不明を進め
ゆっくりと、波が減退してゆくように、霧香の涙は静まっていった。
いつまでも泣いているわけにはいかなかった。なにも終わってはいないのだから。
「……どういうことなんだろうね」
十分に静まってから、霧香は話を始めた。
「どういうこと、か……」
憶人が霧香の肩からそっと手を離す。霧香はポケットからハンカチを取り出し、憶人の制服の肩を拭き、それから自分の目元の涙を拭いた。
「なんというか、仕組みのようなものはまるで分からないよな」
「夢だったらいいのに……」
「これだけ泣ける夢は、まあ無いんだろうな」
霧香は抱えた自分の膝の上に顔を乗せた。
「人間だけだったらなにかの病気とか洗脳とか……まあそれだってどこのパニック小説だって話だけど、そういう可能性だってありえたのに、記録まで変えられているんだもんね。わけが分からないよ」
憶人が少し思案する。
「……仕組みはこの際考えなくてもいいんじゃないか?」
「えっ!?」
「答えは今の時点じゃ出しようがないだろ?」
「あ、いや、そうだけど……」
その答えが無ければこの状況を終わらせる手段が分からないままになるということを、二人ともが理解していた。
「いま分かっているのは、おそらく俺以外は『霧香に関する記憶と記録を改変されていること』、この状況は『今朝から起きていること』、霧香はいま、『転校生ということになっていて、誰も今までの霧香のことを覚えていないこと』だな?」
「……なにか被ってなかった?」
「あれ? そうか?」
「でもまあ、そんな感じだね」
憶人は霧香から視線を外し、しばらく思案したあと、沈痛な表情に変わった。
「判断材料が……必要だな」
霧香の表情が曇る。憶人の言葉が意味するのは――――
「“転校生”をやらなくちゃいけないんだね」
「……そういうことになる」
「そっか……」
憶人は霧香のほうを向くことができなかった。
「そうしないと、なにも分からないしね……」
「……こんなのは早く終わらせるほうがいいに決まっている。だから――――」
「分かった。私、頑張るよ」
憶人の後ろめたさを吹き飛ばすように、霧香は力強く言った。
「今日だけじゃないかもしれない。明日も転校生かもしれないもんね」
憶人が言うのをためらっていたことを、霧香は自分から言葉にしてゆく。
「私にできることをするよ。もしかしたらもっとたくさんできることがあるかもしれない。やってみたら分かることもあるだろうし、そういうことを考えながら、とりあえず放課後まで、ね?」
霧香の強さを今でも信じそうになっている自分を、憶人は苦々しく思った。
「……絶対に限界までやるな。その前に俺のところまで来ればいいから。放課後になる前でもいい。どうなるにせよ、放課後になったらすぐに迎えに行く。三組だったよな?」
「うん」
「知っているとは思うけど、俺は一組にいるから、もしそうなった時は絶対にためらうなよ? いいか?」
「うん、分かった」
霧香の素直さが途方もない圧力となって憶人を襲う。“その時”が来たら迷いなく自分を頼ってほしいという願いが、まるで“その時”が訪れてほしいという願いであるかのように思えてしまう。それが真実ではないと理解はしていても、理由のないその罪悪感は消えなかった。
「よし。じゃあ……」
そんな思考を振り払おうとするかのように、憶人は立ち上がろうとした。だが、それよりも早く、霧香が立ち上がった。
「霧香?」
思わず上げた視線。その先で、霧香は覚悟を決めていた。
「じゃあ憶人、放課後にね!」
そう朗らかに言った霧香の雰囲気は、いたずらっぽくおどけて見せるときのものだった。
「よいしょっ!」
霧香は憶人を置き去りにして、階下へと走り降りていった。その靴音が消えた瞬間、憶人は拳をきつく握り締めた。不甲斐なさとやるせなさが全身にねたついていた。