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完璧な春の意匠。

作者: 折本四季

 同じような毎日の中で、しいて言うなら朝が一番好きなのかもしれない。特に何かが始まる気がするとか、そういうことではない。ただ淹れたての珈琲の匂いだとか、窓から差し込む春の光だとか、そういった漠然とした「それっぽさ」に惹かれるのだ。


 頭をからっぽにして珈琲をすすっていると、ニュースが今日は絶好の花見日和だと言っているのが目に入った。顔に幸せを携えた人々が花見を楽しんでいる映像を見ているうちに、珈琲はぬるくなって、それっぽさを失っていた。


 食事を適当にすませると、身支度を整えに箪笥へ向かった。果たして今日はどれくらい暖かくなるのだろうか。結局、考えても仕方ないので一番上にあったシャツに着替えると、まだ体温の残るスウェットを洗濯機に放り込んだ。スイッチを押すと、洗濯機は頭の悪そうな音を出しながら回りだした。


 ワンルームの安っぽい扉を開け放つと、陽気な風が頬を撫でた。春の風だと思った。もしかしたら去年の今ごろも同じようなことを考えていたのかもしれないけれど、そんな憶えは一向に見当たらない。


 そもそも彼は昨日のことすらよく覚えていなかった。昨日も、一昨日も、そのまた昨日も、彼には本質的に同じもののように思えた。朝食べたものがチーズトーストであるかサンドイッチであるか、夜眠る前にかけるレコードがナット・キング・コールであるかビル・エヴァンズであるかくらいのささやかな違いは、日常の延長くらいなもので、彼の記憶に残るほど重大な意味を持たなかったのだ。


 アパートの階段を下りていると、敷き詰められた桜の花弁に足をとられそうになった。彼はいまだにばんやりとした意識の中で、春も考えようだな、と思った。階段から少しばかり俯瞰できるアパートの庭は、芝が丁寧に刈り取られていて、彼の目には造り物の様に映っていた。


 閑静な住宅街にも、確実に季節はやってくるもので、歩いていると庭先にさまざまな花が色づいているのが見えた。紫苑、椿、蝦夷菊。あまり熱心に語られるので自然と覚えてしまった春の花たちだった。今日は久しぶりに彼女と会うわけだし、何か花を買っていこうかと考えた。というか、そうするのが自然なことだと思った。

 ほどなくして公園に差し掛かった時、家族連れが花見に訪れているのが目に入った。小学生ぐらいの少女が、

「どうして花見は花見っていうの?桜を見に来てるのに桜見じゃいけないの?」

と父親らしき男に尋ねていた。男は困ったような顔をして、

「僕はほかの花も見ているつもりだよ。」

と答えた。

「えぇ、ほかの花なんてないじゃん。」

「あるさ。でなきゃ僕たちは桜がなくなったら、春が来たって気づかなくなっちゃうよ。」

少女は納得のいかないような、だがそれを半ば諦めているような、深みのある表情を浮かべていた。


 五分ほどで、在来線の駅に着いた。切符を購入して改札を抜けると、電車を待つ人がまばらに見えた。休日出勤のくたびれたサラリーマン、買い物に行くのであろう家族連れ、待ち合わせに向かう高校生くらいの少年。

 彼はふと、自分はどのように見えているのだろうかと考えた。意識を俯瞰させてあたりを見渡してみる。どこにでもいそうな男が、どこにでもありそうなくたびれたシャツとチノパンを身に着けて、光沢を遥か昔に失ってしまったような革靴を履いていた。行くあてのない放浪の旅にでも出かけるように見えるだろうか。だがあいにくと彼は今、手ぶらであったので、友人と食事に出かけるくらいがいいところなのだろう。なるほど、あながち間違いではないな、と思った。


 人がまばらなのは、在来線の中も同じだった。つり革が規則的に揺れているのを見ていると、この町の、特にこの季節の時間の流れはゆるやかで、心地いいものがあると感じられた。

 もちろん時間とは数少ない世界共通の単位であるから、ニューヨークもシドニーも、流れている時間は本質的に同じものでなければならない。ただあえて言うならば、流れている時間の持つ色が異なるのだろうと、彼は推測した。だがこの町に流れている時間が何色なのかと考えてみても、彼にはそれがさっぱりとわからなかった。そしてほどなくして、彼は完全に思考を止め、町の景観を眺めることに専念するのだった。


 車窓から見える限りある景色の中にも、季節の色は如実に表れていた。線路沿いに咲く草木や人々の服装も春を物語ってはいたが、彼は何よりも風の中にそれを感じることができた。列車全体を包みこむような穏やかで暖かい風の中に、彼は確かに過ぎ去った冬の重みを感じた。

