消える後悔
九月九日。
憶人は登校した。
「よう憶人……っておいなんだ!?」
憶人は十夜の腕を掴んで引き連れようとした。
「おい憶人?」
そのまま教室を出る。ちょうどその時、登校してきた沙那に遭遇した。
「おはよ……」
憶人は沙那の腕も掴んだ。
「憶人おい、憶人?」
「憶人……?」
困惑する二人を引き連れ、憶人は一心にとある場所へと向かっていった。
屋上へと続く階段。そこで憶人はようやく二人の腕を放した。
二人はすでにいくらかの緊張を察していた。憶人がなにかふざけてこのようなことをしたのではないということは理解していた。
「で、なにか話でもあるのか?」
十夜はいつもより柔らかめに訊いた。
「話……そうだな、話をしなきゃいけねえんだよな」
憶人の混乱は、二人から見て明らかだった。
「落ち着いて……ちゃんと聞くから……」
沙那が背伸びをして憶人の肩に手をかけ、階段に座らせる。その両側に十夜と沙那は座った。
「なにから話せばいいんだ……」
「いや、俺たちに訊かれても困るぞ。頑張れよ小説家志望」
いつになく優しい十夜。
「いつもやってるでしょ……地の文と同じだよ……」
いつもより優しい沙那。
「……じゃあ、時系列に沿ってだな」
憶人がすべてを語るのに、これほど整えられた状況はなかった。
「……」
「……」
「……」
憶人はすべてをきちんと整えながら語った。そして、今朝のことまで語り終えると、三人ともが無言になった。
こういう状況になると、最初に口を開く人は決まっていた。
「……なんつうか、信じていいのか正直分からねえわ。授業三時間分費やして、壮大な冗談を聞かされたんんじゃねえかって、そんなふうにも思えちまうっていうのが本音だわ」
十夜は壁に頭をもたれさせながら言った。
「嘘じゃないっていうのは……分かるよ……分かるけど……信じるには……ちょっと……」
沙那は戸惑いを隠さなかった。
「あのさぁ、すっげえ冷てえこと言うけどよ、もし憶人の話が本当だとして、いま舞と霧香を二人きりにするのって危なくねえのか?」
「確かに……」
沙那が十夜の意見に同意する。
「霧香は信じてた。だから俺も信じた。もう霧香自身の責任だ」
「う~ん……」
十夜が唸る。
「すっげえ扱いづらいっつうか、受け止めづらい話だよなまったく……」
「そうだね……でも……わたしたちも……無関係じゃない……」
ただでさえ途方もなく深くて濃い一週間だった。それを数時間の、しかもたった一人分の主観でなされた説明で、すぐに受け止め、理解し、納得しろというのは、どうにも無理な話だということを、憶人は分かっていた。
「できれば今日で信じきってくれ。十夜と沙那が俺を正気だと信じてくれてるんなら」
「まあ……そっちはなんとかなるんじゃねえの?」
いくらか楽観的な声音になった。
「そうだね……でも……」
「問題はそこじゃねえだろ?」
今度は憶人が戸惑う番だった。
「だからな、じゃあいざ俺たちがようやっと全部信じられて、その後はどうするんだって、そっちのほうが難しい問題になるだろ?」
「そうか……そうだな……いやそうか?」
「そうだよ……」
沙那の断定は語尾の消え入りに釣り合わない強さがあった。
「さてと、そんじゃまあ、今後の俺たちにできることを話し合うとしますかぁ!」
十夜はそう言って立ち上がった。
「お前らのカバンも持って行くから、先に玄関まで降りててくれ」
「えっ?」
「だから早退すんだよ」
十夜はもう一瞬も惜しそうだった。
「分かった……任せたよ……」
沙那が親指を立てる。
「いや、いいのか?」
「いいもなにも、お前もう俺らを三時間分欠席させてるだろ。つうわけで下でな!」
十夜は階段を駆け降りていった。
「……十夜ってやっぱりすげえよな」
「怒られ役……引き受けたね……」
その気配りに憶人と沙那が気づいていないだろうと、十夜は考えているに違いない。そう二人は思っていた。実際、そのとおりだった。
