崩壊を賭ける
校門を通り抜け、高校が完全に見えなくなるまで遠ざかっても、憶人はなにも言わずに霧香の腕をぐいぐい引いて歩き続けた。
「憶人?」
「……」
「ねえ」
「……」
「憶人っ!」
霧香が憶人の手を振りほどく。だが、憶人はまるでなにかから逃げようとしているかのように、まばたきひとつせずに霧香の腕を再び掴んで歩き始めた。
「まっ、ちょっと、待ってってば!」
「……」
もはや振りほどくことさえ叶わないほどにきつく握られた腕。
「憶人っ! ねえ! なんで!? なにが――――」
その瞬間、憶人が急に方向を変えた。
「わっ!?」
霧香の足がよろめく。肩が強く引っ張られて、痛みが走った。
曲がった先は公園だった。憶人はベンチへまっすぐに向かい、霧香を無理矢理に座らせ、そこでようやく霧香の腕を放した。霧香の白い腕には赤い痕が残った。
「いったいどうしたの?」
その痕をさすりながら、霧香が憶人を見上げる。
「……やっぱりか」
「『やっぱり』? どういうこと?」
憶人は息を呑んだ。荒れようとする思考を懸命に静めなければならなかった。ここからは最適解だけを続けてゆかなければならないと察していた。
「霧香、やっぱりダメだ。お前はこれ以上……いや、もう今の時点でもやりすぎだ。お前にはもう無理なんだ」
霧香の眉が下がる。
「……えっと、冗談で言ってるんじゃない、よね?」
「当たり前だ」
本当は怒鳴りたかったが、憶人はこらえた。自分の行動や選択が正しいのか分からないまま進むしかなかった。
「だってお前、自分が限界なんだってこと、自分で分かってないだろ」
そう言われてキッと眉を寄せる霧香。その仕草からさえも、憶人は霧香の異様さを感じ取っていた。
「……怒るよ?」
「怒ろうが事実だ」
「冗談だとしても許さないよ?」
「本気で言って――――」
「バカなこと言わないでよッ!!」
幼い頃以来の怒声が、明度をゆるやかに落とし始めた薄雲りの空を貫くかのように、荒く、鋭く放たれた。
「私、今日どれだけ頑張ったと思う? どれだけ我慢して、考えて、みんなと話をしたと思う? ねえ!」
霧香の鋭い眼差し。だが、憶人は怯まない。
「だからこそだろ。お前はもうとっくに逃げなきゃいけねえんだ」
「逃げたら終わっちゃうじゃない! まだなんにも分かってないのに……ずっとこれからだって……もう二度と……」
霧香の言葉が震えに侵食されてゆく。再び現れ始めた霧香の無様さは、得体の知れない幻聴とともに、憶人にとっての導きになっていた。
「じゃあお前にとっての“自分の限界”は、今どこにあるんだ?」
「……そんなの考えたくない」
「考えないなら分からな――――」
「だってそこに来たらもう絶対に耐えられなくなるじゃない!」
思わず言葉が失せた憶人。霧香は止まらない。
「本当はもっといけるかもしれないのに! あとほんの少し我慢したら終わるところにいるかもしれない。そんなところでやめたら……」
まるでわがままを言う幼い子供のようでも、霧香の言葉は普段の憶人の考えによく似ていた。もし同じ状況下にあったら、憶人も同じことを言ったかもしれなかった。
だが――――
「それでお前が折れたらどうするんだよ……」
ほんの一瞬の、怯み。
「私、絶対に折れないよ。今だって――――」
「分かってねえよお前は!」
憶人が霧香を相手に声を荒げるのも、幼い頃以来だった。
「自分のことなのに! お前をいちばん大事にできるのはお前なんじゃないのか? なあ!?」
「大事にしたら終わってくれるの? 違うじゃない!」
「……」
その沈黙は敗北ではなかった。
「ほら、私は間違ってな――――」
「聴こえたんだよ……」
「えっ?」
