を入れた瞬間、ひゅん、と風が通り過ぎるように、弘志が前に出た。おい、と前を走る弘志を追いかけようとするが、そこで弘志が止まった。


「ゴール。僕の勝ち」

「お前、何だよ。足速いじゃねえか。練習したのかよ」

「僕がかけっこの練習なんてするわけないでしょ」

「じゃあ、あれか。今日に向けて買ったのか。シュンソク、とかいうやつ」

「残念ながら高校の指定シューズです」


 お互い言葉を発する度に、げほ、と荒い咳が出る。伊生がグラウンドの乾いた土に向かって唾を吐くと、スタート地点の方からシゲ爺が「おーい、どっちが優勝だ」と声を張り上げながら歩いてきた。


「シゲ爺の存在、忘れてた」

 忘れられていたシゲ爺は「おい、どっちが優勝だ、差はついたのか」と高揚しながら鼻の穴を膨らませている。

「優勝も何も、俺ら2人のかけっこ勝負だぜ」

「でも勝ったのは僕ですよ」

「たまたまな。弘志、あとちょっとのところで、スーッと追い抜きやがったんだぜ。弘志、本当に速くなったよなあ」

「でも差はあまりなかったから、2人とも速くなったんじゃない?」

「俺らも成長したな」


 2人の会話を聞いていたシゲ爺は、突然大口を開けて入れ歯を光らせながら腕を組んで笑い始めた。


「言っとくがな、お前ら、死ぬほど遅かったぞ」


 ある意味すごいフォームだったな、たった100mなのにゴールできるのか不安だったよ、と笑いながら話すシゲ爺に、2人は同時に顔を見合せ、「まじか」と呟いていた。

「結局、僕たちの足の速さレベルは、小学生のままってわけかあ」

「カースト下位層、未だ脱出不可かよ」


 オレンジ色の強い西日が、グラウンドを照らす。向こうの鉄棒まで伸びる長い影が3つ、と数えた途端、丸い太陽が、一定のペースで切り取られていくように沈んでいく。


「さて、お前たちは、明日からどうする?」

平らなグラウンドに立っているはずなのに、シゲ爺の言葉が山びこのように、繰り返し聞こえてくる。



2


「いちについて、ようい…」


 ぱあんっ、とピストルが鳴る。5人の走者が一斉にスタートした。はずだったが、1人だけ明らかにスタートの合図から遅れて走り出した。

 保護者たちや別学年の子どもたちが、がんばれえ、と声援を送る。伊生には、地面を叩くような、ばたばた、という自分の足音が聞こえるだけだ。たった50mの距離にも関わらず、ゴールにはなかなか辿り着かない。既に他の4人はゴールしてしまい、最後は伊生の独走パレードとなった。心の中で、早く終われ、と連呼しながら、伊生はのろのろとゴールした。


 1等の旗を持つ謙二けんじが、伊生の顔を覗き込んで「ナイスファイト」とニヤリと笑って声をかけたが、今日だけは笑ってごまかせる自信がなかったので、伊生は聞こえないふりをしてとぼとぼ弘志の隣に座った。


「なんでこんなに大勢の前で、できねえことを見せてやらなきゃいけねえんだよ」

「テストの結果だって貼り出さないのにね」

「テストだって貼り出されたらまずいだろ」


 砂を指でいじくりながら話していると、黒い影がにゅっと2人の視界に入り込んできた。

「ちょっと、あんたたち2人のせいで、白組の得点、全然入らないじゃない」

「そんなこと言ったって、僕たち麻友まゆちゃんみたいに速くないから、仕方ないよ」

 仁王立ちで見下ろしてくる麻友は、怒っているというより得意気な様子に見える。彼女のふわふわと揺れ動く髪、ゆで卵のようなつるつるの肌、透き通った色素の薄いブラウンの瞳を、一つずつ順番に見つめた。この姿で優しい性格であれば、と思わずため息をつくと、麻友がキッと睨んできたので、すぐに視線を逸らして再び砂をいじくり始めた。


