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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
29/39

ひとりとふたり

 “霧香”はいつの間にか感情と感覚を霧香に同化させていた。自分の経験や記憶を前にして、傍観者のままではいられなかった。自分の感情や感覚を無視できるはずがなかった。

 意識が記憶から離れ始めた時、霧香は安堵していた。もちろん、失くしていた記憶を知り、それを取り戻せたことに対する感情だった。だが同時に、自分の心が二度の“生の体験”に傷を負い、砕け散る寸前になっていることを感じていたからでもあった。

 “生きたい”という言葉が、言葉どおりの意味で心に浮かんだ。“死にたくない”ではなかった。

 なぜなのかは分からなかった。




「洲本霧香は自己を保てたのか」

「洲本霧香はまだ存在しているのか」

 少年と少女の声が聴こえる。感覚はひとつだけになっていた。

「……」

 答えは言葉でなくてもいいはずだと、霧香は考えた。彼らには分かるはずだと。

 実際、そのとおりだった。

「ならば洲本霧香はもうひとりを知る」

 少女の声。

「洲本霧香はもうひとりを知る」

 少年の声。

 顔を上げると、すぐ前に少年と少女の姿があった。正体に関して、少年と少女なのだという理解以外を決して許さない姿。個数の概念に近い存在。

 手を差し出していた。その手を取れば“もうひとり”を知ることになるのだろう。少女でひとり。少年でひとり。

 だから、霧香は両方とも掴んだ。

 その瞬間、純然たる傍観者として、霧香は記憶の世界へと再び向かっていった。




 痛みはなかった。自分のものではないからなのかもしれないと考えた。

 ただ、感覚のほぼすべてが封じられていた。視覚と聴覚だけが存在していた。

 そして、世界へ現れると同時に霧香が見ていたのは、八月二七日の夜、峠道を越えてゆく舞の姿だった。




 舞は霧香と同じように懸命にペダルを漕いでいた。

 坂を下れば隣町に入る。舞の目的地は隣町にあるようだ。

 舞は川沿いの幹線道路に出て、やがて目的地にたどり着いた。

 隣町の総合病院に。




 舞の両親は生きていた。凄惨な事故にも拘らず、命に別条はないと聞かされた。

 ただ、脳には損傷があった。それを知らないまま、親戚に促され、舞は家に帰された。

 なにをする気にもなれず、充電器に携帯を繋いだままにして、そのそばで浅い眠りばかりを繰り返した。身体が痛むほうが、かえって気を確かに保っていられた。




 八月三〇日。親戚からの着信。両親が意識を取り戻したとの連絡だった。

 舞はすぐに飛び起きた。眠り続けていた身体は急な活動を拒むように重かったが、無理やり動かした。

 タクシーを呼べと言われていたが、病院までそう距離があるわけではないと考え、自転車を駆った。ペダルを全身で漕いで、虚しい時間を早く終わらせようとした。

 そして、虚ろで物言わぬ両親と対面した。




 八月三一日。自宅。舞はひとりで目を覚ました。

 目覚めても誰の気配も感じなかった。家の中には舞しかおらず、部屋にある小さな時計が立てる規則正しい微かな音しか聞こえない。動き出してゆく時間を気づかせてくれるのは、部屋の天窓から降りてくる空の明るさだけだった。

 空は天窓を明青一色に染めている。およそ雲とは無縁に見えるが、昨日の予報では夕方からは不安定になるのだという。

 枕元のカレンダーを見やる。一日ずつ赤ペンで斜線を引くのが習慣だったが、二七日から三一日まで、線は引かれていない。三一日には“夏休み最終日!”と字がにぎやかに躍っている。

「夏休み、ね……」

 もう夏休み最後の日になっていたのだと、ふと気づいた。




 病院には毎日通うつもりだった。通いたくはなかった。通わなければならないと知っていたからという、ただそれだけが理由だった。

 両親はあの日にいなくなったのだと思った。自己を認識しているのかすらも定かではないと知ってから、そんな逃避めいたことを考えるようになっていた。

 いなくなってほしいとさえ、思っていた。




 病院からの帰り道。気づけば自宅近くまでは来ていたがなぜか自転車を降りて歩いていた。

 自転車を漕いでいる間はなにを考えていたのだろうかと、ぼんやり思った。

 視線の先には公園があった。自然と中に入っていた。ベンチが視界に入ったかと思えば、いつの間にかそこに座っていた。まるで中抜けしたアニメーションのように、自分の動きさえも途切れがちにしか捉えられなくなっていた。

