切れ間
「とりあえず日陰! 日陰は!?」
霧香が去ってすぐ、十夜は周りを慌てて見回して、日陰になっている場所を探した。そして、数歩の距離に観戦用の簡易スタンドがあるのを見つけると、十夜は呆然としている沙那の背に腕をあてがい――――
「っ……!?」
しゃがんで膝裏にも腕をまわすと、沙那を抱え上げた。
その格好は、沙那の意識を呼び戻すにはやや刺激が強すぎた。
「十夜……違うって……」
沙那は慌てて十夜を見上げて言ったが――――
「すぐそこだからな! すぐ横になれるからちょっと我慢しろよ!」
沙那の小さな声が焦る十夜に届くはずもなく、能のように重心を保ったままスタンドのほうへ早足に歩く十夜を止めることはできなかった。
そんな短くも恥的な移動の末、沙那はスタンドのベンチにそっと下ろされた。
「十夜……だから大丈夫だって……」
身体を起こそうとした沙那だったが、十夜は沙那の肩を掴んだまま眉間を押さえて目をつむっていた。
「えっと確か頭を高く……高くして……それから~えっと~……」
「十夜……」
「あっ、できるだけ風通し……は大丈夫か。服は前開きなら開けておく、だっけ……」
そこでようやく十夜は目を開いて沙那を見下ろし、至ってはっきりした目で見上げられていることに気づいた。
「十夜……ストップ……」
「あ、お、おう……」
十夜の空いているほうの手が宙で止まる。
「わたし……熱中症じゃない……」
「おう……えっ?」
「だから……服の前……開けなくていい……」
沙那は顔を背けながら、ラッシュパーカーの胸元を両手でぎゅっと握り締めた。
「……」
十夜はその言葉の意味をゆっくりと理解してゆき――――
「あと……肩……放して……起き上がれない……」
「……」
それまでの自身の行動を振り返ってゆき――――
「うっそだろ……」
沙那の身体を起こしながら、空いているほうの手で自分の目元を覆った。
「紛らわしいにも程があるだろ……」
「ごめんね……」
「いや、それでもほとんど俺の早とちりだな。沙那が謝ることねえよ」
十夜が手の間からわずかに目線を通す。
「そんでもって、俺は霧香ちゃんにも謝んねえといけないわけかこれは……」
「……」
「うっは~やらかしたぁ……」
「……」
「あぁ……」
黙りこくる沙那に、十夜の声もしぼんでゆく。
二人の沈黙には、それぞれ異なる感情があった。一方は純粋な恥じらい。そしてもう一方は――――
「買ってきたよ……ってあれ?」
霧香の声。
沙那の身体がこわばる。
「あ~……ありがとう霧香ちゃん。そう、これなんだけどさ……実は沙那、調子悪かったんじゃねえんだ」
「えっ」
「ごめん! 俺の早とちりで慌てさせたうえに手間かけた!」
沙那の背後のやりとりに、あの痛切な想いは名残さえもない。
「大丈夫なんだったらいいよそんなの。それじゃあ、買ってきたこれ、どうしよっか?」
「ああそりゃもう、俺がおごるよ。二本か……じゃあ霧香ちゃんと沙那に一本ずつで」
「誰が誰になにをおごるって?」
舞の声が加わる。
「うわっ! ちょっ、お前らなんでこんなタイミングで登場すんだよ……」
「俺らも慌てたよなぁ?」
憶人の声もだ。
「そうそう」
「ああもう分かったから! あとでおごってやうから、とりあえず先に遊ぼうぜ。おっ、ボール持ってきてたのかよ。気が利くな」
「レンタルしてきたのよ」
「ここでボールがありゃ、あれだな?」
「ああ」
「おい沙那? 本当に大丈夫か? 大丈夫ならプールバスケやろうぜ」
十夜の声が自分に向けられたのを、沙那は感じた。
「沙那?」
再びの声かけ。答えるしかなかった。
「もう少し……ストレッチしてから……行く……」
戸惑いの間。十夜の表情を、俯いたままの沙那は窺うことができない。
「お、おう。じゃ、先、行ってるからな」
十夜たちの気配が遠ざかる。プールから水しぶきの立つ音が一発。それに続いて、水の立てる音が断続し始めた。広い五〇メートルプールに入っているのはほとんど十夜たちだけだが、そのにぎやかさは空き具合を感じさせないほどだ。