 彼はふと、自分は夏になっても、秋になっても、こんな風に季節に思いを馳せるのだろうかと考えてみたが、そんな自分の姿をうまく想像することはできなかった。きっと春は、自分にとって何かしら重大な意味合いを持っているに違いない。ただ、それがどういった意味でのことなのか、何故春でなくてはならないのか、彼はうまく言葉にすることができなかった。まるで思考に薄く霧がかかって、森からぬけだせなくなった旅人のように。その霧は薄くはあったが、彼の視界を奪うには十分なものであった。


 目的の駅のホームに降り立つと、曖昧な既視感のような、だがそれよりも暖かみと懐かしみを多く含んだ空気が彼を包んだ。きっと彼女と対峙した時にもこんな感覚に陥るに違いない、と彼は予感した。そして彼女のことだ、それを敏感に感じ取って、桜色の頬を膨らませるに違いない。その想像は、彼に春の陽気に似たほのかな暖かみを与えてくれた。

 改札を抜けると彼は、毎年そうするように花屋に向かった。毎年そうする、といっても彼は去年のことを鮮明に記憶しているわけではないから、毎年そうしていたかもしれない、くらいが適切なのかもしれない。

 

 駅前の花屋には季節の花が多く並んでいた。カーネーション、紫苑、etc。どの色彩も人々の目を惹くには十分の華やかさを備えていたが、彼はそれらを一瞥して、何も見なかったような顔をしてからアネモネのもとへ向かった。紫のアネモネ。それは彼女が春の花の中で、ひょっとしたら四季の植物の中で、最も好む花であった。毎日記憶が音もなく消えていってしまう中で、あるいはそれは彼が記憶していたほぼ唯一の意味を持つことだったのかもしれない。


 彼女は昔から聡明な女性だった。彼が彼女の存在を初めて認知したのは高校生のときであったが、彼女は昔から人目を惹く容姿であるにも関わらず、他人と積極的にかかわることに興味がなさそうにしていたように思える。

 きっかけはよく憶えていないが(もとよりそんなものは無かったのかもしれない)、彼はよく彼女と言葉を交わした。好きな本や、好きな音楽について語りあった。といっても、彼が国文学を好んで読むのに対して彼女は専らアメリカやロシアの示唆性に富んだ小説を好み、彼がビル・エヴァンズをよく聴くのに対して彼女はバッハの平均律、特にBWV846からBWV869がお気に入りだと言っていた。それにも関わらず会話が尽きることを知らなかったのは、お互いがお互いの知識や趣向を積極的に尊重し、自らに取り入れようとしていたからに違いがなかった。

 彼も彼女もなまじ自分のテリトリーに通じている人間に一番腹を立てたし、それならお互いに知らない世界を見せ合えるほうが、よっぽど有益な関係といえるだろうと考えていた。

 そのうちに彼らはいつからともなく交際するようになっていたが、どちらかから交際を申し込むだとか、そういったファクターを踏まえることは無かった。必要なかった、と言うほうが適切なのかもしれない。彼らは多くの言葉を交わしたが、それは必要最低限のセンテンスのみで構成されていたのだった。


 駅から道なりに歩いていくと、やがて坂に差し掛かった。陽気な日差しも手伝ってか、歩いているとどうしても汗ばんでくる。しかし彼が身につけているのはあいにくとシャツ一枚なもので、最大の抵抗として、シャツの袖をめくってみせるくらいが関の山だった。

 坂を登りきるころには、太陽も空高くまで昇っていた。久方振りにそれなりの距離を歩いた彼の額には汗が浮かんでおり、浮かんではシャツで拭うというのを繰り返してはいたが、そのかいあって、彼女の待つ目的地に辿り着くことができた。


 そこは言うなればちょっとした自然公園のようになっており、丁寧に刈り取られた芝生と規則的に並ぶ建造物が印象的であった。

 やがて彼女の姿が見えてくると、彼は穏やかな笑みを浮かべるのだった。なんせ丸一年振りなのだ。たとえ彼の一年が似たような日々の反復に過ぎなかったとしても、話しておきたいことはたくさんある。

「はい、アネモネ。毎年同じで芸がないかもしれないけれど。」

 彼はそれをしゃがみ込んで墓前に添え、掌を合わせて一年に一度の彼女を感じた。そして彼は毎年の今日という日を繰り返しながら、自らが年老いていく姿を思い浮かべるのだった。未来の彼も例外なく手には紫色のアネモネを携えている。彼は幾度の春を巡って、彼女にもう一度会いに行くと誓ったのだ。紫色のアネモネの花言葉が『永遠の愛』であり続けるように。

 穏やかな風が彼の頬を撫でて、またどこかへ向かっていった。彼は立ち上がると、今年も春は完璧だと独り言ちるのだった。


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