「仕方ないとか言い訳じゃない。ちゃんと挽回してよね」

 バンカイ、と伊生は口に出してみるが、意味は分からない。麻友ちゃん行こう、と数人の女子が集まってきて、白組の陣地へ去っていった。

「バンカイって、6年生で習うのかな」

「知らねえよ。どうせあいつも意味なんてわかってないんだろ」

「僕たちも戻ろう」


 2人でとぼとぼと白組の陣地に戻ると、弘志の椅子に謙二が座っていた。椅子に置いていたハンカチが、謙二の尻に敷かれている。重り代わりに置いていた水筒は、横になって地面に落ちていた。

 弘志が黙って尻の下のハンカチを見つめていると、謙二は何もなかったかのように立ち上がり、自分の椅子に戻っていった。


 皺がついたハンカチと倒れた水筒を掴み、運動会は好きじゃない、と弘志は呟いた。

「いつもこんな感じだろ」

「確かに、教室でも変わらないよね」

「別にいじめられてるわけじゃねえからいいけど」

「僕たち、カースト、っていうやつの下の方にいるんだよ、多分」

「カース?なんだよそれ」

「カースト。良い人が上で、悪い人が下、みたいな。テレビでやってた」

「俺たち別に悪いことなんてしてねえだろ」

「なんだろう、人気のある人が上で、ない人が下、かなあ」

「合ってるのかわかんねえけど、なんとなくわかる」

「カーストが上の人は、足が速い」

「わかる」

「麻友ちゃんも、謙二くんも、足が速いから上なのかな」

「足が速いことが大事なんだな、世の中は」

「足が速い人が、人生うまくいくのかな」

「足が遅い俺たちは、もうだめだ」



3


 気づけば魔の運動会から1週間が経っていた。教室では、既に運動会の昂りは薄れており、2人が白組敗北の原因だと指をさされることもなくなった。


 2人はいつもクラスのみんなと時間をずらして帰宅している。ランドセルに教科書を詰める動作を、いかに自然に遅くできるかを競い、教室の人数が減ってきたら、さりげなく同じタイミングで玄関に向かう。


 今日もランドセルに教科書を詰め終わったタイミングで2人は顔を見合わせ、ゆっくりと教室を出た。階段をてってと降りていくと、玄関に麻友と取り巻きの女子が群れて座っていた。麻友は、見せびらかすようにスマートフォンの画面を慣れた手つきで操作している。伊生がチッと舌打ちをすると、弘志が「あっちから帰ろう」と体育館の方へ歩き出した。


 校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下は外に面しているので、そこからぐるりと回って正門の通りに出ることができる。

「あいつがスマホ持ってきてること、先生にチクるか」

「やだよ、僕たちってバレたらそれこそいじめられちゃうかもよ」

「カーストの順位、もっと下がっちまうな」


 ひとつの石を順番に蹴りながら歩いていると、急に体育館の裏側からぬっと人影が現れた。伊生はひぃとのけ反り、その拍子にバランスを崩して後ろに転んでしまった。しかし逆光に照らされる人影の輪郭を捉えると、2人はすぐに安堵した。


「なんだ、シゲ爺じゃねえか」

 シゲ爺と呼ばれた男は、まさに爺と呼ばれるにふさわしい白髪の混じった髭をざりざりと撫でている。垂れた瞼の隙間から見える真っ黒な瞳で2人をぐぐっと見つめたと思うと、にかっと笑って入れ歯を見せた。


「なんだとはなんだよ。お前ら、なんで正門じゃなくてわざわざ裏っ側から帰ろうとしてるんだ」

「別に関係ないだろ」

「出た、イマドキの若者の、別にってやつ」

「別にそういうわけじゃねえよ」

「別に、そういうわけじゃないのか」


 安田茂雄やすだしげおはこの小学校の用務員で、子どもとはあまり関わりはないが、人のいない場所を好む2人にとっては顔なじみの先生だった。安田という名前の先生が他にいることと、いかにも「爺」な容姿なことから、いつからか子どもたちから「シゲ爺」と呼ばれている。