三人は自宅ではなく、その反対方向にある河川敷に向かった。道中で昼食を買い、河川敷に着くと、橋の下にある古びたコンクリートの階段に、先ほどと同じように座った。
「考えてりゃあ、信じられるのも早くなるだろ、多分」
十夜がサンドイッチを頬張る。
「そういうことか」
憶人はおにぎりの包装を解いた。
「うん……そういうこと……」
沙那はほぐし水を蕎麦にまわしがけした。
「まあ……とりあえずご飯……食べてから……」
「そだな」
まるでピクニックのようだと考えた者がいた。
会話の絶える昼食が終わるなり、議論が始まった。
状況の推移をもう一度さらい、なにを思ったかをそれぞれに打ち明けあう。それぞれに今後の振る舞いなどをどうしようと考えたのかを話し、意見を出しあった。
いつになく真面目な十夜。いつもより少しだけ話すのを速める沙那。憶人は二人のことをこのうえなく頼もしいと感じていた。最初からこんなふうに打ち明け、話し合っていればよかったのだと、改めて気づかされた。
「ちょっ、なんだよ憶人!?」
唐突に十夜が驚きの声をあげる。もう太陽は夕焼けになっていた。
「ん?」
「憶人……泣いてるんだよ……」
沙那の言葉を、憶人は笑い飛ばそうとした。
「いやそんなわけ――――」
そう言って触れた自分の頬で、指先が湿った。
「いや、なんで……」
自分の身体だというのに、まるでわけが分からなかった。無理やりに意識しなければ人は静かに涙を流せはしないのだと、憶人はずっと信じていた。感情の極まりで涙を流すキャラを、総じて現実的ではないとみなしていた。
そんな考えは改めなければならないと思った。現実が、それも自分自身が、証明してしまったのだからと。
「そうだったな、憶人お前、自分なりに頑張ったんだよな」
「ありがとう……これからは……私と十夜も……一緒だよ……」
二人の手を背中に感じた。うれしくなった。頼もしいと思った。頼りたいと思った。
もう十夜と沙那は憶人の話を少しも疑っていなかった。
三人が出した結論は、“今までどおりのままで、待ち続ける”だった。
霧香はいつか必ず帰ってくる。その時まで、自分たちは今までどおりであり続ける。もしも今までと違ってしまったら、今までと同じになるように戻してゆく。あらゆる物事を、そんな原則のもとに置こうと、三人は決めた。
そして、そのためにはあともうひとり加えなければならなかった。
九月一〇日。
舞は両親のもとを訪れてから、昼過ぎに遅れて登校した。
一組の教室に入ると、沙那が寄ってきた。
「舞……」
沙那の振る舞いは、以前とまったく変わっていなかった。だが、舞のほうは違った。
「あ、うん……」
憶人がすべてを話したはずだというのは察していた。舞にとっては、それが幼なじみたちに対する、途方もなく大きな引け目だった。
沙那はいつものようにそのまま自分の席に座った。舞はふと教室を見渡して、憶人と十夜の姿を探した。憶人は静かに本を読んでいた。十夜はクラスメイトの女子と楽しげに話をしていた。二人も沙那と同じように“いつもどおり”だった。
授業が進み、休み時間が過ぎ、また授業が進み、放課後になるまでずっと、三人は以前の三人とまったく変わらない振る舞いをしていた。
それが、三人にとっての、舞へのささやかな罰だった。
「よう舞」
ひとりで教室をあとにしようとする舞を、十夜が呼び止めた。
「……なに?」
「お前、なにか勘違いしてるだろ」
十夜が本気で相手を軽蔑する時の雰囲気そのものだった。
「ちょっと来いよ」
十夜は舞の腕を掴んで引き連れ始めた。抵抗はしなかった。自分にはそれがふさわしいのだと思っていた。幼なじみを傷つけようとした幼なじみ。蔑まれて当然なのだと。たとえ霧香が許そうとも、他の三人には関係のないことなのだと。
十夜は舞を屋上へと続く階段へと連れていった。
「おっ、来た来た」
その声に舞が顔を上げると、そこには憶人と沙那がいた。
