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霧の中の記憶  作者: 雪原たかし
水面に添いて
23/39

再生試行

 答えへの思考。

 今この瞬間に霧香が強いられる、試行なしの一発回答。

 途方もない難題のように思える。理に適う答えなどないように思える。それでも、自身のすべての思考と記憶を呼び起こさなければならないと思って――――

(……あれ?)

 これまでを振り返ろうとした霧香は、気づいた。

(どうして“本当は幼なじみであること”を隠しているんだっけ?)

 気づいた瞬間に、どうして今まで気づかなかったのかと自分が信じられなくなるようなもの。まさにそれだった。

 ひとつの気づきが、今までの記憶の見え方を一気に変えてゆく。

 最初の狙いは“人々から消えてしまった今までの自分を取り戻すこと”だったはずが、今まで自分がしてきたのは“人々に自分の記憶を残すこと”だったということ。

 そんな間違いをしてしまった原因は“記憶が消えたのだと思い込んでしまったこと”だろうということ。

 そして、“記憶に残るためにはなにかを偽らなければならないのだと信じきっていたこと”。

 笑った。心の中だけが。自分を嘲笑うためだけに。

「いやいや、知ってて当たり前だよ、沙那は深いプールが苦手だってことくらい。だって幼なじみだよ?」

 それは紛れもなく真実だった。だからこそ、真顔で言った。

「えっ……?」

「一緒に何回ここへ遊びにきたと思ってるの? 沙那だけじゃない。憶人も、舞も、十夜も、みんな一緒だった。五人で来て、今日とおんなじように十夜がどこかのプールで必ず飛び込んで注意されて、五〇メートルプールが空いてたら絶対に寄って、みんなで沙那がプールからあがったままでも楽しめるようなこと考えて……」

 言えることが、言葉にできることが、どれほど軽やかな気分にさせてくれることか。そんな感慨とともに深く吸った息の熱さが、胸の奥をきゅうっとさせる。その感覚を、霧香はなぜか愛おしく思った。

「一番最初に来た時に十夜と私とで無理やり引き込んじゃって、まだ足が底に着かない頃で、すっごく怖がらせちゃったこと……絶対に忘れるわけがないよ。それから学校の授業とかでなんとか克服はしたけど、この深さのプールは嫌いになっちゃって、ずっと後悔してたんだから」

 遠くの監視員には聴こえず、すぐそばの沙那にはどうしようもなく聴こえてしまう、霧香の声。理解の及ばないままにただ驚くことしかできないでいる沙那を見ても、霧香は言葉を続ける。解放感と願望の赴くままに。過去と繋がった重い後悔を引きずりながら。

「まだ忘れてるの? 思い出してよ。もうさぁ……終わるんだったら早く……早く終わらせてよ!」

 怒りではなかった。請願だった。急変した語調に沙那が飛び上がっても、霧香が言葉にしたのは請いだった。願いだった。

 “五日間”と言葉や文字にすれば短く、記憶の中ではどこまでも長かったように思える時間。それを自分だけの理由にして、霧香は沙那に請い、願ったのだった。




 “幼なじみだよ?”と言われて、沙那は当然のことながら驚いた。

 だが、同時にほとんど根拠無く、そのとおりなのかもしれないと思ってしまった。

 霧香のことは今日になって初めて知った。幼なじみは、舞、十夜、憶人だけで、四人での思い出がたくさんある。そう断言できるというのに、その思い出の中に霧香がいてもまったく違和感が無いような――――いや、“霧香は幼なじみだ”とはっきり言いきってしまいたくなるような、自分ではまるで分からない気持ちがあることを、沙那は否定できなかった。

 心のすべてで叫んだような霧香の姿。まるで自分が知らないところで霧香を傷つけたかのように思えた。

 記憶にはなにも異常はないように思えるのに、むしろ霧香のほうになにか異常があるように見えるのに、否定するための理由はいくつも挙げることができそうなのに、あらゆる非が自分にあるように思えてしまう。

 心臓が痛い。息が吸えも吐けもしない。なにもかもが分からない。

(どうして……こんなに……怖いの……?)

 自分の記憶が上塗りされてゆくような感覚。それに抵抗したいという意思は、沙那に言葉を与えた。

「人違い……そう……人違いだよ……」

 どうして声が震えているのか。どうして視線が逸れてしまうのか。どうしてまるで自分がわがままを言っているような気持ちになっているのか。沙那はなにも理解したくなかった。ただ単純に、逃れることだけしか考えられなかった。




 沙那を怯えさせていることに、霧香は気づいた。それ以外のものはなにも生まれていないことにも気づいた。

 短い言葉。互いを揺るがして得たものはたったそれだけで、そこから加わる力はどこまでも凶暴で、心に残されたのは痛みだけだった。

「……ごめん」

 呟きにしかならない。

「ごめん……ごめんね……沙那……怖がらせて……私……」

 沙那のような、間のある話し方。

「……迫真の演技にしようと思って、やりすぎちゃったんだよ。本当にごめんなさい。幼なじみの話のネタは全部憶人から聞いたんだよ。悪ふざけで怖い思いをさせて、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 取り繕いの拙さに意識が及ばない。ただひたすらに罪悪感と自己嫌悪だけが思考を駆け巡る。選べる言葉が激減し、そのわずかな言葉を組み合わせることすらできなくなってゆく。

