03.
その日は朝から薄暗い雲が空を覆っていた。今にも降りだしそうな天気に八つ当たりするように少しだけ外を睨み付けてみたけれど、当たり前だが晴れそうにはなかった。心の中で小さな溜め息を吐いて、散らばった書類の整理を再開する。一日に二度は必ずこの机を片付けているはずなのに見る度に散らかっているのだから、実は何処か異次元にでも繋がっていて放っておいても紙が次々と舞い込んでくるか、散らかすことにおいて彼が類い稀なる才能の持ち主なのか、そのどちらかなんじゃないだろうか。
雨の日は少し憂鬱だ。彼のベッドに掛けるシーツを洗濯したかったとか、片付けても片付けてもすぐに散らかるこの部屋に飾る花を買いに行きたかったとか、彼の為にやりたい事は毎日いくらでもあるというのに、雨が降ってしまえばそれもこれも台無しになるから。当のご主人様はと言うと、珍しく暇を持て余しているようでーー今日はサボりでも何でもないと言うのだから、本当に珍しいーー窓の外をぼんやりと眺めていた。
「せっかくのお休みなのに、天気が悪くて残念ですね」
「んー……」
買い換えられなかった花が生けられた花瓶の水を取り替えて、窓際に佇む彼に声を掛けたけれど、返ってきたのは曖昧な返事だけだった。何か考え事でもしているのかどうも心ここにあらずといった様子の彼にそっと近付いて顔を覗き込むと、その視線は先程よりもずっと暗くなった雲に向けられていて、一向に逸らされる気配もない。
「どうなさったんですか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫……、あ、降ってきた」
「え?」
同じように目をやると、今まさに降り出したらしい最初の雨粒が窓をコツンとノックして、次々と地面を染めていった。ざあっと大きな音を立てて大地が鳴らされると、まるでこの世界にたった二人だけしか存在しないような錯覚を起こすほどの雨音に包まれる。
「さて、リディ。君がさっき何を考えていたか当てて見せようか」
「はい?」
先に沈黙を破ったのは彼の方だった。降り出した雨に満足したのかようやく振り返った彼と数分ぶりに視線が合う。突拍子もない事を言われるのは割と慣れていたつもりだったけれど、今回ばかりは全く意図がわからない。
「雨が降りそうでがっかりしてたんじゃないか?」
「どうしてわかったんですか?」
「リディは何か考え事をしてる時、視線が斜め下に向くから。雨のせいでやろうと思ってた事が出来なくなって、がっかりしたんじゃないかと思って」
こんな風に、と言って、彼は視線を流して見せた。考えたこともなかったけれど、言われてみれば確かにそうかもしれない。自分でも知らなかった癖まで気付かれていたのかと思うと、本当は心まで見透かされているような気がして恥ずかしかったから、出来るだけ何とも思ってないような振りをした。
「そうですね。ノア様のベッド用のシーツを洗濯したかったですし、買い物にも行きたかったです。この部屋はいくら片付けてもすぐに散らかりますから、整理して頂く為の文房具と、それからこの散らかった部屋に少しでも華を添える為の新しいお花に、それから……」
「ストップ! わかった、わかったから!」
もう降参、とでも言うように両手を挙げて話を遮った彼は、少しだけいたたまれない表情をして、こほんと一つ咳払いをした。
「まあ、俺にとってはこの雨は好都合だったんだけど」
「どういう事でしょうか?」
「君は雨のせいで予定が空いてしまった。つまり、今から暫く暇になるわけだから、俺が君を独り占めしてしまっても問題ないという事になる」
「それはどうでしょうか? もしかしたら、他にやらなくてはいけない事が山のようにあるかもしれませんよ」
「そう? 俺はこの事について挙げられる問題には、どんな手を使ってでも全て論破出来る自信があるけど?」
「そんなつまらない事に手間を掛けようとしないでください」
形の良い眉を少しだけ吊り上げて真剣な目をされると、思わず視線を逸らしてしまう。冗談とも本気とも取れるセリフに一々反応してしまっては身が持たないと頭ではわかっているのに、彼の声で紡がれるとこの素直な心臓はすぐに騒ぎ出してしまうのだから厄介だ。
広い机を拭き上げて仕方ないですね、と呟くと、彼の瞳は期待に色付いた。仕方ないなんて思ってもいない、内心踊り出したい程に喜んでいるのは私の方だ。
「何をしようか? チェスでもやる?」
「チェスはノア様が強すぎていつも負けてしまうので嫌です」
「リディは本当負けず嫌いだな。まあ、時間はたっぷりあるから、美味しいお茶でも飲みながらゆっくり考えようか」
「かしこまりました。では、お茶の準備をしてきますね」
時間がもったいないから早く帰ってきて!なんて愛らしすぎるおねだりを背中で受けて、部屋を後にする。気付かれてはいないだろうか?頬が緩むのを抑えきれなかった事、鼓動が早くなって仕方がなかった事、本当は嬉しくてたまらない事。
雨なんて止まなければ良い。さっきまであんなに憂鬱だと思っていたのに、こんなに簡単に私の心を塗り替えてしまう彼が居てくれるなら、この世界に嫌いな物なんて何一つないんじゃないかと本気でそう思った午後だった。