沙那は一緒に行かない理由にしたストレッチを始めた。時折プールのほうを見やると、四人は誰もが実に楽しそうに遊んでいた。
その遊びの中にある流れは、初対面の堅さや探り合いを解きほぐそうとし合うというものだ。その流れを当然と捉える思考と、気味の悪い虚飾と捉える思考とが、沙那の頭にはあった。後者を生み出している原因、偽りが無いようにしか見えない霧香の笑顔を、沙那はまともに見ることができなかった。
憶人はひたすらに考えていた。
霧香と沙那との間になにかあったというのは確かなはずだが、事情を訊こうにも、遊びの最中に自然な流れで訊くことはほぼ不可能だった。
「おわっ!」
霧香の投げたボールの勢いに負けて、十夜が盛大な水しぶきとともに水中に沈む。それを見て、霧香と舞が笑っている。そこに不穏さはまるでない。
今の自分の態度がどう見えているのか、憶人は唐突に知りたくなった。霧香のように、あるはずの不穏さを完璧に包み隠せているのだろうか。あるいは、どこか悟らせてしまっているのではないか。それは、自分だけでは決して答えの出せない疑問で、それでも憶人はただひとりだけで考え続けている。
「次、憶人と霧香ちゃんでチームね」
「彼女の前で恥かかせたらぁ!」
舞と十夜の声が憶人の耳に届く。霧香が近づいてくるのが見える。舞と十夜の表情にはからかいがかなり混じっている。
またあるいは、そもそもが自分の見間違いだったのではないか。ふと、憶人はそんなことを考えた。
垣間見えただけだった。今日は太陽がよく照りつけ、影がいつもよりいくらか濃く見える。そのせいで、少し大げさに受け取ってしまっただけなのかもしれない。霧香はただ沙那を心配していただけで、不安そうな顔が、そんな影のせいでまるで冷血に徹する覚悟を決めたように見えただけなのかもしれない。“そうなのかもしれない”という言葉が、憶人の思考の中で“そうあってほしい”という意味に変わりたがっていた。
その時だった。
「おりゃ~っ!」
気合じゅうぶんな舞の声とともに投じられたボールが、憶人と霧香の頭上を勢いよく越えて、かなりの遠くまで飛んでいった。二〇メートルは飛んだだろうか。
「ごめ~ん!」
そして、そのボールを取りに向かおうとしたのは、憶人だけではなかった。
「あっ、舞お前、まさかこれ狙いか!?」
「二人で取りに行ってきてね~」
十夜と舞とに背を向けるという格好の状況。それを狙っていたのは、霧香も同じだった。
遠くまで飛んだボールを憶人と霧香が追いかけてゆく中、舞が十夜の耳元に顔を寄せた。
「やっぱどっかおかしいよね……」
舞の視線の先には、ひとりで延々とストレッチを続ける沙那がいる。
「どこが……いや、まあ確かにちょっと変だな。なんつうかこう……避けてる?」
十夜も沙那を見るが、一向に視線が合う気配がない。
「霧香ちゃんをね」
「えっ、マジでか? てっきり俺のことかと」
舞が呆気にとられる。
「あんた……まあどうでもいいわそんなの。とにかく、霧香ちゃんはなんにもないようにしてるけど、あたしと憶人がボールをレンタルしに行ってからあんたが来るまでの間で、あの二人にはなにかがあった、ってあたしは考えてるのよ」
「でもよお、女子ってそういうのを周りに合わせて隠すもんなんじゃねえの?」
「……まあそれは男子目線で言ったら普通なら正しいんだろうけど、あんた相手が沙那だってこと忘れてない?」
「あそっか……」
ちょうどその時、憶人の投げたボールがかなりの速さで十夜のもとへ飛んできた。
「おっと!」
十夜が驚きつつも余裕をもってボールを受け止める。
「女子のことは俺にどうこうできそうにねえし、ちょっと頼めるか?」
「頼まれなくても。ただし、あたしはなにかあったら沙那の味方になるからね」
そう言い残し、舞は沙那のほうへ向かっていった。
「本当に今じゃなくていいのか?」
「うん」
「……分かった」
舞は沙那のいるスタンドの前まで泳ぎ、プールの縁にもたれかかった。
「沙那~早くおいでよ~」
沙那が舞の声に気づいて顔を上げる。
「そんなにストレッチばっかしてると伸びきっちゃうよ」
「うん……」
「やっぱここのプールは怖い?」
