及ばない領域
霧香にとって、そして憶人にとっても、それからの数時間は途方もなく長いものになった。
授業中になにを考えていればいいのかということさえも、憶人にはもはや分からなくなってしまっていた。とりあえず授業内容に思考を向けようとし、やがてなにも考えなくなり、ふと自分の放心に気づいて、またなにかを考え始める。そんなふうにして巡りながら散らかってゆく思考。それを整理する術を、憶人は持っていなかった。
授業間のわずかな休憩時間は、自分の席に座ったまま、教室のドアを注視し続けた。誰かが入ってくる度に緊張が走った。霧香ではないことが分かると気を静めようとしたが、すぐには静まらなかった。
「憶人あれどうしたんだ?」
憶人からやや離れた席に、十夜と舞、沙那が集まる。
「なんかねぇ、一組の転校生にいきなり抱きつかれたらしいよ」
「マジかよそれ!?」
自分の立てた椅子の音に十夜がビクッと飛び上がる。
「じゃあ……色惚け……?」
意外そうな沙那。
「には見えないのよね……」
「じゃあなんだってあんな不景気っつうか深刻な顔になってんだよ?」
「さあ……?」
不穏さを感じながらも、三人はかける言葉に困っていた。
三組の教室まで行こうとはどうしても思えなかった。それは怯えではないと、憶人は自分に言い聞かせた。もし霧香が現れたら必ず支えるのだと、支えてもらいたいと思えるほどの確かさを持ち続けなければならないのだと、何度も言い聞かせた。それはまるで祈りのようだった。
霧香と憶人をそれぞれに引きずりながら、時間が過ぎてゆく。
待ち続けた終業のチャイムが鳴った。それと同時に、憶人はすでに荷物を詰め終えていたカバンを引っ掴み、霧香が待っているはずの教室へ駆け出した。一歩たりとも力を抜かなかった。わずか数十メートルでも、全力だった。
ドアに危うくぶつかりそうになりながら、憶人は三組の教室の中へ飛び入った。
「おわっ!? って芦屋じゃねえか、危ねえなぁ」
ドアのそばに立っていた男子生徒が声をかけたが、憶人は構いもしなかった。
そして、他の生徒たちを次々に躱しながら、何人かの同級生に囲まれて帰り支度をしている霧香を見つけた。
「きり――――」
その瞬間、憶人は幻聴を耳にした。ひどく甲高い、軋みのような幻聴を。
「っ……!」
それが幻聴だということは分かっていた。だが同時に、幻ではないと思った。霧香がそれを響かせているのだと、憶人は確信していた。
「霧香!」
まだ多くの生徒が残る教室で、憶人は叫んだ。一斉に視線が集まる。
「憶人? どうしたの?」
霧香はいつものようにふんわりと返事をした。
「『どうした?』じゃない。帰るぞ」
憶人は猛然と霧香の席まで歩み寄った。
「ちょっと待ってて。まだお話の途中だから」
霧香はいつものようにみんなのことを考えていた。
「ダメだ、帰るぞ」
憶人は霧香の腕とカバンを強引に掴んだ。
「えっ、ちょっと!?」
「ちょっとなにやってんの芦屋くん。洲本さん嫌がって――――」
その瞬間、振り切れてしまった。
「黙れ!」
憶人を止めようとした女子生徒が怯む。憶人の目は、開ききっていた。
「お前たちがいるから……お前たちが!」
自身の叫びがもたらす静寂。憶人はややあってそれに気づき、一瞬怯んだ。
「……っ!」
だが、止まってはならないと思い直した。
憶人は霧香の異変を過酷なまでにはっきりと感じ取ってしまっていた。それは、決して目には見えず、憶人にだけ感じられ、そして霧香自身には感じることができない場所で起こっていた。
憶人は霧香の手を引いて教室を後にした。もう誰もなにも言えなかった。見ることさえ、まるで避けるべきもののように思われていた。
霧香の机の中には、なにも残されていなかった。