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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧の始まり
4/39

数ならぬつり合い

 放課後になり、霧香と憶人は帰り道にある小さな公園へやって来た。

「もうあれから一週間も経ったのかぁ……」

 霧香がベンチに座りながら呟く。憶人は座らなかったが、カバンを霧香の隣に置いた。

「今日は昨日より大人しかったな。今日のほうが霧香らしかった」

「まあ、どんな“私”が記憶に残ってくれるか分からないでしょ? たくさん試さないとね」

 俯いたままの霧香。

 憶人は空を仰いだ。まばらな雲のくすんだ白、夕焼けの強く鮮やかな橙色、夜の気配を漂わせる群青。そんな色たちが、境界も曖昧に重なりあっている。

「……今までと違う自分になるのって、楽しくないのか?」

 ふと口にしてしまった尋ねごと。

「あっ、いや――――」

 冷える背筋。とっさに霧香のほうへ振り向くと――――

「それは確かに楽しいよ。でもやっぱりちょっと疲れちゃうね」

 霧香は困り笑いで憶人のほうを向いていた。




 九月一日。火曜日。二学期最初の日。

 霧香はひとりで登校し、生徒玄関で靴を履き替えようと靴箱の扉を開けた。

「あれ?」

 霧香の靴箱には上履きが入っていなかった。

「あっ、持ってきてたんだ」

 霧香は上履きを入れた袋を持っていた。だが、身に覚えがなかった。学年が変わるわけでもないのに、夏休みでも部活でも頻繁に使う上履きを持ち帰った理由や、そもそもいつ自分が上履き袋を持ち出したのかを思い出せなかった。

 不思議に思いながらも、霧香は靴を履き替えて靴箱の扉を閉め、教室へと向かった。それなりの生徒が登校していたが、なかなか知り合いに会わず、教室に着くまで誰にも話しかけられることはなかった。

「おはよう」

「おは……?」

 いつものように教室に入ると同時に近くのクラスメイトへあいさつをしたが、相手は返事の途中で固まった。霧香は不思議に思ったが、特に言及するでもなくそのまま自分の席へと向かった。

「あれ?」

 だが、そこにはすでに誰かのカバンが掛けられていた。

「ここじゃなかったっけ……」

 教卓の座席表を確認すると、霧香の席は最後方の窓際へ移っていた。今まで一度もなったことがないはずの席だ。

(なんで一番いい席なのに忘れていたんだろ……?)

 霧香は席にカバンを置いて椅子に座り、そこでようやくはっきりと異変に気づいた。

 一学期でもすでにかなりの視線を集める少女だった霧香だが、今は向けられる視線が異様に多くなっている。しかも、それらにはいくらかの好奇と、不審の気配があった。

(なに……?)

 そのような扱いを受ける理由を考えつかないでいると、霧香の耳に潜め声が届いた。

「転校生かな……」

 とっさに振り向くと、寸前で視線を逸らされた。その反応は、先ほどの言葉が明らかに霧香に向けたられたものだったということを示していた。

(転校生? 私が?)

 その時、担任が教室へ入ってきた。混乱のままに、霧香は思い切ってこの仕打ちを相談しようと考えて立ち上がった。

 だが、霧香の姿を視認した担任はすかさず言った。

「あっ、おい! まだ紹介してないのに先に教室へ行くなよお前」

「……えっ?」

 理解がまるで及ばなくなった。

「てかまず最初に職員室へ来いよ。そんくらい考えたら分かるだろ」

「えっ、はぁ……いや、あれ?」

 混乱がそのまま言葉を羅列する。

「とりあえず職員室だ。場所は……転校生だし分からないよな?」

「えっ、いや……」

「ほら行くぞ」

 呆然。気づいた時には担任が廊下に消え、霧香は無数の視線に刺し貫かれていた。




 職員室で“すでに知っていること”を延々と説明されている間も、クラスに戻って改めて転校生として紹介された時も、二学期の始業式で新入りの場所である最後尾に並ばされた時も、霧香はただひたすらに現状を理解しようと試みた。

 初めはいじめを疑ったが、それはすぐに否定した。ここまで完璧に成立するいじめは存在しないからだ。誰に尋ねても霧香は“転校生”で、果ては記録の上でもそういうことになっていた。学校組織をまるごと敵にまわすほどのことをした覚えもなく、やはりいじめの線はありえないと結論づけた。

 そんなふうにして理を詰めるほど、現状が意味不明なものに変わりゆくように思えた。頼りにできる人も、物も、法則も消え去ってしまった世界。今の自分はこの世界にとって何者なのか。今までの自分は世界のどこにあるのか。なにが確かなのか。考えるにはなにもかもが足りなかった。

 転校生は否応なく注目の的になる。ついこの前まで慣れ親しんでいた人たちが“新しい人”として自分に接してくることの不気味さ。ただ自分だけが奇妙に思っていることが、霧香には途方もなく気持ち悪かった。その気持ち悪さから逃げ出す方法を、霧香は知らなかった。

 昼休みになる頃には、まるでなにもかもが敵のように見え始めていた。

 今までの自分は殺されたのだと思った。今ここにいる自分も殺されようとしているのだと思った。いつすべてを殺されてしまうのか、そもそも殺されてしまうのかどうかさえも知ることができないまま、一瞬たりとも平和ではない時間が過ぎてゆく。隠れることも、逃げることもできなかった。

