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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
33/39

世界ひとつ

 コウとキリは記憶の世界にいた。

 霧香が去ってなお、記憶の世界が存在している理由。それは――――


「あっちを選んだんだな」


「「こんにちは、芦屋さん」」

 どこからともなく現れた憶人に、コウとキリは微笑んだ。

「なっ……!?」

「これは洲本さんがもたらした変化です」

 コウが説明する。

「名前を得たことで、我々にもあなたたち人間のように意思を持つようになりました」

 キリが補足をした。

「……知らなかった」

「あなたは知ろうとしなかったのです」

 コウが首を横に振りながら言う。

「……まあ、お前たちがそんな感じなのも別に悪くないな」

 一息つき、憶人は真面目さを取り戻した。

「それで、俺がここにいるってことは……」

「はい。あなたが記憶を操る力で世界に与えた影響の一切が消えました」

「えっと……キリだったか。じゃあ俺の記憶はどうなったんだ?」

「それも、この後あなたが世界へ帰る際に、八月三一日以前の状態に戻したあとで、世界が今日までの記憶を“本来そうあるべきだったもの”に再構成します」

「てことは、俺はお前たちや記憶の世界のことを忘れるのか?」

「それは世界に委ねられています。我々には分かりかねます」

「そうか……」

 なにもかも忘れたくはなかった。憶人とて、自身の記憶を代償として差し出すことに悲しみを感じないわけではなかった。記憶の価値と絶対性を知ってしまい、その思いはさらに強くなっていたはずだった。

 どこで変わってしまったのか。どこで感情を軽んずるようになってしまったのか。これから思い出してゆこうと憶人は思った。誓いでもあった。覚悟でもあった。そのために、どうしても忘れたくなかった。

「なあ、コウ」

「はい、なんでしょう?」

「霧香は……なんて言っていたんだ?」

「あなたのことを二流作家と見なしていました。書き手が自身の意思を読ませてはいけない、とも」

「自分の意思?」

「あなたが前者を選ぶように願っていたことを、洲本さんは察したのでしょう」

「……そのあたりはお前たちがうまくやってくれるんじゃなかったのか?」

「我々にはあなたができる以上の対応ができません。そのような存在なのです」

「そんなわけないだろ……」

 笑うしかなかった。

「帰りたくねえなぁ……」

 わがままでしかなかった。

「あなたはなぜこの世界を生み出したのですか?」

 キリが訊く。

「はぁ? 記憶の世界は世界が創ったんだろ?」

「いいえ。生み出したのはあなたです」

「……いやいや、ありえねえだろそんなの」

「我々は嘘を言えません」

「じゃあ冗談か」

「この場合、冗談は嘘と同義になります」

「……」

 事実の受け止め方は忘れていないはずだった。

「俺が創ったってのにはいまいち実感がねえから、こう……ていうか、なにを訊いたんだったっけか?」

「あなたが記憶の世界を生み出した理由です」

 訊くのはコウに替わっていた。

「理由なぁ……」

 悩もうとしたが、すでに答えは出ていて、それはどうしようもなくはっきりと脳裏に浮かんでしまっていた。

「……もし本当に俺自身が記憶の世界を望んだんだとしたら、その理由なんて決まってる」

 先を促さないコウとキリをありがたく思いながら、憶人はひとつ、またひとつと呼吸を置き――――

「自分勝手でも、無様でも、俺は霧香を……最初の幼なじみを……っ」

 言葉に詰まってしまう。もう霧は無いというのに、視界が明瞭さを失ってゆく。その願いを果たせなかったことに対する感情なのは分かっていた。だが、感情の正体がどうしても分からなかった。

 膝を地に落とす。腰も落ちる。胸の苦しみが嗚咽を起こさせる。

 もっと他にやりようがあった。逃がすのではなく、導くのでもなく、行方をしっかり見据えられるよう、支えてやればよかったのだと、今なら分かる。害意も世界には確かに存在していて、消そうとしたのが間違いだったのだと、今なら分かる。自分には救う覚悟が足りなかったのだと、今なら分かる。

 なにもかもが、その時々では分からなかったのに、今になって分かってしまう。そのことに苦しむ覚悟も自分には足りなかったのだと思い知らされる。

「悲しませたくなかったんだっ……」

 思い出した、最初の願い。

 ひとつの世界を創った原理。それをずっと思い続けていればよかった。

 後悔しても仕方がない。悲しませたのだから。悲しみを避けるために悲しみを。そんな本末転倒を、もうしてしまったのだから。

「ならば、あなたは世界に帰るべきであるはずです」

「世界はまだ厳しさを忘れていないのですから」

 優しさと、励ましを感じた。彼らがこれほどまでに情緒に満ちた語りをするとは思いもしなかった。名前を得てから、彼らは変わったのだ。名前を与えたのは、霧香だった。

 自分の周りはすべてが霧香へと向かっている。霧香はいつもそうだった。このような状況下でさえも、変わることはなかったのだ。

「お前たちのおかげだな……」

 胸の苦しみは消えない。それでも、進もうと、続けようと思えた。

「ありがとう、コウ、キリ。さよならだ」

 覚悟はついに完成した。




 閉じゆく世界に、コウとキリは立っている。互いの手を握りしめて。

 二人は願っている。記憶の世界に関わったすべての者の未来が、いつかきっと明るいものになるようにと。

 そして、とりわけ自分たちを生み出した者と、名前を与えてくれた者が、すぐにやってくる世界の厳しさをしっかりと生き抜けるようにと。

 記憶の世界は最後の瞬間まで願いのもとで存在し続け、ひっそりと消滅した。

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