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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
32/39

権限委譲

 他人の記憶を俯瞰するだけならば、まだいくらか楽なものだった。だが、霧香が経験したのは、記憶との同化だった。

 舞の記憶と、憶人の記憶。それぞれに意識まで同化させられた。自分に向けられながら、決して自分が知りえなかった意識や感情。激情も、愛情も、果ては触覚、痛覚さえも。

 嫌悪してしかるべきなのは分かっていた。舞の身勝手が自分を傷つけるかもしれなかったのだと知り、憶人の計らいが自分にこの一週間の激動を強いたのだということも知った。どちらも霧香の意思に反したものだった。

 ただ、霧香は冷静なままだった。冷めきっていた、と言ってもいい。まさに完璧な傍観者であり続けた。同化しようとするすべてと絶対の距離を保ち、なにも思わず、ただ眺め続けた。

 感情に動かされてしまう時が必ず来ると分かっていたからこそ、霧香は冷静さを保っていられた。すべてを観終えた時、冷静さが不要になればどんなに楽だろうかと思った。だが、そうはいかないということも、霧香は知っていた。




「主体の消失」

「……あなたはさっき見たのと同じなの?」

「肯定する」

 少年と少女が目前にいた。

「憶人は?」

「現時点では非存在」

「そっか。文句でも言っちゃおうかと思ってたんだけどなぁ」

 霧香は短くため息をついた。

「私をここに連れてきたのはどうしてなの?」

「権限委譲のため」

「初期指定対象であるため」

「……その話し方はどうにかならないの?」

「じゃあこんな感じはどうですか?」

「わっ、本当にどうにかなるのね」

 霧香が意外そうに笑う。

「じゃあ続けて」

「分かりました」

 話しているのが少年と少女のどちらなのかを、霧香の意識は徐々に区別しようとしていた。

「記憶の有する力をもって記憶を操作し、芦屋憶人の言うところの記憶の世界を創造し、行き来する。それが、芦屋憶人の言うところの“記憶を操る力”の概説となります」

「“芦屋さん”とか“憶人さん”でいいよ」

「承りました」

 少女だろうか。

「芦屋さんが記憶を操る力の代償として供していた自身の記憶では、初期の方法を継続すれば、少なくとも十年間はあなたをこの仕組みに留めておくことができました」

 今度は少年だった気がする。

「その期限を短縮させたのは、あなたが確認した芦屋さんの記憶にあった、九月五日の城崎沙那……城崎さんへの記憶介入の形態が始まりでした」

 今度は間違いなく少女だ。そう思った瞬間、目前に並んでいた少年と少女が、やや離れて左右にそれぞれ移っていた。いつの間にか白霧はいくぶん薄らいでいて、少年と少女の姿はなんとか視認できた。