「まあ……少しはね……でも少しだけ……」
「そっかぁ」
舞の声には深い優しさがあった。かえって頼るのをためらってしまうほどに。
「そういやさぁ、沙那って昔はいろんなことが怖くてなんにもできなかったのに、今はそうでもなくなったよね」
「そう……?」
沙那の興味がぐっと舞へと向かう。
「ここのプールだって、十夜が無理に引きずり込んでトラウマにはなったけど、そのあと何度も、怖々だったけど自分から挑戦して、今はもう普通に来るとこまではこなせるようになってるもんね」
なぜそんなに頑張って克服しようとしていたのか、沙那は自分のことながら、はっきりとは思い出せなかった。
「怖いもの見たさかな?」
「たぶん……少しだけある……」
「少しだけでも、あんなにたくさんあった“怖いもの”がこんなに減っちゃったんだもん。沙那って地味にすごいよ」
「地味に……」
「うん、地味に」
普段の舞ならば否定するところだが、そうはしなかった。
「地味だけど、派手じゃないけど、本当にすごい。きっとトラウマってそういうものだよ。怖いものだってそう。越えるのが体感の何倍も難しいんだよ」
「……」
「って言っても、あたし自身にそういくつもトラウマがあるわけじゃないけどさ」
「それ……ここで話す……?」
「……確かに」
舞と沙那はほとんど同時に周りを見渡した。
ひと筋ごとなら不規則に見える白い波紋が、見渡せばぼんやりと規則立ってくる。波紋はその下に明るい青を深く湛えている。かつてはそこにかわいらしい仮面を着けた凶悪犯を見ているような恐怖を感じていた沙那。正しく見えていなかった――――いや、正しく見ようとすることができていなかったのだと気づいたのは、何度目の挑戦の時だっただろうか。
その時に知ったのは、正しく見る勇気だった。
「沙那」
「なあに……?」
「今日はさ、泳ぐ練習してみない? あたしと二人で」
それは、とても見事な口実だった。
「舞が……教えてくれるの……?」
「うん。まあ、そもそも沙那ってここ以外ならそれなりに泳げるんだし、教えることはあんまりないかもしれないけどさ」
「ううん……わたし……舞に教えてほしい……」
「そっか。じゃあ決まりだね」
舞がくるっと十夜たちのほうへ振り返る。
「十夜~!」
舞の呼び声に十夜が気づく。
「あたしと沙那は向こうで泳ぎの練習してるから~!」
「おう分かった~!」
十夜が手を挙げて了承を示す。
「よし、と。じゃあ行こ?」
舞がプールの縁を離れ、十夜たちとは反対側へと進み始める。
「ありがとう……」
沙那の囁きは自分にだけ届いた。ややあって沙那もベンチを立ち、舞のあとを追った。少し離れてしまっていたこともあり、沙那は急いだ。
そして、プールサイドを走ってしまった。
「そんなに急がなくても――――」
駆け寄る沙那へ舞がそう声をかけた、まさにその瞬間、沙那の足が小さな水たまりの上を滑り抜けた。
「あっ!」
そうとっさに声が出たのは、見ている舞のほうだった。
足を滑らせた沙那のほうは、自分の身体が背中側へ倒れてゆくのをひどくゆっくりと感じながら、不思議な思考を巡らせていた。
(あぁ……これはもしかすると……大怪我になるかも……)
最初は危険を他人事のように考え――――
(こういうことになるから……いつも十夜が……注意してくれてたのに……)
自分の軽率さを悔い――――
(わたしって……昔から変わってない……)
未熟さと成長のなさを恥ずかしく思って――――
(自業自得……)
諦めると同時に、コンクリートのプールサイドに身体を打ちつけた。
「沙那っ!」
舞の叫び声が五〇メートルプールに響き渡る。沙那はその声を聴きながら、まだ不思議な時間の中にいた。
(空が青くて……太陽が眩しくて……これも変わらないんだね……)
視界はくっきりとしている。頭は打っていないようだ。
(舞が真っ先に来てくれるのも……みんなすぐに来てくれるのも……まったく変わってないなぁ……)
「沙那っ! 大丈夫!?」
舞の声は聴こえていたが、沙那は気に留めていなかった。
(みんな……みんな……っ!?)