「ごめんなさい……ごめんなさ――――」

「よっしゃ霧香ちゃんはっけ~ん!」

 突然の陽気な声。その主は十夜だった。

「沙那も一緒か。……ってあれ? 憶人と舞は?」

 十夜は満面の笑みで霧香と沙那のほうへ近づいたが、沙那の顔を見るなり血相を変えた。

「ちょっ、顔青っ!? おいどうした沙那、熱中症か!?」

「えっ……いや……」

 答える沙那の声はいつにもまして小さく、身体も軽く震えている。十夜の見立てはごく当然のものだった。

「ちょっ、霧香ちゃんとりあえず飲み物! スポーツ飲料系のやつ!」

 十夜が慌ててポケットから硬貨を出し、霧香の手のひらに叩きつけるようにして渡す。その衝撃が、霧香の意識を一瞬、まっさらにさせた。

「あ、でも走っちゃダメだからな! 俺が言えたことじゃないけど!」

 そして、沙那を日陰に連れて行こうとする十夜とは反対の方向へ、霧香は歩き始めた。走らず、それでも最大限の速さで。

 再び動き始めた霧香の思考は、どこまでも冷たかった。




「なあ、水球ってこういうビーチボールじゃなくて、もっとハンドボールっぽいものを使うんじゃないのか?」

 出入口近くのレンタル受付でボールを調達した憶人と舞は、五〇メートルプールのほうへ引き返していた。

「だから分かんないってば。てかハンドボールっぽいボールなんてレンタルになかったじゃん」

「……確かに」

 憶人はビーチボールを軽く投げ上げると、両手でバンッと挟んだ。

「そもそも別にハンドボール……じゃなかった、水球をしなきゃいけないわけじゃないし、沙那をプールサイドに上げたままだったら……やっぱりあれかな? えっと……なんて名前つけてたんだっけ?」

「プールバスケ」

「そう! それそれ!」

 プールバスケは、沙那以外の四人を二対二に分け、攻撃側がプールサイドに座る沙那のもとへボールを届けるというルールの遊びで、考案者は憶人だった。

「多分そうなるだろうと思って、それなりの重さのあるやつ選んでおいたぞ。そのほうが狙ったところに投げやすいだろ」

「さっすがぁ!」

 舞が胸の前でパンッと両手を合わせる。

「まあ小学生の頃とは体格が違うから同じようには……」

 憶人の言葉が途切れる。

「ん? 憶人?」

「あれって……霧香か?」

 目を凝らす憶人の視線の先を、舞も追った。

「……ほんとだ。てか歩くの早っ!」

 わずかに下を向き、かなりの速さで売店のほうへ歩き去る姿。やや遠いものの、霧香に間違いなかった。

 憶人と舞は霧香のもとへ歩いていった。




「スポーツ飲料ください」

 霧香は売店のカウンターに着いてすぐに注文した。

「いくつっすか?」

 よく日焼けした店員の青年が訊き返す。

「……二本」

「ペットボトルっすね。飲み終わったら近くのゴミ箱にお願いしやっす」

 店員が手を入れたカウンターの下から氷の音が鳴り、青いペットボトルが二本取り出された。

「えっと、二〇〇円っす」

 十夜から受け取った硬貨はすべて一〇〇円玉だった。カウンターの上に二枚を置く。

「ざいやっした~」

 左右の手に一本ずつ掴んだペットボトル。よく冷えている。手が痛くなるほどに。

 霧香は五〇メートルプールへ戻ろうとした。

 その時――――

「買い出しか?」

 霧香は立ち止まった。

「あれ? 霧香ちゃんひとり? 沙那は?」

 憶人と舞は霧香に追いついた。

「……五〇メートルプール。調子悪そうで、熱中症かもしれないから飲み物買ってきてって十夜に頼まれて……」

 俯いたまま答える霧香。

「えっ!? じゃあさっさと――――」

 霧香の握るペットボトルを取って走り出そうとした憶人。だが、すぐに止まった。

「霧香……?」

 異常なまでに強く握り締められていたペットボトル。憶人の手は滑り抜けてしまっていた。

「きり――――」

 再び言おうとした憶人の横を、霧香はすり抜けた。

「っ……!」

 憶人の息が止まる。その一瞬に垣間見えた、霧香の横顔の深い影に。

「ちょっ、えっ? 霧香ちゃ……てかちょっと? 憶人?」

 ややあって振り返ると、霧香は五〇メートルプールへと続く階段を昇って、ちょうど視界から消えゆくところだった。

「とっ、とにかくあたしらも行かなきゃ。ほら憶人っ!」

「お、ああ……」

 舞に促され、憶人は再び駆け出した。

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