 シゲ爺は、にやにやしながら別に、別に、とおちょぼ口で繰り返し、伊生をからかっていたが、

「ところで、カーストってなんの事だ」と、再び瞼の下の小さな瞳を黒く光らせ、2人を見た。


「シゲ爺、僕たちの話聞こえてたの」

「カーストってのがちょうど聞こえたんだよ」

「シゲ爺、カーストって知ってるかよ」

 伊生が、鼻息を荒くしてシゲ爺に近づく。


「カースト制度っていうのは、バラモン教の身分制度だろう。王様から奴隷までランク付けをする制度だな」

「僕がテレビで見たのは、学校のカーストってやつでした。人気者は上で、そうじゃないやつは下なんだって」

「スクールカーストってやつだろう」

シゲ爺は、くだらねえな、と唾を吐いた。片付けるのは自分だろうに、と伊生は思ったが、言わない。


「カーストなんて、いったい何で決まるって言うんだよ。くだらねえよ」

「俺たちはカーストの下なんだよ。足が速いやつが上なんだ」

「小学生ってのは、世界が狭いな」

 シゲ爺は、わざとらしくため息をついてみせた。


「シゲ爺は掃除や草取りしかしていないから、教室のことはわかんないんだよ」

「そうかもな。ただ、教室にカーストが成り立っているとすると、それがアホくさいのはわかる」

「先生がアホとか言ってもいいんですか」

「いいんだよ、俺はただの雑用担当だから、先生じゃねえ」

 あ、人前では先生って呼べよ、とシゲ爺は2人を順番に指差す。そして、ちなみに、と言葉を続けた。


「大人になったら、足の速さで良し悪しが決まるわけじゃねえぞ」

「じゃあ何で決まるの」

「それぞれだ」

「どういうことだよ。全然わかんねえ」

「いいか、小学校の次は中学、高校、大学や専門学校、そして晴れて社会人だ。大きくなっていくと、運動会のかけっこ競争なんて縁もゆかりもなくなっていく。その代わりに、かけっこ以外の場面で活躍できるチャンスが増える。今はなんだって仕事にできる時代だからな。人の話をうんうんそうだねって適当に聞いていてもそれが仕事になることもある。ということは、お前たちの足が遅いことなんて、言っちゃ悪いが、どうでもいいんだよ。結局、何ができるかなんて人それぞれなんだから、カーストなんて意味ねえんだ。ただ、お前たちがいる、それだけだ」


 伊生と弘志は、理解出来たのかどうかすら理解出来ず、顔を見合せて口をへの字に曲げた。

「よくわかんないけど、僕たちは足が遅くても大丈夫ってこと?」

「大丈夫かどうかはお前たち次第だ。俺様の見立てでは、お前らは大丈夫だと思うがな」

 シゲ爺は、がははと笑って2人の頭をわさわさと撫でた。つられて2人も笑った。伊生は、大丈夫かどうかは分からないけれど、俺には何ができるんだろうか、と頭を巡らせてみた。が、これといって思いつくものは特に無い。



4


 伊生と弘志は、自称カースト下位層のまま、小学校を卒業し同じ中学校に入学したが、その後はそれぞれ別の高校に進んだ。定期的な連絡も次第に少なくなり、高校卒業後の生活は互いに知らない。


 伊生は、高校卒業後に県立大学へ進んだが、学生の限度を超えた怠惰な生活が実を結び、二度留年した。その後の就職活動でスーパーの食品工場から内定をもらい、社会人の仲間入り!と安心したのも束の間、つまらなくて辞めた。現在は、地元の居酒屋でアルバイトをし、何とか生活を維持している。


 冴えない繁華街のさらに奥まった場所で、居酒屋「南風」は今日もしっぽりと営業していた。伊生が会計済みのテーブルの上に残ったポテトフライをひょいと口の中に放り込んだ時、ガララと戸が開いたので、慌てて右の頬にポテトフライを追いやった。いらっしゃいまへ、ともごもごしながら入口へ向かうと、学生時代にカースト下位層を共に生き抜いた戦友の姿があった。当時より大人びて髭も少し伸びかかっているが、雰囲気はそのまんま、弘志のまんまだ。


「お前、何してんだよ」

「ここで働いているのか、伊生」


 お互いの近況を全く知らなかった2人は、急な戦友との再会に驚いたが、どちらからともなく手を差し出して握り合った。

「お前、今どこで働いているんだ」

「工場だよ。自動車部品の。毎日かつかつだけれど、僕はどうも話すのが苦手みたいで、就活は尽く失敗したよ。唯一受かったのが今の会社だ」

「相変わらずだな」

「伊生はここでアルバイト?」

「そうだよ、弘志と同じようなもんだ」

「相変わらずだねえ」


 カウンターに案内された弘志は、焼酎のウーロン割りと枝豆を恥ずかしそうに注文した。しばらく追加注文もなく、酒とつまみを大事そうに少しずつ口に運んでいるので、伊生は大将に「久しぶりに再会した幼なじみなんです。俺の給料から引いていいんで、何かサービスしてやってください」と頼み込み、モツ煮込みとだし巻き玉子を出してやった。


