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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
今日というあの日
36/39

良い子は眠れ

 声が絶えて、時間は過ぎた。

 時折、開けっ放しになっている扉の向こうにある台所から、冷蔵庫の駆動音が聞こえてくる。家の前の道路を車が走り抜ける。それらがなくなれば、静寂が続いていた。長い、ながい静寂だった。

「……疲れた」

 霧香が唐突に呟いた。

「舞も……疲れた?」

「うん……」

 かすれる声。

「憶人、いる?」

「……ああ」

「起こして」

 憶人は玄関で靴を脱ぎ捨て、二人の傍らに膝をついた。

「今なら……襲いたい放題だよ?」

「そんなことしねえよ」

「だよね」

 霧香が力なく笑う。その肩に、憶人は手をかけた。身体をゆっくり起こすと、握り締めていた服地が手からするりと抜けた。憶人は霧香を廊下の壁にもたれさせた。

「舞も起こしてあげて」

「いや……あたしはいい……」

 かすれ声が床でくぐもる。

「だ~め」

 憶人は少し考え、霧香の言葉に従って、舞の肩に手をかけ、仰向けにさせてから身体を起こした。

「……ありがと」

 舞は背中を支えている憶人の手から離れようとしたが、身体はふらつき、また憶人の手に戻ってしまった。

「憶人、そのまま舞を私の隣に」

「分かった」

「えっ……」

 驚きでさえも、舞の身体に力を入れさせることはできなかった。拒む力も出せなかった。

 憶人は舞の身体の向きを変えさせ、少し考えて、霧香の隣、半歩分ほど離れたところの壁に舞をもたれさせた。

「じゃあ憶人は……そこに座ってて」

 霧香が目で指したのは、霧香と舞の前にある、廊下の壁だった。

「分かった」

「なんでも聞くんだね」

 霧香が困惑気味に笑う。

「拒否する理由が思いつかないってだけだ」

 憶人は指された場所に足を伸ばして座り、片膝を立てた。

「憶人さぁ、これで終わったって思ってないよね?」

 霧香が目を閉じて言う。

「ん?」

「女の子のケンカってさぁ、男の子みたいにすっぱり終わらないことのほうが多いんだよ」

「そうなのか?」

「そんなことも知らないで物書きやってるの?」

「いま知った」

 舞は目線だけを憶人と霧香のほうへ少し寄せていた。

「もっと頑張ってよ? じゃないと沙那がかわいそう」

「なんで沙那が出てくるんだ?」

「だって沙那って憶人のために編集や校正の勉強してるんだよ?」

「そうだったのか」

「舞は知ってたよね?」

「えっ、あ、うん」

 視線を戻しきる前に制された形になった。

「まあ、沙那はそういうの憶人に見せないよ」

 霧香が目を閉じたまま優しい表情になる。

「なんでだ?」

「沙那にとって、頑張る姿って相手に見られたらすっごく恥ずかしいものだから。だよね舞?」

「あっ、うん」

「いやまあ、確かに初耳だけどなぁ……」

「想像力は褒められてたんだから、観察力をつけないとね」

「どこを観察すりゃいいんだ?」

「どこだと思う?」

 霧香は憶人ではなく舞のほうに訊いた。

「えっ、えっと……カバンのマチ、かな?」

「あ~確かに。いつもそこにそういう勉強の本やノート入れてたよね」

「あっ……」

「……俺には無理だな」

「そっか、じゃあこういうのも気づかない?」

「こういうの……あっ」

「さてと、ここで洞察力があったら、これからどうするべきか分かるよね?」

「……寝るか」

「ふふっ、まあそれもいいんじゃない?」

 憶人は目を閉じ、頭を傾げた。眠るつもりはなかった。




「舞」

「なに?」

「私も眠たくなっちゃったから、今からいつ寝言になってもおかしくないからね」

 無言は返事だった。

「こんなふうにさぁ、沙那にもしたんだよ。沙那の手、私よりも小さくてね……おっとっと。それでね、気づいたんだけどさぁ、人って意外と他人の手を触らないんだよね。たいてい他のところばっかりなの。そう気づいてから、手に触れることって、私にとってすごく特別になった」

 眠る憶人を二人ともが見ていた。玄関扉のスリットから差す街灯混じりの月光が、度重なる反射で弱められて、廊下の奥にいる三人をほのかに照らしている。

「だから、これは本当の特別。特別だから、ケンカの終わりが女の子らしくなくなって、今までの悪いことも許しちゃって、また幼なじみに戻っちゃう……かもしれないなぁ……」

 途方もなく優しい声が、ふっと消えてゆく。無言こそが返事になった。

 眠ることができる。それは、穏やかな時間があるから。穏やかでいられる相手だから。

 いま何時なのだろう。そう思いながら、舞はいつぶりかの消え入るような眠りに落ちていった。




「……お前も寝たのか」

 憶人が声をかけても、返事はなかった。

「二人同時には抱えられねえぞ……」

 一人ずつ抱えればいいはずだったが、そうしたくはなかった。二人を離したくなかったのだ。

 互いの手を握っている霧香と舞の姿を目の前にして、そんなことを思えはしなかった。

「知らねえぞ、明日になって全身が痛くなってても」

 そう言いつつ、憶人は微笑んでいた。誰もが微笑んでいた。安心はあれど、もうどこにも緊張はなかった。

 憶人は立ち上がり、玄関の上り框に腰を下ろした。そして、据付の靴箱に寄りかかり、スリットの明るさを最後まで目に留めながら、ゆっくりと、穏やかに眠りに落ちていった。

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