 そんな時に、“変わっていないもの”が霧香の前に現れた。




「なあ霧香、どういうわけかみんながお前を『初めて見るやつだ』とか言ってるんだけど、なにかやらかしたのか?」

 教室に入ってきて少し潜めがちな声で霧香に話しかけたのは、幼なじみのひとりである芦屋憶人だった。

 霧香はそんな“いつもと変わらない”憶人の姿を目にした瞬間――――その胸元へ飛び込んだ。

「えっ、おい霧香!?」

 霧香の突然の行動に虚を衝かれたのはつかの間だった。憶人はすぐに霧香の異常を察した。

「霧香、とりあえず移動するぞ」

 憶人が霧香に耳打ちし、肩を抱いて教室を出た。その様子を、クラスメイトたちは好奇の極まった目で見ていた。




 霧香の歩幅に合わせつつ、憶人はできる限りの速さで歩いた。向かったのは、屋上へ続く階段。踊り場を過ぎて少し昇ったところで、ようやく二人は立ち止まった。

 憶人は霧香を階段に座らせ、その左隣に座った。霧香は膝に顔をうずめた。

「なにがあった?」

 憶人は動揺を殺して端的に訊いた。だが、霧香は答えなかった。

 それからは、長く痛い沈黙が続いた。時折、霧香が洟をすする音がして、沈黙が終わるかと何度も思わせたが、すぐにまた沈黙がやってきた。

 それでも、憶人は待った。なにがあったのかを知らなければ、なにもできない。ただ、なにか良くないことが起きているのは確かで、ならば憶人はそんな霧香を見捨てたりはできない。助けになろうと思うには十分すぎるほどの時間と記憶が、これまでの二人の間にはあった。

 唐突に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。スピーカーの真下にいた霧香が驚いて小さく跳ねる。そして、残響が消えると同時に、霧香は大きく息をはき、短く息を吸って、はっきりと沈黙を破った。

「覚えてる……よね……?」

 それは、あまりに端的すぎた。

「なにをだ?」

「私のこと」

 霧香がわずかに顔を上げる。その横顔は、どこまでも張り詰めていた。

「……まあ長い付き合いだしな」

 言葉ほど楽観はしていなかった。

「そう……憶人は……」

 ほんのわずかだけだが、霧香の顔が和らいだ。

「でも、十夜も、舞も、沙那も、他の誰に訊いても、お前のこと『知らない』って……」

 再び張り詰めた霧香の表情に、憶人も緊張が極まった。

「それが……『あったこと』だよ」

 霧香が憶人を見上げる。

「ねえ憶人……本当に覚えてくれてる? 本当に……本当にっ……」

 続けようとした言葉は、抑えようもなく溢れる涙に堰かれた。まもなく漏れ出た声は、もはや言葉ではなくなっていた。安堵と落胆が混ざりあい、ほんの少しだが絶望もあった。

 こんな状況になっていることに気づいてから、たった数時間しか経っていなかった。だからといって、その時間の中で感じた不安も、焦りも、不可解さも、気味の悪さも、なにひとつとして軽くはなかった。憶人が現れるまで、果てがまったく見えなかった。まるで霧中にひとりだけで取り残され、なんのしるべもなくさまよい続けているかのようだった。

 だから、霧香は泣いた。きっとすべては流れてくれないと知りながら、それでもなお。まだあの不可解さとこれから対峙しなければならないのだと分かっていながら、それでもなお。

 もしこの状況に置かれたのが霧香ではなかったなら、その行為も感情も拒まなくてよかった。嫌わなくてよかった。だが、霧香だったからこそ、それは拒み、嫌わなければならないことだった。そうしなければ、このたった数時間で崩れるものがあまりにも多すぎて、もう取り返しがつかなくなるということを知っていたからだ。

 自分がどんなに不安でも、寂しくても、悲しくても、怖くても、それだけは越えたくない境界線としてずっと持ち続けていた。自分がいつまでも、誰にとっても“完璧”であり続けるために。

 だが――――

「はっ……」

 憶人の手が、腕が、肩が、霧香の数時間に力を与えてしまった。

「大丈夫だ。俺は覚えているから。ちゃんと今も」

 その距離は、境界線を越えていた。

 霧香はどうしたって人間だった。慣れ親しんだ世界が突然牙を剥き、襲いかかる。その残酷さの前では、どんな理屈も決心も、平和を求めた自己犠牲も、すべてが折れ、力を失ってしまった。

 そして、苦しみが喜びへと変わることの快楽を、霧香は知ってしまった。かつて、人はそれを堕落と名付けた。それは、霧香が今までずっと拒んできたものだった。

 霧香は、憶人が霧香を受け止め、与えるのも、与えさせるのも拒んできた類の優しさをくれている今を、光だと思った。今や残酷に見えてしまうようになった世界を、願望と希望とで照らし明かす光のようだと。

 耐えきれずに流す涙は、きっと完璧さとは対極のものだろうと霧香は思った。だが、それを受け止めているのが憶人であるということが、霧香にはたまらなくうれしかった。

 だからこそ、決めることができた。憶人との距離がどれだけ近づくことになろうと、逆に遠ざかることになろうと、憶人のもとへ倒れ込もうと。ずっと願いながら遠ざけ続けていた願いを、今この瞬間に叶えてもらおうと。

 初めて自分の弱さを晒すことになる。だが、それでもいいと思えた。巻き込んで、振り回して、助けてもらう。霧香はもはやそうすることに怖さも恥ずかしさも感じていない。今の霧香にとっては、それだけが光なのだから。

「憶人……私を助けてね。支えてね。お願い……」

「……ああ、必ず」

 倒れ込んでも受け止めてくれるのは、もうすでに知っていることだった。

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