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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
今日というあの日
35/39

夏の終わりを告げに

 公園を出て、歩く二人。

 前を歩く霧香。その少し後ろをついてゆく憶人。

 向かう先は、向かわなければならない場所。

「ねえ憶人」

 霧香は振り返らずに呼んだ。

「なんだ?」

「私、たぶん最後の選択で自分の記憶を代償にしたはずなんだよ」

「ああ、そうだな」

「あ、やっぱりそうなんだ」

 早くはない、足の運び。重なりそうでいて重ならない、足音。

「ごめ……いや、今のはナシ」

「いや、いいんだよ?」

 なにを許したのかは定かではなかった。

「でもさ、記憶を操る力が無くなっても、“記憶は決して消えない”っていうのはきっと変わらないはずだよね」

「たぶん、そうだろうな」

 霧香がカバンを胸の前で抱え、わずかに上を向く。

「じゃあ、いつか戻るのかな?」

 憶人がつられて、霧香の見上げる先を目で追う。

「方法が分かれば」

 似たような家々が建ち並ぶ。その間に、灰色の道路と、灰色の電柱と、黒色の電線が格子を描く。そんな線の上をたどりながら、見上げる先には、あらゆる境界を曖昧にしてしまいそうな夜空。

「方法はあるってこと?」

「もう知りようがないけどな」

「でも、見つかるかもしれない」

「そうだな……いや、きっと見つかる」

「どうしてそう思うの?」

 軽く背後へ顔を向ける霧香。

「なんでだ……いや、探すのがお前だからだろうな」

「ちょっと、さっき一瞬、適当に言おうとしたでしょ」

「見逃してくれよ……」

「聞き逃さないよ。ちゃんと聞いてるんだから」

 霧香は前に向き直った。

「ねえ、なにを考えてるの?」

「……考え事だ」

「その中身を訊いてるんだよ」

「……世界について」

「わあイタ~い」

 肩の辺りで手を振る霧香。その茶化しに、憶人は乗らなかった。

「結局、この一週間のことは全部覚えているままだ。じゃあ“本来そうあるべきもの”って、いったいどういうものなんだって、そんな感じのことを考えてた」

「それって、もう今この時が答えだよ。今がすべてだよ」

 角を曲がる。街灯が減った。家並みが変化を見せる。

「それと、今からも」

「……そうだな」

 考えても、考えなくても、今から分かること。その認識を、二人は共有した。




 すぐに着いた、向かうべき場所。

 舞の家。

「ふぅ……」

 どの部屋にも明かりはなく、それでも人の気配がした。

「霧香――――」

「やめないよ」

 隙を与えない。

「どうしてそこまで今日にこだわるんだ?」

 霧香が振り返る。憶人は霧香の前に立ってしまったが、それはもはや問題にはならなかった。

「待ったのは今日だけじゃないでしょ」

 その言葉は、憶人から反論を奪う。

「ね?」

 微笑みきれないまま、霧香は門扉に向き直った。そして、門柱にあるインターホンのボタンを押した。

 呼び鈴の音が家に響く。外まで響いて、まるで誰もいないかのように装う。

 もう一度押す。また響く。また装う。

 霧香は門扉を開けた。憶人は霧香を止めなかった。

 玄関扉の前まで行き、立ち止まった。

「そこにいるでしょ」

 扉に語りかけたように見える。本当は、扉の向こう側へ届けている。

「こうしなきゃいけないようなことをした……というより、考えたって、自覚してるんだね」

 返事を待つ形。無言もあれば、語りもある。

「ここを開けなきゃ話ができない……ううん、違うか、“話し合い”ができないよ。だから……開けて」

 スリットの磨りガラスに映る藍色が、わずかに揺れた。

 風のない大気。汗は乾かず、すうっと垂れてゆく。身体に熱がこもる。

 扉は――――開けられた。

 霧香と憶人が一歩下がる。ゆっくりとなめらかに、扉は開いてゆき――――

「久しぶり、舞」

 玄関には、扉に手をかけて俯く舞がいた。




「なんで……知ってるの……?」

 霧香と憶人が家の中に入るなり、舞は二人に背を向けて、震える声で訊いた。

