40:最後に呼ぶのは
諦めないともがいて身を起こすと、男の冷たい視線がこちらを見下ろしていた。身を屈めると手加減なくスーの頬をつかむ。
「大した気力ですね、王女。もう気を失った方が楽ですよ」
スーは男を睨み返す。化粧をした男の顔は女性と見紛うほどに可憐で美しいのに、嘲笑うかのような目元には酷薄さ浮かび上がり、スーに恐怖を植えつける。
(ルカ様……)
シャンデリアの下を這うように広がった血溜まりが脳裏に蘇って、さらにスーの絶望が深くなる。
体中から恐怖が競り上がって、無意識に震えていた。恐れでかみ合わない歯がカチカチと鳴っている。
「無駄に足掻かず、もう眠ってください」
殴られるのかと思ったが、男はスーの顎をつかみ突然唇を重ねた。
「っ!」
スーは咄嗟に歯を食いしばって逃れようとするが、身体中が痛みに悲鳴をあげている。固く拘束するように抱きすくめられて、もがいても男の腕はびくともしない。何のために自分に口づけをするのかわからずにいたが、スーはぎくりと口づけの意図を理解した。
(息が……)
鼻は男の頬でぴったりと塞がれ、口も塞がれている。このままでは窒息する。
(息ができない!)
力の限りもがくが、男の力は緩まない。
(苦しい!)
耐えきれないと思った瞬間、男がふっと唇を離した。スーが空気を求めて口を開いた瞬間、男は見計らっていたように、ぬるりと舌を差し込んでくる。口内に苦いものが充満したが、スーは大きく呼吸した勢いで吸い込んでしまう。
(しまった……!)
気管への誤飲で激しくむせながら、男から流し込まれたものを弾みで嚥下する。
スーは解毒薬を持たされたことを思い出したが、ぐらりと急激に世界が遠ざかった。
(ダメ、いま気を失ったら)
気を失ったら、そこで全てが終わってしまう気がした。
「強情な方ですね。眠ってください。効用に抵抗しても苦しいだけです」
「……いったい、何のために?」
何のために自分を連れ去ろうとしているのか。睨んでいると、男が小さく嗤う。
「さぁ。皇太子との不仲説になるのか、サイオンの王女は淫乱であるという噂になるのか。その美貌であれば後者の方が説得力が増すかもしれませんね。いや、もしかすると自ら美しいあなたを欲しがるのかもしれない。どちらにしても、あなたは皇太子とは別の誰かの子を孕む。帝国には、その結果がもたらすものを望む者がいるのです」
スーの視界が色褪せて、狭窄していく。
「あなたに罪はないが、これが実情のようです」
(では、きっとルカ様は無事なんだわ)
ルカに何かあったのであれば、自分を連れ去る必要もなくなるはずだ。
「でもご安心ください、サイオンの王女。あなたが誰の子を孕もうと、面倒を見てくださる方がいらっしゃいますので」
ルカの無事を予感して一筋の気力が蘇ったが、男の示す未来を思い、すぐに心が絶望に沈む。
(でも、このままでは……)
救いのない未来が待っている。
本当に男の示唆する道を歩むのだろうか。政略結婚で幸せになろうと思ったことが、すでに間違いだったのか。
強引に仕組まれたとしても、男の言うような不義が成立すれば、もう二度とルカには会えないだろう。ルカだけではない。
ユエンにもオトにも。サイオンの家族にも、王国の人々にも。
スーは誰にも顔向けできなくなってしまう。
「……ルカ様」
悔しい。そして、とても恐ろしい。
絶望が競り上がって、抱えきれなくなる。許容を超えてしまった恐れが溢れ出て、視界がつんと込み上げてきた熱に揺らめいた。あっという間に世界がにじむ。堪えきれず、ボロボロと涙が溢れた。
(怖い……)
張りつめていた虚勢も限界だった。スーの心が一気に崩れる。
「う、……」
嗚咽が漏れた。怖い。怖くてたまらない。
眠りたくないと抵抗しても、すうっと血の気が引くように目の前が暗くなる。意識が遠ざかり、引き込まれていく。
「ルカ様――」
気を失うまぎわ、暗転する世界の中で怯え、涙に暮れながら、スーは懐かしい声を聞いた。
ーーおまえ、天女を泣かせたね。




