はじめまして
とても魅力的な人と出会ったのに、翌日にはその人のことを忘れてしまう。そんなことが果たしてありえるのだろうか――――
九月七日。火曜日。
憶人のクラスは朝でも騒がしい。その筆頭が十夜なのだが、今日は女子に話しかけに行かず、憶人の後ろの席に座っている。
「なんでかっつうとだな、さっき職員室の近くで見かけた知らない女子がとんでもなくかわいかったんだけどさ、この隣の空き机から察するに、その子がうちのクラスに来るんじゃないかと思って興奮が止まらねえんだよ」
「長々と説明ありがとう」
憶人はまったく本から目を上げずに言った。
「というか、“かわいい子”なら昨日もいただろ」
「は?」
十夜は街中でケバケバしい女を見たときと同じ顔をした。
「俺はあんな可愛い子初めて見たぜ? なに? お前そういう願望でもあるわけ?」
憶人は本から目を逸らし、顔を上げずになにか呟いた。
「ダメデスネ~。現実とはちゃんと折り合いつけないと、永遠に可愛い転校生とお近づきにはナレマセンネ~」
ところどころわざとらしく声の高低を変えながら十夜が煽る。
「なあに? また憶人を煽ってんの?」
舞と沙那が二人の机に集まってきた。
「おいお前ら。憶人はどうやら現実に嫌気がさしたとかいう中二病的思考に……痛い痛い痛いッ!!」
憶人が十夜のこめかみを指で押していた。
「少しは学習しろこのド阿呆」
憶人が突き放すようにして十夜を解放する。
「くぅ……」
十夜は机に突っ伏してしまった。
「なあ、舞、沙那――――」
憶人はそんな十夜を無視して、ある名前に覚えがないか二人に尋ねた。
「知ってる?」
二人は顔を見合わせた。
「いや……知らない……憶人くんの知り合い……?」
「いや、なんでもない」
そう言ってまた本に目を落とす憶人を、二人は怪訝そうに見やった。
二人が席に戻ると、チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
「よしお前ら、今日は転校生の紹介からホームルーム始めるぞ」
「やっぱりな!」
十夜が歓声をあげる。他の生徒もざわめき始めた。
そして、ひとりの女子が教室に入ってきた。
「よっしゃァ! やっぱりあの子だぜおい!」
十夜が興奮して憶人の肩を叩きながら立ち上がる。
「静かにしろ朝来。この世の半分はお前が大好きな女子だろうが。いい加減慣れろ」
「いや先生、女子と呼称するには数々の条件を――――」
「あのバカは無視して自己紹介しろ」
担任が転校生の女子に指示をする。
「え~っ!! 先生ひどくない……すか……」
転校生の女子が十夜のほうをじっと見つめていた。
「ごっ、ごめんなさい……」
十夜は力が抜けてしまったらしく、椅子に崩れた。そして、彼女は自己紹介を始めた。
「はじめまして。洲本霧香といいます。これからよろしくお願いします」
ふわりと聞き手の心に着地するような、柔らかい声。決して崩れず、それでいて硬さを感じさせない、整った仕草。微笑みがよく似合う容貌。誰もがその完璧なまでの魅力にあらゆるものを奪われ、拍手を思い出したのはしばらく経ってからだった。
そして、クラスでただひとり、芦屋憶人だけは本から一瞬たりとも目を上げなかった。