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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の始まり
9/39

頑張りたくなる

 どれほどの時間が流れていたのか、霧香は知らない。憶人に聞いたり、腕時計を見たりすればすぐに分かることだが、それを確かめることは、今だけは無意味な行動だ。

 霧香は憶人が座る段までゆっくりと昇り、隣に腰を下ろした。

 それからは、長い沈黙が続いた。

 その沈黙を不安がる必要はないことを、憶人は察していた。幼い頃に似たようなことがあったのを覚えていたからだ。ただ、その時と今とでは、立場が逆になっている。自分が語り始めるまで、霧香に隣で待ってもらっていた。だからこそ、憶人も霧香の隣で待とうと決めていた。

 どれほど長く感じようとも。きっと大丈夫なのだと信じながら。




 まだ始業前の予鈴は鳴っていなかった。

「……ありがとう」

 ほんの少しの震えが混じった声。

「……当然のことだからな」

 照れを隠しきれていない声。

 互いを見ないまま、会話は続く。

「にしてもさぁ、『勝ったぞ、霧香』って……」

「やめてくれよ」

「かっこいいな~」

「だからやめろって」

 ささやきあいに似た、優しいやりとり。

 そして再び訪れる沈黙。

「……今日も頑張らないとね」

「……今日は守ってくれるよな?」

「なにを?」

「約束」

「あぁ……」

「でないと俺はお前を学校に置いておけない」

 声の大きさに依らない強さが、憶人の言葉にはあった。

「自分じゃ限界が分からないかもしれないよ?」

「じゃあ――――」

「あっ、でも同じクラスだから憶人が見てくれれば大丈夫なのかなぁ?」

 少し、間が空いた。それでも二人は互いを見ない。

「ん? 同じクラス?」

「そうだよ。あれ? 先に来たんだよね?」

「そうだけど、どういうことだ?」

「私、今日もまた新しく転校生になるんだよ」

 憶人が固まる。前を向いたままで。

「心配しないでいいよ。それはさっき乗り越えてやったからね」

 霧香は笑ってみせた。前を向いたままで。

「それより、これからなにをするかだよ」

「あ、ああ……」

 憶人の考えたがりの性分を、霧香は昔から知っている。

「訊いてもいい?」

 だからあえて遮ってみた。

「えっ? ああ、なんだ?」

「憶人は今どのくらい私のことを覚えているの?」

「……たぶん、昨日と変わらないくらいは」

「じゃあこれから先も覚えていてくれそうだね。確定はできないけど」

「忘れねえよ、絶対に」

 憶人はすかさずそう言った。

「そっか……そうだよね」

 憶人の言葉で、霧香はずっと見せないようにしていた気持ちをとうとう隠しきれなくなった。

「うれしいよ……」

 その気持ちを言葉にもした。言葉にすると、気持ちはさらに揺れ動いた。

 今日は見せないようにしたいと、霧香が思っていたもの。憶人はただその雰囲気を察して、隣に座る霧香のほうを見ないようにしていた。

「忘れないんじゃなくて、覚えていてくれるんだね……」

 それは、昨日で一度失われたものだ。それでも、霧香にとってはもう一度守りたいものだった。

「私、今までもちゃんと生きていたんだ……」

 大げさな言葉ではある。ただ、今の霧香にとって、その言葉の意味は途方もなく重い。言葉にしただけで、まるで身体が軽くなったように感じられるほどに。

 軽くなったことで、もはや抑えたいものを抑えることができなくなるほどに。

「やだなぁもう……うれしいんだってばぁ……」

 霧香にとっては“もうこっちを見ないようにしなくてもいい”という合図のつもりだった。だが、憶人は前を向き続けた。最初からそうしようと決めていたからだ。

「なんでかなぁもう……」

 笑いきれないことへのもどかしさは、かえって心地よいものになっていた。そんな感覚に変わるのは、憶人がいるからだった。

「頑張りたいなぁ……だってこんなにうれしいんだもん……」

「……だったら、俺はお前の頑張りを見ている。ちゃんと見て、覚えている」

 示し合わせたかのように、二人は互いをまっすぐに見た。

「約束ね」

「ああ」

 つらさに依るものではないからこその心地よさなのかもしれないと、霧香は思った。ただ、今の自分の顔を見られることの恥ずかしさは、心地よさに溶けずに残っていた。

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