「で、舞のその落ち込みようってことは、十夜お前、相当オラついた態度で声かけたんだろ」
「あっは、バレた? そりゃバレるか。俺もやっちまってから“おいおいこんなに落ち込むのかよ”って思ってたし」
「ダメだよ……そうじゃないんだから……」
どうにも雰囲気がおかしいと舞が思い始めると同時に、憶人が口を開いた。
「俺たちからはもうこれでおしまいだ」
やはりそうだったのかと、舞はひとりで納得した。
「……おしまいって、幼なじみの仲が?」
心の底から、それは嫌だと思った。それでも仕方のないことなのだと、自業自得なのだと思おうとした。
「あっ、いや違うぞ」
だが、やはり雰囲気が違った。
「おい小説家志望」
「うるせえ」
憶人は沙那に助けを求める目配せをした。
「わたしと……十夜と……憶人はね……舞がこうしたら……罪悪感でいっぱいになるって……分かってたんだよ……」
「……へ?」
どうにも声に力がこもらない。
「だからね……もう舞がわたしたちに……引け目を感じなくていいように……わざと舞にはなにも言わないで……いつもどおりにしてみたの……」
「……えぇ?」
舞が踊り場の床にへたり込む。聞こえてはいたが、理解が追いついていなかった。
「どういうこと……?」
十夜が舞の前にしゃがんだ。
「まあすっげえ簡単に言うと、俺たちは舞が思ってるようなことは思ってねえってことだ。だからな、もういちいち“気が引ける”とか、“自分は悪いやつだ”なんて考えて落ち込むのはやめろよ。さっきまでのでもう十分だから」
そこでようやく、舞は三人の言葉の意味と、今日の振る舞いの意味を理解した。
「……ほんとに?」
だから、疑った。だが――――
「ああ」
「うん……」
「だからもういいっつってるだろ」
三人はそんな舞の疑いを思いっきり吹き飛ばした。
「ありがとう……ありがとうっ……」
舞は、笑えはしなかった。ただ、もう悲しみもしなかった。
「……あれ? 立てない……」
緊張が一気に解け、舞はとうとう全身に力が入らなくなってしまった。
「あ~あ、こりゃ誰かさんがトドメ刺したからだな」
「うん……そうだね……」
「……えっ、俺!?」
憶人と沙那の視線は十夜に向けられていた。
「……仕方ねえなァ!」
そう言うと、十夜は舞を抱え上げた。
「えっ、ちょっと!?」
舞は声だけしか抗えなかった。
「とりあえず今は四人で帰るぞ!」
「十夜、部活は!?」
「そんなもん今日くらいフケてやらァ! 憶人! 舞のカバン持ってこい! 沙那はそこの俺のカバン持って付いてこい!」
「はいはい」
「はぁい……」
十夜の掛け声とともに、憶人、沙那、そして舞を抱えた十夜が素早く階段を降り始めた。二階に差しかかると、憶人は廊下に消えていった。
「なにする気?」
「お前の家で膝突き合わせて話し合いだろ」
「てか、これすっごく恥ずかしいんだけど!」
「じゃあ好都合じゃねえか。罰の追加になるしな!」
「ちょっ、それってあたしのこと許してないってこと!?」
「さあどうだろうな!」
二段ずつ飛ばしながら駆け降りる十夜。そのかなりの速さを、沙那はカバンを二つ抱えながら、遅れずについていった。
校門を抜けても十夜と沙那はしばらく走り続けていたが、とうとう十夜が音をあげ、立ち止まった。憶人が三人に追いつく頃には、舞がようやく歩けるようになっていた。
四人は縦一列に並んで舞の家へと帰った。ひとりでは広すぎた家が、途端にぴったりになった。
四人は思い思いに語りあった。またもうひとりを待つ時間がやってくることは分かっていた。また同じように、“今までどおりのままで、待ち続ける”ことに決めた。その“もうひとり”は、必ず帰ってくると約束した。だから四人は、それを信じ、その時が来たらしっかりと迎えることができるように、これからの日々を過ごしてゆこうと決めた。
もはや誰もが許し、許され、求められていた。あとは本当に、たったひとりを待つだけだった。