「お前がもうすぐ壊れてしまうみたいな、すげえ嫌な音がさ……」
今がまさにその時なのだと、見えざる意識が憶人にそう告げていた。
「どう見てもいつもどおりなのに、そうじゃないって言ってきたみたいだったんだよ」
「そんなの幻聴――――」
「ああそうだよ。でもきっとそうじゃないだろ?」
「……さっきからそんなことを根拠にあれこれ言っていたの?」
呆れきった霧香の声。
「ああ」
それでも憶人は否定しなかった。
「じゃあ、もうおしまいだね。私はひとりぼっちと変わらないよ」
今この瞬間が不可逆時点なのだと、憶人は悟った。
ためらいはあった。それでも――――
「でも、今のお前はこの状況をひとりで生き抜く想像なんてできないだろ?」
「そんなわけっ……あれ……?」
どこかを壊さなければ、本当に守りたいものを守り通せない。憶人はそんな覚悟を持っていた。
そしてそれは、霧香の覚悟とは違うものだった。
「できっ……えあっ……あ……」
「……これがお前の現実なんだよ」
霧香の中でもどかしさが極まってゆく。
「ちがっ……あっ……ああっ……」
表情が変わらないまま、にじみ出る涙。どこを守ることができるのかを、身体だけはきちんと理解していた。
「だってわたっ……私……まだ……っ!」
あとは待たなければならなかった。
「いや……えと……あれ……?」
どこを崩せばよいのかを、霧香の身体は理解していた。
「でも……やっ……あぁ……うあっ……ああああぁぁぁぁ……」
その理解どおりに崩れる霧香を見て、憶人はようやく自分が間違わずにやり遂げたことを察した。幻聴はいよいよ、軋みから崩壊へと変わり始めた。それは、ひどく虚しい成果だった。
「なんっ……ひうっ……なんでぇ……私……」
涙を拭えもしない。
「強かろうが折れる。今がそういう状況だってことだ」
「だって……私がっ……私が明日もがんっ……頑張れるかどうか……」
拭ってもすぐに涙にまみれてしまう。
「頑張れなくてもいい」
「もし……もし覚えているのが今日だけだったら……?」
「そん――――」
その瞬間、憶人は自分の勘違いに気づいた。
「霧香お前、俺が明日になったらお前のことを忘れてしまうんじゃないかって思って……」
「だってそうかもしれないでしょ……?」
そのとおりであるという事実に、憶人は衝撃を受けた。
“今日だけじゃないかもしれない。明日も転校生かもしれないもんね”
そう霧香が口に出して言ったことによって、“自分が他の人たちと同じように霧香のことを忘れてしまうかもしれない”という可能性が、いつの間にか思考の片隅に追いやられてしまっていた。
光を、希望を失うことを恐れる。それは人間として自然なことでありながら、もしかすると忘れがちなことなのかもしれない。だが、今この状況において、それは決して忘れてはならないことだったはずで、それをきちんと考えられなかった自分の失態を、憶人はこの上なく苦々しく思った。
「今だけかもしれないんだよ……本当に……今だけしか頑張れなくなるかも……しれないんだよ……」
ここで慌ててしまえばなにひとつ残らずにすべてが崩れ去る。その予感が、憶人の意識を極限に至らせる。
ただ、守れるものだけを見据えて、憶人は言葉にする。
「お前は頑張った。今日、お前は頑張ったんだ」
「そうだよ……私は頑張ったんだよ! 頑張って……それで……なんにも……」
「じゃあ、今度は俺が頑張る番だ」
見開かれた霧香の目に、小さくも眩しい光が映りこんでいるのが見える。
「憶人がなにを頑張るっていうの?」
憶人は最後の覚悟を決めた。
“失敗した時の責任を自分は負えない”
そんな無様で残酷な真実から目を逸らさないという、自身を汚す覚悟を。
