1・分岐点
真っ白なキャンパスに煤だらけの手をなすりつけたような空は俺の心中をそっくりそのまま形容してくれていた。
5月の半ばに差し掛かると新生活は日常へ姿を変え、元あった生活は記憶へ収納されていく。
長袖でも半袖でもいいような中途半端な温度の空気を肺に入れ、そして吐き出す。
吐き出した空気は目には見えないがゆったりと世界へ還元されていくような気がした。
今日の朝、俺の彼女である須藤蒔苗が自宅で倒れていたところを彼女の友人が発見した。
蒔苗は病院へ搬送され、今はベッドで体を休めているそうだ。
俺は蒔苗を診た医師がいる診察室へ向かう。
まるで夢の中で走っているかのような錯覚を覚える。スライド式のドアに手をかけているのに思ったようにその手を水平移動させてくれない。
「すいません、遅れました」
開けたドアの
「いえ、大丈夫です。おすわりください」
「はい」
テンプレートの会話を済ませる。
「えぇっと・・・須藤蒔苗さんは」
老年であろう医師は結果を知っているのにわざとパソコンに表示されているだろう蒔苗の診察結果を探し出す。俺の気を落ち着かせるためだろうか。
「記憶障害の中でも、解離性健忘ですね。検査によると大体高校三年生までの記憶までしか残っていないようです」
――耳を疑った。頭を打ち付けた、軽い打撲、貧血、そんなものだろうと思っていた。
急に胸が締め付けられる。想像するよりも早く体が動いてしまっている。
もうわかっているのだ、これからの未来は
「――ここまで大丈夫ですか?」
「すいません。初めのほうしか・・・」
「大丈夫です、もう一度初めから説明しますね」
「よろしくお願いします」
「解離性健忘は心の傷や極度のストレスなどが原因で起こる記憶障害の一種です、思い出せなくなる記憶は人それぞれで、心の傷を負った記憶そのものや、その記憶の周辺がおもいだせなくなったり、過去の記憶がとんだり、本当に様々です。先ほど須藤蒔苗さんの記憶に関する検査をしたところ、大まかですが直近の過去3年の記憶を失っています、そのほかにも思い出せなくなっている記憶があるかもしれません。彼女と共に過ごす中で少しづつ知っていってください」
医師はゆったりとした口調で話す。俺はまるで神の啓示のように感じられた。
「・・・記憶は、取り戻せるんですか?」
「解離性健忘は、治るケースもありますが、そうでないケースももちろんあります。ですから、今の時点では断言できません」
「・・・そうですか」
「今日のところは一緒に帰ってあげてください。須藤さんもあなたを待っているはずです」
医師は落ち込む俺を労うように語る。
だが、
――そんなはずはない。
直近3年ほどの記憶が抜け落ちているのであれば・・・。
――――俺のことさえも忘れているはずだから・・・。
彼女は極度なストレスで気を失って倒れたのだろうか。そのストレスの原因は何なのだろう。
俺と彼女の中はいたって平凡だ。どこにでもいるような交際関係だ。
しかし、気になるところがある。どうして彼女は極度なストレスを抱えていた?心の傷はどこからやってきたのだろうか。俺が相談に乗り切れていなかったのだろうか。
俺は蒔苗と大学で知り合った。俺が一人飯を食堂でむさぼっていた時に蒔苗は俺に声をかけてくれた。それが出会いだ。本当に平凡だ。
平凡が平穏だと本当に思い知らされる。ありえない。俺らでなくたっていいはずだ。神は何もなかった日々に咲く一つの希望さえ奪い去っていく。
たった50mの距離が通常よりもひどく長く感じた。
先ほどと同じようにドアを開く。しかし内容物は蒔苗だ。
「――こんにちは」
俺は慎重に声をかける。
「はい、こんにちは。え、宗次くん?」
「え、何で知って――」
「知ってるも何も、私たちカップルなんだよね?」
確信した。彼女は友達に俺らの関係を尋ねたのだろう。
そして、俺が持っていた記憶が今をもって俺だけのものになってしまった。
「そうだね、俺と君はお互い恋人、俺は君を蒔苗って呼んでて蒔苗は俺を宗くんて呼んでる」
「そか、じゃあ宗くん、私、えっとね、大体思い出そうとしても大学の出来事はほとんど思い出せなくて。それで教えてほしいんだけど」
「うん」
よそよそしさを感じる。当たり前だ。記憶があったならばつい昨日も愛し合っていた仲だなんてどう接すれば良いのかわからないのだろう。
「宗くんが好きって気持ちも、思い出せないの」
「・・・・・・」
首筋から不快感が一気にくる。悲しそうに話す蒔苗の表情も相まって俺は言葉を失う。
どの言葉もきっと最適解ではないし、間違ってもないのだろう。
「蒔苗は、どうしたいの?」
おおよそ決まりつつあるだろう答えを引き出そうと俺は蒔苗尋ねる。
「私は、このまま付き合っていてほしい。どうしてかはまだわかんないけど。とりあえず、場所移そ?」
「うん、ありがとう。わかった、じゃあいこうか」
焦ったぁぁぁ、完全にフラれると思った・・・。
蒔苗は手ぶらで財布も持っていなかったのでひとまず俺が診察費などを支払い、俺の家へ彼女を連れて行くことにした。