「気を遣ってもらってごめん。でも凄くうまいよ。ありがとう」

「戦友だからな」

「戦友か」

 弘志は眉毛を下げ、ふふ、と微笑んだ。

「戦った結果が、今の俺たちだもんな」

「というか、僕たち戦ったのかな」

「わかんねえな。頑張ったっちゃ頑張ったが、なんか人生ってうまくいかねえよな」


 弘志が座るカウンター、その後ろに立つ伊生、そのさらに後ろから、突然にゅうっと人影が現れた。ぎょっとして2人は同時に振り返り、人影の正体を認識すると、さらに驚き、仰け反った。


「おい、もしかして、シゲ爺じゃねえか」


 小学校の用務員として出会ったシゲ爺は、当時と変わらない白髪の混じった髭がぼうぼうに伸びきっており、垂れた瞼の下の小さな目は、相変わらず黒く光っていた。当時から「爺」らしい容姿だったが、15年経ったはずの今も「爺」のままだ。


「人生うまくいかない、と聞こえたんだが」

 シゲ爺は、にかっと入れ歯を見せつけて笑いながら、瞼の奥の目を黒く光らせた。


「シゲ爺、いつからいたんだよ。急すぎるだろ。びっくりした」

「失礼な店員だな。最初からいるだろうが」

 伊生はハッとして、奥の4人がけのテーブルに目をやると、清潔とはいえない爺さんが、1人で漬物をしゃくしゃく食べている。そういえば、2時間ほどずっと廃れた爺さん2人が漬物ばかり食べているのを、大将と厨房で揶揄していたのだが、まさかシゲ爺だったとは。


「驚いたよ、シゲ爺。最初から居たなら、僕がここに入ってきた時の僕たちの会話で気づいただろうに。早く声かけてくださいよ」

「漬物食うのに忙しかったんだよ」

「漬物一皿を2人で食うのに何時間かかってんだよ」

「ところで、人生うまくいってないのか、お前たち」

 弘志はへへっ、と声だけで笑い、首を撫でながら俯いた。

「小学校生活とは裏腹に良い人生だよ、って言いたいんですけれど」

「なんだなんだ、若い奴らがだーだー言って、地球が滅亡するわけでもなかろうに」

 そう言ってからシゲ爺は、いや、あり得ねえ話じゃねえな、などとぶつぶつ呟いている。


「シゲ爺、スクールカーストの話、覚えてるかよ」

「スクールカーストなんてどこにでもあるだろうが」

「5年生だったかな、僕たちカースト下位層だって話、シゲ爺に話したと思うんですが」

「弘志、シゲ爺って呼ぶくせに敬語で話すの、相変わらず収まりが悪いな」

 伊生がにやにやしながら弘志の肩をつつくと、後ろでシゲ爺が、おお、思い出した思い出した、と声を上げた。


「あれか、足が速いやつが勝ち組とか、そんな話だったか」

「そうそう、俺たちは足が遅いからカースト下位層で萎れてたけど、慰めてくれたじゃねえか。結局今も社会のカースト下位層だけどさ」

「ビリではないだろうけどね」

「あの時もビリじゃあなかったな。もっと遅い奴いたろ」

「1人だけだよ。大して変わらないよ」


 シゲ爺は、伸びた髭を撫でながら2人の会話を見つめていた。

 弘志が、今も大して変わらない、とこぼし、空気が少し冷えたように気がした。


「かけっこでもしてみろよ、お前ら」


 なんで?という素っ頓狂な声が二つ重なり、厨房まで響いたため、伊生は大将に「さっさと仕事しろ、給料出さねえぞ」と叱られてしまった。



5


 土の表面を、柔らかい風がすうっと撫でる。すると目の細かい小さな砂たちが、集いながら宙に舞う。目に見えそうで見えないぬるい空気が、整備された母校のグラウンドを包み込んでいる。伊生と弘志は、消えかかっている白いラインに並んだ。シゲ爺は、二歩程横にずれた位置に立ち、杖で砂をいじくり回している。今日は日曜日で、児童も教員も見当たらない。

