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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
31/39

歩みなおし

 世界から外された者は、世界から消える。

 言葉にすれば当然のようにも思えてしまう。だが、その当然さは空論だからこそ存在するものだった。

 世界から外された者がどうなるのか。憶人はそれを現実として知った。




 あの声を聴いた世界を、憶人は“記憶の世界”と名付けた。

 記憶の世界で、目前に並んで浮かぶ霧香と舞を見つめる。輪郭の曖昧な半透明の白球が、二人の周囲にいくつも浮かんでいる。その白球に、憶人は手を伸ばした。

「うっ……くっ……ああっ……」

 憶人の全身を感情が駆け巡る。興奮とも拒絶ともつかない身体の反応。痛みを伴い、表情が歪む。自分のものではない感情の流入は、憶人を冷静にさせまいとする。

 それでも、憶人は一球ずつ触れていった。憶人自身の苦悶に、白球から感情がねじ込まれる。憶人は涙にまみれ、怒り、笑った。

 そして、憶人は探していたものを見つけた。

「ふはっ……へあ……あはっはぁ……」

 白球を両手にひとつずつ掴むと、気味の悪い声が出た。だが、それを出させる混沌とした感情は憶人のものではない。憶人自身の思考と感情は、ねじ込まれ続けた感情と決して混ざり合うことはなかった。

 憶人の手の中で、白球が真鍮色の鍵へと形を変えた。鍵の形をとらせたのは憶人の無意識だった。もう握りしめても感情は変わらなかった。

「覗き魔みてえだな」

 憶人は自分を嘲りながら、鍵を放った。鍵は不規則に回転しながら飛んでいった。落ちるという概念を失った世界で、鍵はまばたきの後にはもう消えてしまっていた。

「お前たちも覗き魔か?」

 その言葉とともに、憶人の目前に少年と少女が並んで現れた。

「記憶は消えない」

「消しても消えない」

「時を経て、必ず戻ってくる」

 もはや少年と少女のどちらが言っているのかは気に留めなかった。

「俺の記憶が続く限り、霧香は忘れたまま。それでいい」

「世界から外れるならば、世界はそれを除いた世界を再構築する」

「世界に現れるならば、世界はそれを加えた世界を再構築する」

「再構築に及びうる力」

「介入せよ」

「言われなくても」

 憶人の返事とともに、少年と少女は姿を消した。

 白霧が現れ始めていた。




 九月一日。

 霧香は世界に帰された。転校生として。憶人の配役で。

 舞も世界に帰された。それまでの舞として。なんら変わりなく。

 憶人もまた世界に帰った。ただし、憶人は記憶を操る力に関する記憶のすべてを記憶の世界に置きざりにした。

 自然さを知るために。




 放課後。

 明日への言葉を交わした直後、記憶の世界は憶人の定めたとおりに霧香と憶人を転移させた。そして、憶人は記憶を操る力のすべてを思い出した。

 なにもかもが考えたとおりになっていた。

 憶人は自分自身の振る舞いの記憶という、自然さの最良の手本を得た。

 霧香は記憶が消えたことにただ惑い続けるのではなく、立ち向かった。頑張ろうとした。折れかかってもなお。

 舞は両親の傷どころか、両親の存在そのものを忘れ、意識すらできなくなっていた。それがなければ、霧香への加害を考えようがない。舞に対してはもう十分だと思った。

 賭けをしたことは、憶人にとって興味深いことだった。勝算しかない賭けであることは、記憶を操る力を知っているからこそ分かることだ。もしかするとまだ忘れきっていなかったのではないかと考えたが、記憶の世界はそれを否定した。

 狙いとは違ったが、発見したこと。それは、自分の振る舞いだった。

 決して客観にならないはずのものが、焼け付きそうなほどの鮮やかさで映し出される。自分という、同一体のはずのものが、記憶の世界ではほんのわずかだけでも“自分”からずれてしまえる。

 ただ、そのずれはやはりほんのわずかであり、それゆえに“自分”から見える像はひどくぼやけてしまっていながら、なによりも強烈だった。

 自身の記憶を代償に行使を許された力。自身を削る以上、そして身近な者に関わる以上、自分のあらゆる思考と努力を尽くそうと憶人は決めていた。実際にそうした。そうすることができた。だからこその結果、だからこその成功だった。

