外国の文化は正義であるか?
外国では当たり前などという言葉を受けたことがある。
日本は遅れていると続けて言われ、私は思わず言葉に詰まった。なるほどその通りだと屈服させられたのではなく、何を言っても理解を得ることができないと悟ったからだ。
日本の教育にグローバリゼーション(以下、地球規模化)が盛り込まれて十数年、日本はありとあらゆる文化を吸収してきた。様々な言語が和製として利用され、知らず知らずのうちに英語、フランス語、ロシア語などを会話に織り交ぜている。もはやカタカナ語を利用せずには会話できないほどに。
インターネットの普及が地球規模化を加速させたことには違いないが、国家間の交流という意味で見ればその歴史はかなり古い。シルクロードを通って行われた物品の売買も一種のそれと言っていいかもしれない。そして、もたらされた文化、特に中国のものに関しては、大いに日本の発展への影響を与えた。
そして現在、地球規模化が推し進められたことにより、かつて日本の文化と呼ばれたものは目に見えて減っている。古き良きとは言ったものの、今や日本文化は嗜好品に近いものとされ、高級品という扱いを受けつつも実用的ではないと淘汰されるものも少なくない。
伝統というものも今や継ぐ者が減りつつあり、守ろうとする者も老いていく。全ては田舎者のすることであると脇に追いやり、果てはダサいなどと卑下する始末である。
世界はなるほど甘美な未知にあふれ、我々を先の先へと誘うことだろう。文化を取り入れることを否定するわけではない。しかし、日本の文化を蔑ろにしてまで取り入れるべきものであろうか。
日本はアメリカと同じく世界の文化が入り乱れる国へと成ろうとしている。しかしアメリカとは異なり日本では何千年も積み重ねてきた歴史があり、それを価値観の変化に取り憑かれて無に帰そうとしている人がいることに、言いようもない哀愁の念を感じる。
当然、古いものが全て正しいというわけではない。その時代に合った、正しい物の見方をすべきだろう。しかし、だからといって外国のやり方を全て取り入れるというのも違うと言える。
それほど外国の文化が正しいと思えるなら、いっそのこと移住を考えて他人のことなど無視しておけばよい。日本の文化が違うというのであれば、アメリカ人でもイギリス人でもなればいい。
つまり何が言いたいのかといえば。
ここは日本だということを、忘れないでいるべきだ、というだけのことである。