 2人は、おいっちに、おいっちに、と声を揃えて準備運動をしている。伊生は、怪我なんて嫌だ、歩けなくなるなんて嫌だ、とぎゃあぎゃあ喚きながら、何度もアキレス腱を伸ばしている。


「ようし、準備はいいか、お前ら」

「緊張するなあ。ギャラリーはシゲ爺しかいないのに」

「俺も脇から大量出汗中だ」

 弘志は、伊生の青い服にしっかりと滲んでいる脇汗を見て、何その量、と顔をしかめた。


「それじゃあ、いくぞ」

 いちについて、ようい、ドン。シゲ爺の、しゃがれた大きな声が、誰もいない午後の校庭に響いた。



6


 太陽の光がやっと差し込み始めた朝の5時半に、隣で寝ているたくみを起こさないように、麻友はそっと布団を出た。軽く顔を洗い流した後、いつものようにキッチンに立ち、巧と謙二の弁当と朝食のコンソメスープを同時並行で作り始めた。スマートフォンで「キャラ弁」と検索して表示されたレシピを念入りに確認しながら、せっせと弁当をこしらえていると、巧と謙二が手を繋いでダイニングに降りてきた。


「ママ、おはよう」

「巧、おはよう。パパもおはよう。早いね」

「おはよ。今日は大事なプレゼンがあるんだけれど、最終調整があるからいつもより早めに出るよ」

「そうなの。そういえば、また昇進できそうなの?」

「このプレゼン次第、と言っても過言ではないかな。さらに昇進できたら、巧も小学生になるし、麻布にでも引っ越そうか」

 麻友はその言葉に、この人と結婚してよかった、と改めて感じ、うっとりと謙二を見つめる。

「車もそろそろ買い換えてもいいんじゃない」

「そうだな。レクサスとかならファミリーで使えるし、自慢もできそうだ」


 レクサス、サクセス、と満足そうに駄洒落を飛ばしながら謙二が椅子に座ると、巧が隣の椅子できゃっきゃと手を叩いて笑っている。

「そんなに面白かった?今のギャグ」

「ううん、全然。サクセスってこの間英会話で習ったけれど、セイコウ、って意味ってことはわかるよ。パパ、自慢しているみたいな顔でギャグとか言うけど、全然面白くない」

「今日のプレゼン、なんか不安になってきたな」

「じゃあ何がそんなに面白いのよ」

「この人たち」

 麻友が巧の目線を追うと、先日謙二が昇進した際に購入した70インチのテレビ画面に、2人組の漫才師が映っていた。大御所の有名司会者が、「そんなに面白かったら、君たちもう勝ち組だよ」と手を叩いて彼らを称賛している。


「お笑い芸人は笑わせるのが仕事なんだから、そりゃあそうだよ」

「あなた、この人たち見たことない?」


 知っている人?と謙二は眉をひそめ、鮮やかすぎる有機ELディスプレイに目を近づけるが、眩しさでその人物たちを捉えられず、画面から少し離れて再びじっと彼らの顔を見た。あ、という謙二の声がダイニングに響いたと同時に、画面には彼らのコンビ名と名前が映し出された。


「いお、ひろし、って、小学校同じだった、あの?」

「コンビ名、ブービーですって」

「まさか、芸人に?」

 麻友と謙二は顔を見合わせて目をしばたたいた。

「ママもパパも、ブービー、知らないの?今すっごい人気の若手芸人だよ」

 巧がわかて、わかて、とテレビで覚えたであろう単語を繰り返して、足をバタバタさせている。


「言っておくけど、パパよりこの人たちの方が面白いから」

 謙二は、そうかあ、と腰に手を当て天井に向かってため息をついた。麻友は、謙二の口角がうっすらと上がっていることに気づくと、ふ、と吐息のような笑みをこぼした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 二人が這い上がるきっかけとなった言葉を、時系列を入れ替えて第一章に持ってこられたのが、効果的ですね。 終わりまで読んで第一章を読み返してみると、夕陽も相まってノスタルジックな気分に浸れて、…
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