「続いて、一日を通して世界から外れた、九月六日」

「代償の記憶量が爆発的に増加したのは、前者が主要因です」

「それまで、記憶を操る力は世界によって生み出され、世界の理に従う存在でした」

「沙那さんの記憶に介入する際、芦屋さんはそれを世界から奪いました」

「記憶を操る力のすべてを自身によって成立させるようになったのです」

 少年と少女はステレオチックに語りかけていたが、左右を不規則に変えていて、声音だけしか判別できなくなっていた。少年と少女の位置を判別することを、霧香は諦めた。

「それによって、記憶を操る力の維持に対して膨大な記憶を要することになりました」

「じゃあ、六日はどういうこと?」

 どちらを向いて訊いても変わらないと思い、霧香は前方に声を飛ばした。

「九月六日は世界が存在消失を記憶できる限界まで迫ったことによって、お二人を記憶の世界に留めるための記憶量がさらに増加したのです」

「記憶を操る力そのものの維持に必要な記憶量の増加、そして膨大な量の記憶を費やしたことによって、芦屋さんの持つ記憶はそれまでの比ではない量の減少となりました」

「そして、先ほど芦屋さんの記憶は代償たりえない量になり、現在に至ります」

「“代償たりえない量”ってどのくらい?」

「直近一週間と、生命維持に要する程度の記憶しか残っていませんでした」

「その状態で、あなたを記憶の世界のさらに深奥へと転移させようとしたのです」

「じゃあ、憶人は今どこにいるの?」

「現時点ではどこにも存在していません」

「えっ……!?」

「世界はしばしば、自己内矛盾をまるごと非存在とすることで解決しようとします」

「芦屋さんは記憶の世界という、今では独立した別世界に対して記憶をやり取りしていました」

「世界の関知しないところで、ありえようのないほどに記憶が欠けた存在が生まれていたことを認識し、世界は芦屋さんを非存在にしたのです」

「そんな……」

 今度は思考ではなく身体が冷える番だった。だが、衝撃に打ちのめされる霧香にさえ、少年と少女は猶予を与えない。

「あなたをここへ呼んだのは、記憶の世界の処遇を委ねるためです」

「……処遇って?」

「現時点で、洲本霧香さん、あなただけがこの記憶の世界に対して干渉できます」

「なんで? 舞もここに来たことがあるでしょ? 沙那だってそうじゃない」

「芦屋さんは記憶の世界を創造した初期に予めそのように決めていたのです」

「十数年後のあなたならば、すべてを知ってなお、どのような処遇にするのかを決められるだろうと考えたのです」

 唖然とした。ただ、それは一瞬だった。まだ冷静さがかろうじて残っていた。

「我々はあなたにこの世界の処遇について二つの選択肢を提示します」

「……その選択肢って?」

「ひとつは“現在の仕組みを、あなたの記憶を用いて継続させる”というものです」

「ひとつは“記憶を操る力を世界へ返還し、すべてを初期化する”というものです」

 その二つは同時に言葉にされたが、霧香はどちらも聞き取っていた。

「……続けて」

「前者は、芦屋さんの立場をあなたが引き継ぐ形になります」

「世界に記憶を操る力を戻そうとも、一日ごとに記憶の世界へ転移することをやめようとも、あなたの記憶がある限りはなにをしてもよいのです」

「後者は、記憶を操る力が生みだされた八月三一日から今日――――九月八日にまでの期間に記憶を操る力が与えた影響の一切を無効化し、世界におけるあなたの存在を“本来そうあるべきだったもの”に再構成します」

「記憶を操る力は消滅しますが、その代わりに大河内舞……大河内さんがあなたへの害意を思い出すことになります」

「……ふふっ」

 小さく笑った。

 少年と少女が示した、二つの選択肢。霧香は、そこに傾きを見出していた。

 傾けたのが誰なのかは、考えるまでもなく――――

「憶人ってこれだから二流作家なんだよね」

 少年と少女はなにも返さない。

「書き手の意思を読ませちゃダメでしょ、まったく……」

 霧香はクッと顔を上げて正面を見据えた。

「二つめを選ぶよ」

「それでは――――」

「ただし、今は私がこの世界を操れるんだから、ひとつ決めさせてもらうよ」

 やや間が空いた。

「なにを決めるのですか?」

 霧香はほんの少し意地悪な顔になった。

「記憶を操る力を二度と復活させないこと」

 霧香は両手を腰に当て、視線を少し上げた。

「こういうところまで読まれちゃったら形無しだね。あ~あ」

「確定後の取り消しや修正は不可能です。よいのですか?」

「いいんだよ。この期に及んでまだ私の選択を自分の意思に添わせようなんて、憶人の自分勝手な考えには絶対従ってあげないんだから」

 もう白霧はひとつかみも存在していなかった。

「承りました。では――――」

「あっ、ちょっと待って」

 少年と少女は所有主の言葉に従った。

「あなたたちには名前って無いの?」

「あなたの思っているように、少年が名前です」

「あなたの思っているように、少女が名前です」

「やっぱりかぁ」

 霧香は右を向いた。少年がいる方向だと思っていた。少年は確かにそちらにいた。

「じゃあ、君はコウ」

 霧香は左を向いた。少女がいる方向だと思っていた。少女は確かにそちらにいた。

「君はキリにしよう」

 また正面を向き、困ったように笑う。

「まあ、すぐに消えちゃうんだけどね」

 そして、霧香は記憶の世界にある自身の存在を解き、世界へと帰っていった。

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