まだ遠い秋へ
九月九日。
目を覚ました舞が視界に捉えたのは、カーテン越しの陽光が薄明るい、自分の部屋だった。
「あれ……っ!?」
ベッドの上。眠ってしまう前とは違う場所。意識は一瞬で覚醒へと至り――――
「おはよう」
その声で落ち着きを取り戻した。
「おはよう……霧香」
手は握ったままだった。
「……憶人は?」
「私が起きてから、舞をここまで運んで、帰ったよ」
「そう……」
舞が時計を見やる。時刻は一限目をとうに過ぎていた。
「遅刻だ……」
「欠席にしたよ。憶人が学校に連絡してくれてる」
「そう……なんだ……」
「私たち、なんだかんだで憶人に感謝しないとね」
「そうだね……」
少しの間。
「カーテン開けよっか?」
「……いや、いい」
手をきつくしたのは無意識だった。
また、少しの間。
「あのさ」
「あのね」
ぴったり重なった、二人の声。
「じゃあ、あたしから」
「うん、どうぞ」
ぴったり重なった、二人の意向。
「あたし、ちゃんと分かってないことがあるの」
霧香が舞の左隣に腰を下ろす。
「なんであたしが……あんなこと考えたって分かったの?」
「あ~……ちょうどそれ、私が話そうと思ってたことなんだ」
霧香は話した。世界にはもう存在しない一週間のことを。
憶人の聞き耳。願いによって生みだされた記憶の世界。外れた者に世界がなすこと。そして、抵抗の記憶。
まるで物語のようだと、霧香は話をしながら思った。読み聞かせをしているような気分になった。聞き手はとても素直だった。教室での朗読の時間に少し似ていると感じた。
「私は、世界が私をどんなふうに再構成したのか知らないの。だから……教えて」
「教えてって言われても、あたしもそんなに分からないよ」
「どうして?」
「だって霧香はずっと休学してたから」
「そうなんだ」
驚きはなかった。
「十夜が『霧香ならおばあちゃんの家にいる』って言ってたんだけど、たぶん外れてはないと思う。とりあえず、学校には来てなかったから」
「無難だなぁ……」
霧香が仰向けに転ぶ。
「ねえ舞」
「なに?」
起きたままの舞が霧香の顔を覗う。
「私のこと、覚えてる?」
今や舞は霧香の一週間を知っている。その短い問いが持つ深みを知っている。
「うん、覚えてる。覚えてるよ」
しっかりと答えた。まだ軽くかすれている声でも、絶対に途切れないように。消えてしまわないように。
「ありがとね」
霧香は微笑んだ。心の底からのうれしさだった。
「ごめんね」
「いや、なんで謝るの?」
「……忘れてたから」
汗ばむのを構いもせずに、握る手をきつくする。
「舞が忘れてなかったら、憶人の狙いが外れて、今頃どうなってたか分かんないよ」
「じゃあ、忘れてたほうがよかったの?」
霧香は天窓を見やった。スクリーンが下ろされていて、空は見通せなかった。
「……どうだろ。なってみないと分かんないかな。もうなりたくないけど」
少しの間。
「暑いね」
ブラウスをつまんで身体に風を送る。霧香は制服のままだった。
「エアコンつけよっか」
手は離さない。
舞はその場から動かずに、枕元の棚に置いてあるリモコンを取り、エアコンをつけた。少しの始動のあと、最初は温まった風が送り出され、そして次第に涼風へと変わっていった。
「はぁ……」
八畳ほどの、そこそこ広めの部屋。霧香はこの部屋に何度も来たことがある。霧香の家から徒歩三分ほど。沙那の家からも徒歩三分ほど。三人が集まるのは、たいてい舞の家だった。
「私、どうなるんだろ?」
不意に呟いていた。
「どうって?」
「交通遺児ってことになるんだよね?」
「……確かそういう名前だった」
「家はどうなるんだろ……どこで暮らすんだろ……」
「おばあちゃんの家……」
舞は気づいた。
「そうそう、けっこう遠いんだよ」
「学校……変わるの?」
舞が霧香のすぐそばへ仰向けに横たわる。手をそっと離し、今度は腕を絡めて握り直した。
「かもしれないね」
「っ……」
「あれ? もう……どうしたの?」
舞は霧香の右腕にすがりついていた。
「……」
「なにか言ってよ」
「……なにか」
「そんな憶人みたいなことしないでよもう……」
言葉は呆れて、声は慈しんでいた。
「あぁ……ようやくはっきりしてくれたよ」
霧香が舞の腕に手を添えながら言った。
「こういう、肌が触れる時って、相手への気持ちが正直に出るって、これを沙那に試したって言ったでしょ?」
「……うん」
声の震え方は昨晩と少し違っていた。
「こうしてても前と変わんないよ」
その言葉が持つ意味は、少しの間を置きながらも、舞に強く、深く伝わった。
「だから大丈夫。それに、私はきっとこの町に帰るから」
「きっと……?」
幼子のように霧香の顔を見上げる舞。
「……ううん、絶対」
霧香は舞の頭を胸元に抱き寄せた。
「ねえ舞」
「なあに?」
少しくぐもる舞の声。
「女の子らしくないって、完璧じゃないってことだよね?」
「……その前に訊いてもいい?」
「ん?」
舞は霧香の胸元から頭を少し離した。
