良い子は眠れ
声が絶えて、時間は過ぎた。
時折、開けっ放しになっている扉の向こうにある台所から、冷蔵庫の駆動音が聞こえてくる。家の前の道路を車が走り抜ける。それらがなくなれば、静寂が続いていた。長い、ながい静寂だった。
「……疲れた」
霧香が唐突に呟いた。
「舞も……疲れた?」
「うん……」
かすれる声。
「憶人、いる?」
「……ああ」
「起こして」
憶人は玄関で靴を脱ぎ捨て、二人の傍らに膝をついた。
「今なら……襲いたい放題だよ?」
「そんなことしねえよ」
「だよね」
霧香が力なく笑う。その肩に、憶人は手をかけた。身体をゆっくり起こすと、握り締めていた服地が手からするりと抜けた。憶人は霧香を廊下の壁にもたれさせた。
「舞も起こしてあげて」
「いや……あたしはいい……」
かすれ声が床でくぐもる。
「だ~め」
憶人は少し考え、霧香の言葉に従って、舞の肩に手をかけ、仰向けにさせてから身体を起こした。
「……ありがと」
舞は背中を支えている憶人の手から離れようとしたが、身体はふらつき、また憶人の手に戻ってしまった。
「憶人、そのまま舞を私の隣に」
「分かった」
「えっ……」
驚きでさえも、舞の身体に力を入れさせることはできなかった。拒む力も出せなかった。
憶人は舞の身体の向きを変えさせ、少し考えて、霧香の隣、半歩分ほど離れたところの壁に舞をもたれさせた。
「じゃあ憶人は……そこに座ってて」
霧香が目で指したのは、霧香と舞の前にある、廊下の壁だった。
「分かった」
「なんでも聞くんだね」
霧香が困惑気味に笑う。
「拒否する理由が思いつかないってだけだ」
憶人は指された場所に足を伸ばして座り、片膝を立てた。
「憶人さぁ、これで終わったって思ってないよね?」
霧香が目を閉じて言う。
「ん?」
「女の子のケンカってさぁ、男の子みたいにすっぱり終わらないことのほうが多いんだよ」
「そうなのか?」
「そんなことも知らないで物書きやってるの?」
「いま知った」
舞は目線だけを憶人と霧香のほうへ少し寄せていた。
「もっと頑張ってよ? じゃないと沙那がかわいそう」
「なんで沙那が出てくるんだ?」
「だって沙那って憶人のために編集や校正の勉強してるんだよ?」
「そうだったのか」
「舞は知ってたよね?」
「えっ、あ、うん」
視線を戻しきる前に制された形になった。
「まあ、沙那はそういうの憶人に見せないよ」
霧香が目を閉じたまま優しい表情になる。
「なんでだ?」
「沙那にとって、頑張る姿って相手に見られたらすっごく恥ずかしいものだから。だよね舞?」
「あっ、うん」
「いやまあ、確かに初耳だけどなぁ……」
「想像力は褒められてたんだから、観察力をつけないとね」
「どこを観察すりゃいいんだ?」
「どこだと思う?」
霧香は憶人ではなく舞のほうに訊いた。
「えっ、えっと……カバンのマチ、かな?」
「あ~確かに。いつもそこにそういう勉強の本やノート入れてたよね」
「あっ……」
「……俺には無理だな」
「そっか、じゃあこういうのも気づかない?」
「こういうの……あっ」
「さてと、ここで洞察力があったら、これからどうするべきか分かるよね?」
「……寝るか」
「ふふっ、まあそれもいいんじゃない?」
憶人は目を閉じ、頭を傾げた。眠るつもりはなかった。
「舞」
「なに?」
「私も眠たくなっちゃったから、今からいつ寝言になってもおかしくないからね」
無言は返事だった。
「こんなふうにさぁ、沙那にもしたんだよ。沙那の手、私よりも小さくてね……おっとっと。それでね、気づいたんだけどさぁ、人って意外と他人の手を触らないんだよね。たいてい他のところばっかりなの。そう気づいてから、手に触れることって、私にとってすごく特別になった」
眠る憶人を二人ともが見ていた。玄関扉のスリットから差す街灯混じりの月光が、度重なる反射で弱められて、廊下の奥にいる三人をほのかに照らしている。
「だから、これは本当の特別。特別だから、ケンカの終わりが女の子らしくなくなって、今までの悪いことも許しちゃって、また幼なじみに戻っちゃう……かもしれないなぁ……」
途方もなく優しい声が、ふっと消えてゆく。無言こそが返事になった。
眠ることができる。それは、穏やかな時間があるから。穏やかでいられる相手だから。
いま何時なのだろう。そう思いながら、舞はいつぶりかの消え入るような眠りに落ちていった。
「……お前も寝たのか」
憶人が声をかけても、返事はなかった。
「二人同時には抱えられねえぞ……」
一人ずつ抱えればいいはずだったが、そうしたくはなかった。二人を離したくなかったのだ。
互いの手を握っている霧香と舞の姿を目の前にして、そんなことを思えはしなかった。
「知らねえぞ、明日になって全身が痛くなってても」
そう言いつつ、憶人は微笑んでいた。誰もが微笑んでいた。安心はあれど、もうどこにも緊張はなかった。
憶人は立ち上がり、玄関の上り框に腰を下ろした。そして、据付の靴箱に寄りかかり、スリットの明るさを最後まで目に留めながら、ゆっくりと、穏やかに眠りに落ちていった。




