夏の終わりを告げに
公園を出て、歩く二人。
前を歩く霧香。その少し後ろをついてゆく憶人。
向かう先は、向かわなければならない場所。
「ねえ憶人」
霧香は振り返らずに呼んだ。
「なんだ?」
「私、たぶん最後の選択で自分の記憶を代償にしたはずなんだよ」
「ああ、そうだな」
「あ、やっぱりそうなんだ」
早くはない、足の運び。重なりそうでいて重ならない、足音。
「ごめ……いや、今のはナシ」
「いや、いいんだよ?」
なにを許したのかは定かではなかった。
「でもさ、記憶を操る力が無くなっても、“記憶は決して消えない”っていうのはきっと変わらないはずだよね」
「たぶん、そうだろうな」
霧香がカバンを胸の前で抱え、わずかに上を向く。
「じゃあ、いつか戻るのかな?」
憶人がつられて、霧香の見上げる先を目で追う。
「方法が分かれば」
似たような家々が建ち並ぶ。その間に、灰色の道路と、灰色の電柱と、黒色の電線が格子を描く。そんな線の上をたどりながら、見上げる先には、あらゆる境界を曖昧にしてしまいそうな夜空。
「方法はあるってこと?」
「もう知りようがないけどな」
「でも、見つかるかもしれない」
「そうだな……いや、きっと見つかる」
「どうしてそう思うの?」
軽く背後へ顔を向ける霧香。
「なんでだ……いや、探すのがお前だからだろうな」
「ちょっと、さっき一瞬、適当に言おうとしたでしょ」
「見逃してくれよ……」
「聞き逃さないよ。ちゃんと聞いてるんだから」
霧香は前に向き直った。
「ねえ、なにを考えてるの?」
「……考え事だ」
「その中身を訊いてるんだよ」
「……世界について」
「わあイタ~い」
肩の辺りで手を振る霧香。その茶化しに、憶人は乗らなかった。
「結局、この一週間のことは全部覚えているままだ。じゃあ“本来そうあるべきもの”って、いったいどういうものなんだって、そんな感じのことを考えてた」
「それって、もう今この時が答えだよ。今がすべてだよ」
角を曲がる。街灯が減った。家並みが変化を見せる。
「それと、今からも」
「……そうだな」
考えても、考えなくても、今から分かること。その認識を、二人は共有した。
すぐに着いた、向かうべき場所。
舞の家。
「ふぅ……」
どの部屋にも明かりはなく、それでも人の気配がした。
「霧香――――」
「やめないよ」
隙を与えない。
「どうしてそこまで今日にこだわるんだ?」
霧香が振り返る。憶人は霧香の前に立ってしまったが、それはもはや問題にはならなかった。
「待ったのは今日だけじゃないでしょ」
その言葉は、憶人から反論を奪う。
「ね?」
微笑みきれないまま、霧香は門扉に向き直った。そして、門柱にあるインターホンのボタンを押した。
呼び鈴の音が家に響く。外まで響いて、まるで誰もいないかのように装う。
もう一度押す。また響く。また装う。
霧香は門扉を開けた。憶人は霧香を止めなかった。
玄関扉の前まで行き、立ち止まった。
「そこにいるでしょ」
扉に語りかけたように見える。本当は、扉の向こう側へ届けている。
「こうしなきゃいけないようなことをした……というより、考えたって、自覚してるんだね」
返事を待つ形。無言もあれば、語りもある。
「ここを開けなきゃ話ができない……ううん、違うか、“話し合い”ができないよ。だから……開けて」
スリットの磨りガラスに映る藍色が、わずかに揺れた。
風のない大気。汗は乾かず、すうっと垂れてゆく。身体に熱がこもる。
扉は――――開けられた。
霧香と憶人が一歩下がる。ゆっくりとなめらかに、扉は開いてゆき――――
「久しぶり、舞」
玄関には、扉に手をかけて俯く舞がいた。
「なんで……知ってるの……?」
霧香と憶人が家の中に入るなり、舞は二人に背を向けて、震える声で訊いた。
「舞が知らない方法で知ったんだよ」
憶人はもうなにも言わないと決めていた。
「じゃあ……なんで来たの……?」
怯え。