「霧香ってどうして、なんでもできる完璧な人を目指してたの?」
「……それ、本気で言ってる?」
「えっ――――」
続けようとした言葉は、霧香の胸元にぶつけられて潰れた。
「なんで覚えてないの~っ!」
「んん~っ! んんん~っ!」
二人はベッドの上を転げまわった。なんとか上乗りになった舞が、霧香の拘束を引き剥がす。
「なんのこと!?」
「だから“完璧を目指す理由”だよ!」
「はえ?」
一瞬の隙。霧香はそれを逃さず、舞の背中に両腕を深くまわして捕まえた。
「えっ、ちょっ、わあっ!?」
ぐるっと半回転。上下は逆になった。
「まっ、待って!」
舞が霧香の肩に手を当てて突っ張る。
「待ったら思い出す?」
「……」
固まってしまう。
「舞しか知らないはずだったのにぃ~っ!」
霧香が舞の上腕を掴んで体重をかける。舞の腕は重さに負け、霧香の身体が勢いよく舞の上に降ってきた。
「うっ!」
思わずうめく舞。霧香は構わずそのまま舞の胴をしっかりと捕まえ、そこでようやく静まった。
ベッドの揺れが引いてゆく。互いにもう力は入れていなかった。
「思い出せないから、教えてくれる?」
「……なんか複雑な気分」
声がくぐもるのは霧香のほうだった。
「あたしもだよ。自分のことらしいのに、自分じゃない人から聞かされるんだから」
「……」
霧香は舞のみぞおちの上で顔を右に向けた。
「すっごく小さい頃の話だよ。舞のこと『すごいね』って言ったら、舞が『霧香はもっとすごいじゃん。なんでも完璧にできちゃうんだから。あたしも霧香みたいにすごくなりたい』って言ったんだよ。だから……私はずっと舞の言った“完璧な霧香”になりたかった」
果たしてそうなれたのだろうか。今はなれていなくても、いつかなっていた時があったのだろうか。未来ではそうなれるのだろうか。そんなことを霧香は思った。
「そんなこと……言ったね」
「あれ? 覚えてたの?」
「まさかそれが理由だなんて思わなかった」
「えぇ……」
霧香はまた顔を舞のみぞおちに押し当てた。
「霧香はね、あたしにとって本当に理想の、完璧な女の子だよ。小さい頃から、今までずっとね」
「……だから、傷つけたくもなった?」
「そうなのかな……」
意地悪や非難ではなかったからこそ、穏やかに考えることができた。
「あたしには霧香を傷つけられないよ。もう分かる。もしまたそんなことを考えちゃっても、絶対にできない」
「どうして?」
「だって、霧香ってなにをしたって霧香で、あたしにとってずっと完璧なままだから」
「……よく分かんないよ、その理由」
「そうだなぁ……まあとりあえず、今は“女の子らしくない霧香”だって完璧だよってことで」
「……それでもいまいちよく分かんないなぁ」
優しい笑い声が二つ。心地よい響き。小さな揺れ。エアコンだけのものではない涼やかさ。エアコンをつけておいてよかったと、二人ともが思った。
いつまでも触れあっていられそうに思えるからだった。
太陽が南中する時刻。霧香と舞は手をつないで玄関を出た。
「暑っ」
舞が思わずそう言ったのと同時に、二人ともが空いている手で直射日光を遮りながら空を見上げた。
「まだいてもいいんだよ?」
舞の言葉には願いがこもっていた。
「もう十分だよ」
霧香が上げていた視線と手を下げ、踏み出そうとする。
「えっと……お風呂は? 昨日から入ってないでしょ? ねっ?」
「入っても帰るまでに汗かいちゃうでしょ」
「あっ……えっと……」
留まる理由を頑張って探そうとする舞の姿を、霧香は黙って眺めた。
「あっ……えあ……あのね……」
次第に勢いがしぼんでゆく。
「その……えと……」
とうとう言葉が尽きた。腕を抱き寄せるほかなかった。
「絶対帰ってくるって言ったでしょ?」
霧香が舞の髪をすうっとなでる。
「……いつ? いつ帰ってくるの?」
「すぐだよ」
「行かなかったら、帰ってくるもなにもないのに……」
同じ身長でも、まるで小さな子供のようだ。
「でも、いても同じことするだけだよ。なんにもしないだけ」
「それでいい」
「よくないよ」
「なんで?」
二人が顔を見合わせる。舞は無意識で、霧香は舞に合わせていた。
「だって、私たちはまだ生きていかなきゃ」
額を合わせる。ほんの少しだけ冷たかった。
霧香は舞の腕を勢いよく振りほどいた。
「あっ」
追いすがる舞の手は熱気を掻いただけで、すでに霧香は門扉を開け、道路に出ていた。
そこで、立ち止まる。振り返る。
「じゃあ、行ってきます」
舞は足だけでなく声まで固まっていた。
「ほら、言ってよ。言わなきゃもう行っちゃうよ」
返すべき言葉は、言わなくても結末を変えられはしないものだった。
だから、舞は言った。
「いってらっしゃい」
できるかぎりの笑顔で、見送りの言葉を。再会を約束された、その言葉を。
霧香は微笑みを返して、蜃気楼に揺らめく舞の視界から歩き去っていった。
霧香と舞の夏は、ようやくの終わりを迎えた。暦の上ではもう秋で、今を生きる人々にとっては、まだ夏のままであっても――――