 盲信ではなく、真に強力な存在となったのだと信じることができた。身体を満たそうとする高揚感を現実だと信じることは難しかった。

 記憶の世界は思考を巡らせるための静寂を備えていた。憶人は考えた。記憶の世界が始まった時よりもはるかに深く、長く。




 九月二日。

 今度は世界へ帰る時に記憶を置き去りにはしなかった。もう二度とするつもりはなかった。必要もなくなっていた。

 屋上へと続く階段で霧香を待つ。その間にも思考を巡らせた。

 睡眠をとっていなかった。必要はなかった。ならばどうでもいいことだと思った。

 やがて、霧香が踊り場へやって来た。

 霧香が動きを止める。呼吸が浅く速まってゆく。ふらつく。倒れそうになる。

 憶人は、その様子をただ見ているだけだった。

 なにが起こっているのかは知っていた。霧香の心情や感覚も、ほとんど理解していた。だが、もし霧香がそのまま思考を闇に染めてしまおうとしても、階段から転がり落ちるしかなくなろうとも、そうなってしまう寸前で、必ず記憶の世界が霧香を転移させる。そうすれば、あとは記憶を取り出してやればいい。闇に染まる時間を捨て置けばいい。身体が損なわれかける時間も、霧香には存在しなかったことにすればいい。

 だが、そんな世界単位の変換は、まだ必要とされなかった。

 霧香は自分で振り向いた。憶人は賭けの勝ちを告げた。自分にはもはや意味のないことだったが、霧香にとっては意味のあることなのだと知っていた。

 振る舞いはどこまでも自然にできた。感情さえも自然になった。“自分”だけが異なる性質の中にあった。

 “自分”は世界に存在しなかった。記憶の世界だけが“自分”の存在領域だった。狭苦しくはなく、むしろ伸びやかだった。自分の赴くまま、考えるまま、思うままに任せればよかった。それを一日の最後に“自分”が始末をつけておく。経験や歴史がなくとも、そんな流れがすでに形作られていた。




 放課後。

 帰路での会話。知らなかった昔話。

 そしてなにより、霧香が憶人の想像を超えてきたこと。

 記憶の世界で“自分”が苦悶した。圧潰の苦しみだった。

 忘れたくないと思ってしまった。その誓いの美しさを。強さを。感情を。

 忘れさせたくないと思ってしまった。記憶の世界に霧香が存在している時点で、世界にはもう霧香の誓いが存在していないのだと分かっていても。

 “もっと持っていけ”と思った。なにをか。自分の記憶だ。それであの誓いを失わないでいられるのならと。

 記憶の世界は、代償の記憶を選ぶことはないと答えた。費やされるのか、残るのか、そのどちらになるのかは単純な確率で決まるのだと。

 少年と少女は記憶の世界に姿を現していたが、憶人は彼らのような媒体をもはや必要としていなかった。

 記憶の世界に慈悲の概念は存在せず、その冷たさに感情が凪いでゆき、苦しみも和らいでいった。

記憶の世界の“自分”に感情は不要だと思った。だから、捨てようと思った。捨てられたらいいのにと思った。捨てられないから、“自分”なのだった。




 九月三日。

 世界で最も美しいドレス姿を目の当たりにした。

 世界で最も綺麗な声が物語を読みあげた。

 帰り道まで、物静かな転校生がいた。

 無言の別れ。見上げた空。そこに広がる黒を頭の中で記憶の世界のそれと重ねた瞬間、憶人は衝動のままに霧香を記憶の世界へ飛ばした。

 霧香が歩いていた道を見つめた。そこにいた存在は、もう世界には存在しない。まだ二度目だというのにもはや躊躇がないことに気づき、憶人はただ呆れ笑いになった。そうさせたのは自分なのか、“自分”なのか。憶人は自分に訊いてみたが、答えが出ないまま、記憶の世界へと去っていった。




 九月四日。

 世界は相変わらず消えた者と現れた者にそれぞれ同じ対処をしていた。不変の仕組みの中だけで、霧香は変わろうとしていた。それならばよかった。たとえ霧香が思ったよりも強かに世界へ立ち向かおうとしていようとも、構いはしなかった。

 だが、“自分”はそれを許せなかった。

 霧香が強くなってゆくことを、“自分”はよしとしなかった。単にそれを脅威とみなしているのならばいくらか簡単な話だったが、捨てられなかった感情が事を複雑にしていた。

 霧香が完璧な主役になった瞬間、憶人は霧香とともに記憶の世界へと転移した。一日を終えられなかった。“自分”が世界を侵食しようとしていた。不整合の発生を自分は恐れたが、後処理をするのは“自分”だった。“自分”が“自分”の過負荷に自己対処するのだから、問題はない。