「終わらせるためだよ」
熱さでも、冷たさでもなく、温もり。
「なにを……?」
「終わらないもの以外、できれば全部」
理解以前の段階で、思考が滞ってしまっている。
「だからそれって――――」
「私は舞のために傷ついてあげられないよ」
「っ……」
肩が上がる。引かない痛み。
「そんなこと……考えて……あたしが……」
泣きたくないと、舞の全身が訴えている。それは、霧香も、憶人も分かっていた。抑えられはしないだろうとも。
「私、もう傷つきたくない。舞の知らないところで、もうすっごく傷ついた」
「あたしだってっ……でも……」
「分かんないよね、他の誰かの痛みやつらさなんて」
ひたっ、と涙の落ちる音。静かすぎる廊下。
「分かりたいと思うし、分かりたくないって思っちゃうよね。だって、すごく難しくて、なのにできたところでつらくなるんだから」
「でもっ……あんなこと考えたなんて……あたしっ……」
「そっか……舞の一週間は……」
舞には届かず、憶人には届いた呟き。
世界は舞に記憶の世界を教えなかった。霧香が記憶に残ろうとした日々を残さなかった。そして、一週間を“本来そうあるべきだったもの”に再構成した。憶人と、霧香にそうしたように。
舞にとっての“あるべき一週間”が、霧香に伝わった。だからこそ、きちんと終わらせようと思った。
「私だってね、お父さんとお母さん、もういないんだよ」
舞は何度もそのことを思ったに違いなかった。
「舞は両方とも生きてるでしょ。私は死に目に間に合わなかったのに……」
ついさっき口にした自分の意思に、霧香は自分から逆らっていた。
「ついこの前と同じ人間だと思えない? 私もそうだったよ。私のお父さんとお母さんは……舞の親を守ったんだよ。命を命で守ったんだよ。身体……潰したんだよ……」
蘇った記憶。一度目は冷静でいられた。今はもう冷静ではいられなかった。
空いていた数歩の距離を一気に詰める。土足のままだろうと構いはせず、霧香は舞を突き飛ばした。転ばずに一歩、二歩とこらえた舞を、霧香はまた突き飛ばし、廊下の床に叩きつけるように転ばせた。床にうつ伏せになった舞は、抵抗しなかった。
「つらいよ……苦しいよっ……つらくないわけない……苦しくないわけない……っ」
膝をつき、舞の服の背を掴み、裂かんばかりに引っ張る。
「私……生きてるお父さんとお母さんに会えるなら、なんだってやるよ。舞なんかより……舞なんかより私のほうがお父さんとお母さんのこと大事に思って……大好きだった……っ!」
霧香が舞の背に倒れこむ。震えが二つ、重なった。
「ごめん……なさい……」
「許さない……許さないっ……」
掴んだ服地を揺するようにして背を叩く。
「ごめん……ごめんなさい……」
食いしばる歯。わずかに開けて、謝り続ける。背中には重みがあり、痛みは無かった。
「絶交だから……もう舞なんて嫌いで……嫌いで……嫌いでっ……」
「ごめんなさい……」
「『許して』って言ってよ……『私も嫌い』って言ってよ……」
「言えない……」
「言ってよ……それなら本当に嫌いになれるのに……嫌いになって……嫌いになって……っ」
「嘘も……間違いも……もう嫌だからっ……」
床は逃げ場とはならず、握った拳が行き場を失っている。
「じゃあっ……どうすればいいの……ねえっ!?」
「分かんない……そんなの……分かんないっ……!」
もう、今はどうしようもなかった。これ以上は、傷つきようがなかった。
頃合だった。この時のために憶人は霧香に連れられていた。ずっと無言を貫き、見守ることだけを自身に絶対の任として課していた。
だが、憶人には二人をどうすることもできなかった。そのまま見守ることしかできなかった。二人が心も身体も疲れきってしまっても、なにもできなかった。二人がとうとう動けなくなってしまっても、なにもできなかった。
そうしているよりも二人のためになることを、憶人は考えつくことができなかった。




