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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の始まり
8/39

ただ振り返るだけ

 九月二日。水曜日。霧香はひとりで登校した。

 生徒玄関の靴箱を開けると、そこに上履きはなく、いつの間にか自分の手には上履きの入った袋があった。

 息が、止まった。

「今日もまた、ってことか……」

 昨日の自分さえこの世界には残っていないことを、霧香は察した。

 現実は霧香の想像よりも悪化している。それでも、まだ進めると霧香は思った。

「……よしっ」

 霧香は靴を履き替え、階段を昇り始めた。

 腕時計を確認すると時刻は六時五〇分だった。始業までかなり時間がある。それを狙って憶人が七時と決めたのは想像に難くなかった。

 ただ、七時きっかりに約束の階段へ着くには微妙な時間だった。霧香は先に教室に行ってみようと考え、三組の教室へ向かった。

 たまに早朝から勉強をしている生徒がいたりするのだが、今日はまだ誰もいない。もう自分の席は決まっているだろうと考え、霧香は教卓へ向かい、その上に置かれている座席表を見て――――

「……えっ?」

 そこに霧香の名前は無かった。

 書き忘れているだけだという可能性はあった。だが、霧香の脳裏には、たったひとつだけの推論が思い浮かんでいた。

 “自分は転校生ですらなくなってしまったのかもしれない”と。

「そんな……そんなわけっ……!」

 霧香は三組の教室を飛び出した。怯えるように左右を見やり、二組の教室へ走った。

 一心に教卓へ駆け寄る。座席表を見る。名前は――――

「無い……」

 再び教室を飛び出す。クラスは六つしかない。そのすべてに霧香の名前が無かったら、それは霧香が考えもしていなかった状況になっているかもしれないということだった。

 一組の教室へ走る。憶人、十夜、舞、沙那がいるクラス。

 二年のクラス発表の時に少し寂しさを感じたことを思い出す。幼なじみでひとりだけ別のクラスであることはこの上なくつらいことなのだと思っていた。だが、それでも少し足を伸ばせばほとんどいつでも会えた。それが憶人だけも同然となって、今はその憶人さえも霧香の幼なじみでいるかどうか定かではない。

 教室の中に入る。教卓にほとんどぶつかるようにして、霧香は座席表を見た。

 名前は――――

「……あっ」

 最後方の窓際のマスに、“洲本”と書いてあった。

「あった……」

 同じ学年で洲本という苗字の生徒は霧香だけだ。脚から力が抜ける。霧香は教卓に身体を預けた。

 安心すると、霧香は自分が極端に焦ってしまっていたのだと気づいた。転校生であるかどうかは、職員室へ行くほうが早く正確に確認できたはずだ。思考が狭く性急になってしまったことを思うと恥ずかしくなった。

 霧香はひとつ深呼吸をした。腕時計を確認すると六時五八分だった。

「……よしっ」

 霧香は新しい自分の席にカバンを置き、改めて約束の階段へ向かい始めた。




 三階建ての校舎。その中央にある階段だけが屋上へと続いている。屋上へ出る扉は常に閉ざされていて、普段は誰も三階から上へ伸びる階段に足を踏み入れることはない。

 二年生の教室がある二階から三年生の教室がある三階まではすんなりと昇ることができた。だが、そこから再び階段に足をかけた瞬間――――世界から音が消えた。

 周囲から聴こえてくるはずのあらゆる音が絶えていた。わずかにあった生徒たちの声も、自分の靴音も聴こえない。ただ自分の身体が立てる音だけが霧香の聴覚に存在していた。

 荒れそうで荒れない呼吸。いつもよりほんの少しだけ早い鼓動。そんな音ばかりがやけに大きく聴こえる。

 感覚が狭まることの恐ろしさは決して小さくない。それでも、霧香は一段ずつ昇った。

 世界はまだ足の裏から霧香を支えている。その感覚は、霧香がこの世界に確かに存在していることを証している。今はただ、世界のどこにいるのかが見えないだけだ。それを知ろうとしている今この時間が、霧香に懸命の戦士のような強さを与えている。

 抗い、焦らず、霧香はとうとう踊り場まで昇りきった。あとは振り返ればよかった。階段に憶人がいるのかどうかを、その目で確かめればよかった。

 ただそれだけのこと。極めて簡単なことのはずだった。


 身体が動かなくなっていることに気づくまでは。


 そこに感じた刹那の動揺が、保たれていた均衡を一気に崩した。

 呼吸がどんどん浅く、荒くなる。激しい鼓動が痛みを伴い始める。自分の身体が立てる異常な音が聴覚を征服してゆく。

 目前の壁から目が離せない。視覚を単調な灰色が侵食してゆく。抗う意志までもが、塗り潰され、圧し潰されてゆく。あとほんの少しという場所までたどり着いたというのに、ここで倒れてしまおうと諦めたがっている自分がいる。

 もうなにを源に抗えばよいのか分からなくなってしまおうとしている。それがなぜなのか、霧香は理解していた。

 過去が、未来が、どうしようもなく決まってしまうことが怖くなったのだ。

 想像の域を出てしまえば、もはやどこにも戻れなくなる。今やどこにも安息はないが、程度の差は確かに存在している。良化か、悪化か。不変はありえない。まさに賭けだ。

 勝負師になる覚悟。決して霧香に覚悟がないわけではなかった。種類が違うものばかりを、世界は求めていた。

 霧香は求められるものに応えつづけてきた。たとえ世界に求められようと、応えることができるはずだと信じていた。今もなお、そう信じようとしている。迷い人になろうとしているというのに。

 世界ごと潰されようとしても、応えようとしてしまう。一七年の歳月で霧香が至ったのは、そんな愚かで痛ましく、時にはその懸命な姿を美しいと感じさせてしまうような人間だった。




 聴覚が征服されてしまった瞬間、霧香は世界から音を捨てた。

 視覚が征服されてしまった瞬間、霧香は世界から変化を捨てた。

 時の流れ、記憶消失の法則、自分の座標、あらゆる事物を捨てた世界。冷徹な思考だけがかろうじて残り、同じ循環を描き続ける。

 抗えなくなった者に、時間は存在しなくなる。もはや自分自身の姿さえ思い描けなくなり、もう抗わないことだけを決めた霧香は――――ふと、思い出した。

 たったひとつのことだった。だが、その“たったひとつのこと”を思い出した瞬間、世界は一気に逆巻き、音を、彩りを取り戻し始めた。

 思い出したもの。それは願いだった。

 “知りたい”という、とても簡素な願いだった。

 なにかに抗うという意識が存在しない、ただ純粋な願いが、霧香を進ませる新たな力の源となった。

 呼吸音が、心音が、あるがままの大きさで世界に収まった。目前に踊り場の壁が現れ、そこに残る時代の痕跡や朝日の鈍い反射を視界に捉えてゆく。屋上へ続く階段の踊り場で立ち尽くしていることを認識した。

 そして、いま最も知りたいと願うことの答えが、自分の背後にあることを知っていた。

 身体は動く。当然のことだ。今なら分かる。

 霧香はくるりと振り返った。視界が上へ続く階段を捉える。

 所々で切れている、焦茶色の滑り止めのゴム。くすんだ緑色の階段。まばらに積もる埃。

 そして――――


「勝ったぞ、霧香」


 階段の中ほどに、憶人は座っていた。

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