真空
九月八日。火曜日。放課後。公園のベンチ。
霧香はこれまでのことをひとりで振り返っていた。
残した記憶。消えた記憶。すべてが結局は後者へと収束した。それでも、前者が存在した時間がまったくなかったわけではなかった。刹那でも、残ることができた。そこにしっかりと応えを見出せるようになったことを、霧香は自身の成長なのだと捉えていた。
そして、ふと気づいた。
「ねえ憶人?」
「ん?」
「私って、日曜日になにをしてたんだっけ?」
とてもあっさりと出したその言葉。
無かったから不思議に思い、そのまますぐに尋ねる。そんな反射に似た過程。
重大さに思考が到るまで、どうということもない話のように装われ、そして――――
「覚えているのか?」
霧香の思考を到らせたのは、憶人の反応だった。
「えっ?」
「まだ足りないのかよ……」
頭を抱え、閉じこもろうとする。
「憶人?」
「じゃあもっと深く……」
もう一度、霧香は名前を呼ぼうとした。
だが、その瞬間に、音が響いた。
たった一拍だけ。それでも意思が止まるほど不気味で不快な、心音のような音。
そして、目の前の憶人のまぶたが下がり――――
「あっ……」
憶人の身体は崩れるようにその場で倒れ込んだ。
「憶人っ!」
すぐに駆け寄ろうとした、数歩の距離。
それが、一瞬で消えた。
「えっ?」
周囲にはいつの間にか白霧が現れていた。両手の届く距離より向こうがまったく見えないほどに濃い。
霧香は自分が公園にいるのではないと気づいた。白霧以外のすべてが消えていたのだ。
「我々は対処する」
そして、言葉を失っていた霧香に届いたのは、抑揚がまるで無い少年の声。霧香は周りを見回したが、声の主は見えない。
すると、カキンと足元で音がした。見下ろすと、鈍く輝く真鍮色の鍵があった。
霧香は思わず屈んでその鍵を拾い上げた。冷たさが指先に伝わる。
「洲本霧香は鍵を得る」
今度は少女の声。やはり抑揚がまったく無く、姿も見えない。
「「霧は晴れる。そして、洲本霧香は知る」」
少年と少女の声が重なる。どこまで広がっているのか分からない空間の中で、その声は響くことなくまっすぐに霧香へ届いていた。
「誰?」
ようやく霧香が発した言葉。だが、それは誰にも届くことなく――――
「「すべてを」」
少年と少女の声がそう告げた瞬間、霧香の全身を激痛が襲った。
「うっ……うあっ……ああっ……!」
感覚のすべてが痛みに塗り変わる。逃げ場がなく、身体の芯まで到達するしかなくなり、思考までも痛みだけに塗り替えられてゆく。
そんな激痛は、襲来と同じように一瞬で消え去った。
「がっ……はっ……はっ……」
荒れた呼吸。抜ける力。霧香はその場に背中から倒れ――――そして気づいた。
「ここは……」
見知った場所。幼い記憶にも、とても近い記憶にもある場所。
霧香は夏の夜の山にいた。
「そういえば……」
夏休みの終わり頃、ここで天体観測をしたのを思い出す。改めて考えれば、この一週間でそのことを思い出したことはなかった。
なぜ思い出さなかったのか。記憶の消失に抗っていたことだけが理由ではないと、理由のない思いが頭に浮かぶ。
「お~い! 準備できたぞ~!」
おもむろに耳に届いたその声を、霧香は知っていた。
「は~い!」
その返事の声も、霧香は知っていた。
もっと厳密に言うなら、霧香は“思い出した”のだ。
夏休みの終わりのことを。天体観測をしに幼なじみが夜の山に集まったことを。
振り返れば、憶人が望遠鏡を調整していて、十夜がその手元をライトで照らしていた。視線を移せば、斜面に広げられたシートの上に、舞がいて、沙那がいて、そして霧香自身がいた。
霧香は察した。
自分がいま、記憶を辿っているのだと。
携帯の着信音が響く。
「おいおい、音切っとけよ。せっかく自然のいい音が聴こえるってのに」
「あれ……ひとつじゃない……?」
「二人同時か。珍しいな」
「「ちょっと待ってて」」
笑いあう自分と舞。
「「もしもし……」」
そこからが、霧香がいつの間にか失ってしまっていた記憶だった。