 そのはずだった。




 九月五日。

 “自分”を制御することができなくなったことで、自分はいよいよ世界に、そして霧香に振り回されるしかなくなってしまった。ただ、そのこと自体はむしろ自分にとって楽なことだった。真に“感情と意思のままに行動する”ことができるようになると同時に、もはやなにに対しても逆らうことがなくなったからだ。

 心のまま。その言葉がふさわしかった。

 もしかするとあの日以前からあったのかもしれない恋心に、憶人は従った。その気持ちがただの刷り込みでしかない気がしても、本心であってほしいという願望のほうに従った。

 うれしくなった。心から。

 心配をした。それも心から。

 じれったく思った。もちろん心から。

 どれもが“自分”だった。自分がどこにあるのか、分からなくなっていた。




 そして、感じた。

 世界ですら記憶を消せはしないということを。

 ただ遠ざけていただけだったのだということを。

 戻った記憶。沙那が口にしようとする言葉は、その日のどんな言葉よりも長く深い記憶を引き連れているはずだ。

 どこかから、自分が戻ってきた。

 理由を飛ばして、ただ止めなければと思った。だが、霧香を記憶の世界へ飛ばすという考えが浮かばなかった。自分は戻ってきていたというのに、“自分”はまだ残っていた。

 一日を終えられなかった、あの重み。より楽な方法を選ぼうとする、人間の性質。

 世界ができなかったのなら、自分がやればいい。あるいは“自分”が。もはやどちらでもいい。結局は同じ存在なのだから。

 そう、“同じ存在”なのだから。

 憶人は記憶の世界へと飛んだ。

 沙那の記憶とともに。




 記憶の世界ではもはや実体が必要とされていなかった。憶人の意思と、沙那の記憶だけがあった。

 意思は記憶を引き抜こうとした。凄まじい抵抗があったが、それを力づくで破った。記憶の形を変えるのすらも面倒で、鍵にすることなくそのまま浮かべた。そもそも鍵である必要はなかった。

 ふわふわと漂うその美しさと切なさは、意思では見ようがなかった。




 世界へ戻ると、時は刹那しか過ぎていなかった。

 そして、沙那は幼なじみの霧香を忘れていた。

 もういいと思った。霧香を記憶の世界へ飛ばせばいいのだと、ようやく思いついた。

 約束を、忘れていた。




 九月六日。

 世界に戻ることすらしなかった。

 目の前に浮かぶ霧香。沙那の時は記憶だけを移したというのに、今は実体を移している。その理由を考えようとしたが、思考はぼんやりとしていた。答えを出そうとはしていなかった。

 九月一日の時と同じように、霧香の周囲に浮かぶ白球。憶人は気まぐれにつついていった。そこに込められた記憶や感情は、どれも鮮やかなままだった。それらが押し寄せるのを、抗わずに受け止めていった。

 自分と“自分”が再び統一されて生まれたのは、醜くおぞましい芦屋憶人という青年だった。鮮やかさや美しさとこうもかけ離れてしまえるものなのかと思った。まだ覚悟が足りなかったのかと嘲った。自身の選択がそのように自身を変えてしまうことは分かっていたはずだろうと。




 九月七日。

 世界に戻ったのも、世界に戻したのも、もはや気まぐれだった。

 ただ霧香に“記憶の消失に立ち向かうこと”だけを見させようと考えた。戻さなければそもそもそのようなことさえ必要にならないというのに。




 九月八日。

 変化が変化でなくなってゆく。そう思えた。それを拒むわけではなかった。




 霧香が思い出した。記憶をたどり、“記憶が抜けていること”に気づくという、至極単純な方法で。

 自身の選択の矛盾。記憶を操る力の弱化。憶人は焦った。無くなりかけていた変化。喜ばしいものではなかった。

 焦りのままに、憶人は霧香を記憶の世界の彼方まで飛ばそうとした。

 そして、自身の見落としに気づかされた。

 自身の記憶が代償となっていること。いつの間にか自身の記憶がどのくらい残っているのかを考えなくなっていたこと。

 憶人の記憶は、霧香を記憶の世界の彼方へ追いやるどころか、もう自身が記憶の世界に飛ぶことさえもできないほどしか残っていなかった。

 記憶の尽きた憶人を、世界は拒んだ。記憶の世界は、そんな憶人を飲み込んでいった。

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