「舞が知らない方法で知ったんだよ」

 憶人はもうなにも言わないと決めていた。

「じゃあ……なんで来たの……?」

 怯え。

「終わらせるためだよ」

 熱さでも、冷たさでもなく、温もり。

「なにを……?」

「終わらないもの以外、できれば全部」

 理解以前の段階で、思考が滞ってしまっている。

「だからそれって――――」

「私は舞のために傷ついてあげられないよ」

「っ……」

 肩が上がる。引かない痛み。

「そんなこと……考えて……あたしが……」

 泣きたくないと、舞の全身が訴えている。それは、霧香も、憶人も分かっていた。抑えられはしないだろうとも。

「私、もう傷つきたくない。舞の知らないところで、もうすっごく傷ついた」

「あたしだってっ……でも……」

「分かんないよね、他の誰かの痛みやつらさなんて」

 ひたっ、と涙の落ちる音。静かすぎる廊下。

「分かりたいと思うし、分かりたくないって思っちゃうよね。だって、すごく難しくて、なのにできたところでつらくなるんだから」

「でもっ……あんなこと考えたなんて……あたしっ……」

「そっか……舞の一週間は……」

 舞には届かず、憶人には届いた呟き。

 世界は舞に記憶の世界を教えなかった。霧香が記憶に残ろうとした日々を残さなかった。そして、一週間を“本来そうあるべきだったもの”に再構成した。憶人と、霧香にそうしたように。

 舞にとっての“あるべき一週間”が、霧香に伝わった。だからこそ、きちんと終わらせようと思った。

「私だってね、お父さんとお母さん、もういないんだよ」

 舞は何度もそのことを思ったに違いなかった。

「舞は両方とも生きてるでしょ。私は死に目に間に合わなかったのに……」

 ついさっき口にした自分の意思に、霧香は自分から逆らっていた。

「ついこの前と同じ人間だと思えない? 私もそうだったよ。私のお父さんとお母さんは……舞の親を守ったんだよ。命を命で守ったんだよ。身体……潰したんだよ……」

 蘇った記憶。一度目は冷静でいられた。今はもう冷静ではいられなかった。

 空いていた数歩の距離を一気に詰める。土足のままだろうと構いはせず、霧香は舞を突き飛ばした。転ばずに一歩、二歩とこらえた舞を、霧香はまた突き飛ばし、廊下の床に叩きつけるように転ばせた。床にうつ伏せになった舞は、抵抗しなかった。

「つらいよ……苦しいよっ……つらくないわけない……苦しくないわけない……っ」

 膝をつき、舞の服の背を掴み、裂かんばかりに引っ張る。

「私……生きてるお父さんとお母さんに会えるなら、なんだってやるよ。舞なんかより……舞なんかより私のほうがお父さんとお母さんのこと大事に思って……大好きだった……っ!」

 霧香が舞の背に倒れこむ。震えが二つ、重なった。

「ごめん……なさい……」

「許さない……許さないっ……」

 掴んだ服地を揺するようにして背を叩く。

「ごめん……ごめんなさい……」

 食いしばる歯。わずかに開けて、謝り続ける。背中には重みがあり、痛みは無かった。

「絶交だから……もう舞なんて嫌いで……嫌いで……嫌いでっ……」

「ごめんなさい……」

「『許して』って言ってよ……『私も嫌い』って言ってよ……」

「言えない……」

「言ってよ……それなら本当に嫌いになれるのに……嫌いになって……嫌いになって……っ」

「嘘も……間違いも……もう嫌だからっ……」

 床は逃げ場とはならず、握った拳が行き場を失っている。

「じゃあっ……どうすればいいの……ねえっ!?」

「分かんない……そんなの……分かんないっ……!」

 もう、今はどうしようもなかった。これ以上は、傷つきようがなかった。

 頃合だった。この時のために憶人は霧香に連れられていた。ずっと無言を貫き、見守ることだけを自身に絶対の任として課していた。

 だが、憶人には二人をどうすることもできなかった。そのまま見守ることしかできなかった。二人が心も身体も疲れきってしまっても、なにもできなかった。二人がとうとう動けなくなってしまっても、なにもできなかった。

 そうしているよりも二人のためになることを、憶人は考えつくことができなかった。

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