06.
私にとっての様々な事柄は、良質な睡眠をたっぷりと取る事で消化されてきた。お前は物事を深く考え過ぎだと両親から言われて育ってきた私は、落ち込むのも早いが立ち直るのも早いと自負している。辛い事、悲しい事、不安な事も、大抵は翌朝には「まあ良いか」と気にも止めなくなるのだ。
だと言うのに、今も私の中のモヤモヤが消えてくれないのは、昨日一日で余りに多くの出来事があったからだろう。
「おはようございます、ノア様。リディアです。失礼致します」
それでも私の調子なんてお構いなしに、朝は変わらずにやってくる。いつものように三度ノックして二秒待ったらこのドアを開けてーー返事を待たないのは、たった三度のノック程度では彼の目を覚まさせる切っ掛けにもならないからだーー持ってきた紅茶を用意する。いつもと同じ日々をなぞれば、きっとこのモヤモヤも晴れるはずだ。
「ああ、おはよう。リディ」
「の、のの、ノア様が起きていらっしゃる……?」
持ってきた茶器がかちゃりと音を立てて揺れた。彼が私が起こしに来るよりも先に起きているなんて、年に数度あるかないかという程の珍しい事だ。動揺するなと言う方が無理な話である。驚いて未だドアの前から動けない私に苦笑して、こちらへおいでと手招きされた時、ようやく私の足は前へ進んだ。
「確か今日は特にご予定がなかったと思っておりましたが、何か急用でも入りましたか?」
「いいや、何もないよ」
「では、どうしてこんな早くに起きていらっしゃるのですか?」
「たまには早起きして君を待つのも悪くないかと思って」
まだ起きてそれ程時間も経っていないのか、ほんの少し重たげな瞼を細めた彼が微笑む。寝起き特有の気怠さが相俟って、直視すれば心臓が止まってしまうんじゃないかと思う程の色気に当てられて目眩がした。
「顔が赤いけど、どうかした? 風邪?」
「い、いえ、何でもないです。失礼しました。今お茶の用意をしますね」
「ああ、それなんだけど。今日はこっちにも入れて欲しくてさ」
そう言った彼は自分で用意していたらしいティーカップをテーブルに置いた。カップは既に持ってきているけれど、今日はこのカップで飲みたい気分という事だろうか? 今までそんな事は言われた事がないけれど、と思わず首を傾げてしまう。
「二杯分くらいあるだろう?」
「用意はしておりますが、一度に入れると冷めてしまいますよ?」
「そうじゃなくて、こっちは君の分」
「ですが……」
「良いから良いから。ほら、紅茶が冷めるよ? 早く飲もう」
「……かしこまりました」
彼のこういう優しい口調で強引な所、きっと世の中の大体の女性は弱いだろうなと思う。かく言う私も逆らえなくて、大人しく二杯分の紅茶を入れて互いの前にカップを置くしかなかった。
「それにしても、せっかくのお休みなのにこんなに早く起きて良かったんですか?」
「ええ? いつもならせっかくの休みなんだから早く起きて有効に使えって言うじゃないか」
「ですが、昨日は晩餐会もあったしお疲れなんじゃないかと思いまして。正直今日も起きないだろうと思いながら起こしに来ました」
「言ってる事、矛盾してない?」
和やかな雰囲気と笑い声が部屋を満たす。昨日は先に部屋に戻ってしまったからわからなかったけれど、早起き出来たという事は、エレナ様とはそれ程遅くまで一緒に過ごした訳ではないようだ。立場が、なんて昨日は偉そうにアレン様に言ったけれど、内心安堵している辺り私はズルいと思う。本当に立場を弁えるのであれば彼とエレナ様が上手くいく事を願わなければならないと言うのに、私にはまだそこまで考えられる程の余裕はないのだ。
「……昨日は……」
「え?」
「昨日は、あまり君と一緒に過ごせなかったから。早く起きれば、少しは君と過ごす時間も出来るかと思って……」
彼の瞳の下が赤く染まる。まるで照れているのを隠すように目線が空を彷徨って、もう一度私を捉えた時に視線が絡まった。じっとこちらを見つめる瞳が、私の心にほんの少しの期待を芽生えさせる。寂しいと思ってくれたのだろうか、と。
「ご不便をお掛けしてしまって、申し訳ございません。今日からはまたしっかりお世話させて頂きますから安心してください!」
「へっ? あ……えーと、うん。頼りにしてるよ、宜しく」
なんて、本当はわかっている。昨日は殆ど一日中離れて過ごしていたのだから、きっと色々と不便な思いをさせてしまったのだろう。出来るだけ安心してもらえるようにと、胸を張った。
いつだって私の心はほんの少しの出来事でさえも期待に変えてしまいたくなるけれど、その度に今のままで充分幸せなのだからと言い聞かせてきたのだ。妄想から現実へ戻ることだって慣れっこだ。
ただ、もう少し。この紅茶を飲み干してカップが冷えるその時までは、都合の良い勘違いを許してほしい。心の中の重くて苦い思いはまだ癒えそうにないけれど、貴方が私を必要としてくれるならきっとまた上手に笑えるから。