「俺は、絶対にお前のことを忘れない。絶対に。なにがあっても」
その誓いは、あるいは自己満足なのかもしれない。そうでなくとも、無責任で、いわば妄言に近いだろう。
だが、そういう要素を今の憶人は否定しない。
「そんなの……どうやって信じたらいいの? 誰もどうしてこんな状況になっているのかまるで分かってないのに?」
空の紅みが鮮やかさを極める。太陽がその光を最後まで地上に焼き付けようとするかのように。
「だから、俺はそれを解き明かす」
「憶人になにができるのかも分からないんだよ?」
「なにもできなかったら、今までずっと生きてきたお前は死ぬんだ」
その言葉の鋭さは、放つ憶人よりも、刺される霧香のほうにより深い傷を負わせる。そのことを、憶人は理解していた。理解していながら、言葉にした。
「そんなことになってたまるか。俺はお前が置かれたこの状況に対してなにをしたって死んだりはしないんだ。だったら自分を賭けるのはお前じゃなくて俺でいい」
「自分を……賭ける?」
「俺にできることがあると分かったら、俺は迷いなくやる。俺の負う傷とかは考えない」
「そんなの――――」
「お前が本当に折れ尽くしたら、それが今までのお前の死になる。俺が多少折れても、今までのお前は死なないんだ」
憶人の氷のような覚悟が霧香の目をさらに見開かせる。
「なあ霧香……賭けをしよう」
「賭け?」
「遊びじゃない、真剣な賭けだ」
まだ暑さの衰えない季節。だが、憶人の恐ろしいまでの冷静さに、霧香は寒気を感じた。
「俺は明日も絶対にお前のことを覚えている。俺はそれに全部賭ける。勝つためならなんだってする」
言っていることはとても理性的とは言い難い。それでも、霧香にはそれがなぜかやけに確からしいように思えてしまった。
「そうだな……今日行ったあの屋上への階段のところにするか。明日の朝になったらあそこへ来てくれ。そこに俺がいたら、この賭けは俺の勝ちだ」
「……いなかったら?」
否定が弱くなっていた。
「いる。絶対に待っていてやる。お前が来なくても、早く来ても、待っていてやる」
霧香が顔を伏せる。憶人の緊張が限界に達しようとしている。
「……ひとついい?」
「なんだ?」
「さすがに『早く来ても』って言っても限度があるよね?」
「……そうだな」
それは確かに失敗だった。だが、意図していなくとも、それはある意味で正解だった。
「ふふっ……」
霧香の張り詰めていた雰囲気がふっと和らいだ。涙にまみれ、目元が赤く腫れていても、その微笑みはどこまでも美しく、いつまでもそのままでいてほしいと思えるものだった。そんな感覚があることに気づいて初めて、憶人はようやく緊張をいくらか解くことができた。
空はもう暗くなるばかりだったが、まるではるか遠くからでも見える新星のように、霧香の中で輝き始めたものがあった。憶人はそのまだ淡い輝きを感じていた。霧香もまた、自分の中から湧き上がる不思議な力を感じていた。
「……七時だ。七時きっかりに来てくれ」
「なんだか微妙だね七時って」
「そうか? ちょうどいいだろ?」
この状況になる以前と同じ、するすると流れるような掛け合い。ただ、いつもはこれほどまでに美しい微笑みで終えることはなかった。
「明日が怖くて、待ち遠しくて、たくさん思うことがありすぎて逆に分からなくなって……」
無数の傷を負い、いくつもの支えを折りながら、最後に残ったもの。それこそが、最も強く、同時に最も弱く、そして今は守りとおすことができた、本当の霧香だった。
「でも、また明日だね」
「ああ、また明日だ」
九月一日。朱い陽光がわずかに残る空。帰路の途中にある公園のベンチ。
霧香と憶人は、自分たちの明日を賭けた。