気に留まらなかった、というほうが正しかった。
もっと大きなことが気に留まっていたからだ。
(霧香……そう……霧香もいた……)
その記憶がどこか遠い場所から蘇った瞬間、この数日、今日の数時間の記憶が、どれほど歪なものだったのかを、沙那は知った。
(なんで……わたしは……)
そこに感じた思いは様々で、ただ、そのすべてに共通していたのは――――
(なんで……霧香のことを……忘れてしまっていたんだろう……)
謝らなければという思いだった。
聴界に声が戻りゆく。だが、訊かれていることをすべて無視してでも、沙那には真っ先に告げたい言葉があった。
「霧香……」
聞こえたか定かではないほどの小さな声。
“ごめんね……ずっと思い出せなくて……”
そう言うつもりだった。言い始めた瞬間でも、そう思っていた。
そして――――言葉は堰かれた。
「あ……あぁ……っ」
感情の極致でも、涙の抗力でもなかった。ただ絶対なだけの力が、沙那の言葉を封じ込めていた。
(言いたい……言いたい……!)
その願いもやはり言葉にならない。心だけが無力にもがく。
(なんで……なんで……っ)
涙は心の中だけに。そしてそれすらも力が押し戻してゆく。
そのベクトルに、沙那は悟った。自分が再び霧香を忘れようとしていることを。
(いや……いやっ……!)
抵抗は表に出ない。ただひたすらに心の中にだけ。時間も幅を持ってくれない。
縋ることもできないと察しながらも、沙那が最後の瞬間に縋ろうとしたのは――――
(霧香……)
そして、力は沙那を押しきった。
「沙那?」
声をかけてきた舞のほうを見ながら、沙那はすっと身体を起こした。
「大丈夫……痛いけど……頭は打ってない……」
「よかった……じゃねえよ! だから『走るな』って言っただろうが……」
「落ち方っていうか、滑り方がきれいすぎたね。その場でまっすぐって感じだったから、擦り傷が少ない」
安堵が舞の声に映る。憶人、霧香、十夜もひとまず安心した。
「肩から落ちたように見えたけど、どのくらい痛い?」
「けっこう……」
沙那が左肩にそっと手をあてる。
「なんにせよ、ひとまず遊びは終わりだな。帰って処置しねえと」
そこへ、監視員が近づいてきた。
「大丈夫ですか? ケガは?」
「あっ、一応そこまでじゃないみたいなんで、大丈夫です」
舞の返事を聞くと、監視員は腰に提げていたトランシーバーで連絡を取り、また舞たちのほうへ振り向いた。
「手当てなら入口横の事務室でできるように用意させますので、とりあえずそこまで行ってください」
「あっ、はい。ありがとうございます」
監視員は軽く頭を下げると、またトランシーバーで連絡を取り始めた。
「立てる?」
舞に訊かれ、沙那は自分で立ち上がった。
「歩ける?」
「大丈夫だよ……肩だけだから……」
舞の心配ぶりが少しだけ空気を和ませる。
沙那たちは事務室へ向かい始めた。沙那は、肩の痛みとは別の、どこなのかも分からない鈍痛を感じていた。圧されたり刺されたりするようなものではなく、引っ張られる時のものに近いその痛みに、沙那は理由もわからないのに悲しさを感じていた。




