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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
霧散と灯火
28/39

ひとりと想い

 棺桶に入れた遺品はごくわずかで、ほとんどは家の中で手付かずのままになっていた。その整理を理由として帰宅した霧香だったが、それが祖母の同伴を拒んだ理由になっていないことは自分でも分かっていた。

 本当は、ただひとりで帰りたかっただけ。




 祖母の家から一時間かけて、霧香は自宅に帰ってきた。

 門扉に触れた瞬間、霧香は素早く手を引いた。まだ午前中だというのに、門扉は日射で高温になっていた。

 普段ならそのことを頭に入れ、タオル越しに門扉の把手を掴むところだ。

 忘れていた。思い出さなかった。指先が脈に合わせて鈍く痛む。

 自分が今、なにを思っているのか。それを知りたいというのも、理由に加わった。




 鍵を開け、玄関に入る。靴が一足も出ていない玄関はいつぶりなのか。脱ぎ捨てても、まったく埋まらない広さ。上り框に足をかけ、半身になって靴を揃えてみれば、その広さが現実を離れそうに思えた。

 靴を隅に移した。どうせ埋まらないのならと。

 立ち上がり、短い廊下を一瞥して、すぐ左手にある扉を開け、ダイニングに入った。




 こんなに広かっただろうか。すぐにそう思った。

 成長するにつれて家が縮むような感覚があったのはいつまでだったか。今は幼い頃と同じように、壁は遠く、天井は高く、床は大きく見える。ダイニングテーブルの上に新聞がないのは初めてだ。

 よそよそしく揃えられた椅子を引き、腰掛けてみる。軽い軋み。一七年の歳月。

 ダイニングと繋がっているリビングに敷かれた、カラフルな楕円のカーペット。ソファの前に置かれた低脚のテーブルは、霧香が中学生になると同時に買ったものだ。“もう角でケガする心配なんてしなくていいでしょ”と言って、両親はガラステーブルを選んだ。

 霧香にとっては、幼さからの卒業の証だ。まだ大人になれたとは思えていない。




 引き戸一枚を隔ててリビングと繋がっている和室。両親の遺体を安置した場所。

 窓の内側に後付した明かり障子から、日光がほんのりと畳に差している。それほど頻繁に使った部屋ではなかった。客間と呼ぶのが合っている。

 ただ、客間は時に重要な会議室にもなった。数々の家族会議がここで行われた。霧香はここで議題になり、発案者になり、意見者になった。

 両親に頼もしさを何度も感じた場所。そして、最後は誰もが黙っていた。




 廊下に繋がる戸を引き、和室を出てすぐに左へ曲がった。

 洗面台がある。電灯を点けると、白色光に鈍く照らされた。

 棚には化粧品や洗顔料が置かれている。父のひげ剃り。母の化粧水。霧香のものは最近になって領域を広げていた。

 それでも、一箇所だけ、ずっと変わらなかった棚がある。歯ブラシを入れたコップが置かれている、いちばん低い棚だ。幼い頃から、そして今も、そこにはずっと三本の歯ブラシが並んでいる。乾ききった毛束。数日前はそうではなかった。

 目を移して奥の浴室を見やる。ひとりになれる空間のひとつだった。誰にとってもそうだった。磨り加工の扉越しに、父が泣くのを初めて見た日のことを覚えている。母の涙は幾度となく見たが、浴室で泣いているときは脱衣所に近づかなかった。自分がそこで泣いている時に両親が避けてくれていたのを知っていたからだ。

 今は、泣こうと思っていない。




 電灯を消し、洗面所の扉を閉めた。すぐそばに階段がある。

 建前でも、やらないわけではない。

 階段を折り返し、昇りきると、L字型の廊下がある。部屋は二つ。手前が霧香の部屋。そして奥が両親の寝室だ。

 両親とも私物がとても少なかったのだと、両親の寝室に入って改めて気づく。ベッドと小さなタンスしかない。クローゼットを開けてみても中はほとんど空っぽだ。遺品をすべて寄せ集めてもダンボールひと箱ずつで足りてしまいそうに思える。

 クローゼットの扉を閉め、窓を開けた。それほど澱んでいなかった空気も、外の空気の新鮮さには敵わなかった。暑気を含んだ風でもどこか心地よく感じる。その感覚で、いつの間にかうっすらと汗ばんでいたことに気づかされた。

 まだ夏は終わっていなかった。夕方からは雨が降るらしい。




 ダンボール箱を二つ積み上げて、一階まで抱えて降りた。リビングのテーブルの上に置き、上側の箱を下ろして二つ並べる。半開きの上面からは黒しか覗き見ることができない。本当にひと箱ずつで足りてしまった。

 そこで気づいた。“家族みんなのもの”が多かったのだということに。

 もっと父だけのため、母だけのためのものをあげればよかった。霧香を所有者に含ませないようなものを贈ればよかった。もっと自分のためのものを買えばいいのにと言ってあげればよかった。

 家族のためを想った両親に、自分のためを想えと、言ってあげればよかった。

 そんな思考が後悔と名付けられる。名付けたのは霧香自身だが、まるで他力によるもののように思えてしまう。

 残るなら、確かに思えるものをもっとたくさん残しておいてほしかった。予想できないことが起きたのだと考えても、後悔はその思考を跡形もなく呑み込んだ。後悔はやがて時を遡り、幼さを得た。幼さは、絡まった思考をほぐす代償に、制御の効かない感情を連れてきた。

「や……っ……やだよ……やなんだよ……」

 霧香は答えを見つけた。

 霧香は両親に死んでほしくなかったと、そう思っていたのだった。

 そして、“霧香”の意識は記憶の世界から離れていった。

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