 時刻は夕方。予報どおりに雲が空に灰を塗り始めている。太陽がその侵食に抗って、空の際で鋭く鮮やかな朱を輝かせている。

 そろそろ降り始めるだろう。降ればいいと思った。醜い自分にふさわしいと思った。

 目が夕日を捉える。そのまま目を閉じないで見続けていれば、もうなにも見なくてすむのだろうか。そうは思っても、身体は懸命に自身を保とうとする。涙で視界を歪め、まばたきをまぶたに強いる。

 やがて、雨が降り始めた。雲に覆われてしまった空。それでいいと思った。

 これほどまでに自分が醜くなれるとは思っていなかった。

 両親を両親と思えなくなってしまった。あれだけ愛していた両親はもういないのだと思いたかった。話すことはおろか、なにを理解しているのかも分からないような存在を、両親だと思いたくなかった。同じ愛を注ぐことを、心が拒んでいた。

 舞は天頂を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。目尻から涙が透明な線を描きながら落ちていった。

「あたしは……元気」

 それは嘘だった。だが、その嘘はどんな検査でも発見できない。

「お父さんとお母さんとは違って……あたしは元気」

 身体に対しては真実だった。自分だけが嘘を知っていた。

 なにをしていても胸が圧し潰されようとしているかのような苦しさを感じ、両親の姿を目にすれば、それが剣となって突き刺さる。身体には存在しないその痛みが、嘘の証明だ。

「あたしは……元気?」

 とうとう嘘もつけなくなった。まだ醜くなれるはずなのに。まだ醜くならないといけないのに。


「どうしてあたしだけ……苦しいんだろ……」


 あった。まだ醜くなれる場所が。

「これからずっと、見る度に痛くなって、自分が汚くなっちゃって、でも離れらんない」

 目前に無言で立ち尽くす自分自身の幻影に、あるがままの醜さを投げつける。

「死んじゃってたほうが、いつか楽になれたんだろうね……」

 自分は時間がいつまでも重いままで、霧香はきっとこれから時間が痛みや苦しみを軽くしてゆく。死の痛みや苦しみは癒されるべきもので、生のそれらは生きている限りずっと自分に添い続ける。

「なんであたしのほうが苦しまなきゃいけないのよ……」

 理不尽に理不尽を返す。破綻した反応が、舞の中では真になった。

「一緒に死なせてくれればよかったのに……」

 精巧だが、人形。ぬくもりはあるが、意思は無い。

 嫌悪が頭に焼き付く。

「元気で帰してくれないんならさぁ……ねぇ……」

 ここで笑うのかと、舞は知った。今まで決して共感できなかった、狂化する登場人物。その心理や振る舞いが自分のものとなって、共感は否応なしにやって来た。

「なんで霧香は楽になっちゃうの? あたしのお父さんとお母さんをあんなにしちゃったのって誰のせいだった?」

 決して小さくはない破綻を、無視した。

「壊したいなぁ……」

 幻影が笑う。

「見る度につらくなるような、そんな壊れ方にさぁ……」

 実体も笑う。

「そうだよ。死んじゃってるんだもんね。だったら生きてるやつが負わなきゃいけないよね」

 ひどく間伸びした笑い声。奇妙な響きが公園を渡ってゆく。反響も奇妙なままで、心地の悪さがかえってしっくりくる。

「傷つけるのは……あたしか。そりゃそっか」

 これまでに読んだどんな物語よりも、今がどうしようもなく強力で、現実だ。

 ベンチから立ち上がる。雨はまだ降っている。もう弱まらなくていいと思った。




 その時、憶人は公園の物陰で、舞の言葉を、声を、ただ聴いていた。

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