不意
九月ともなると小中高生の姿はほとんど無く、客自体も夏休み中の混雑と比べれば明らかに少ない。ほとんど水だけが流れている流水プールや、人の波になっていない造波プール、待ち時間の無いウォータースライダーなど、繁忙期には見られないような光景を目にすることができたが、憶人はそれらに不思議と寂しさを感じていた。
「うっは~! 流れるプールまでほとんど貸切状態じゃねえか!」
そんな憶人の気持ちをまったく察することなく、十夜は流水プールへと飛び込んでいった。
ひとりだけで。
盛大な水しぶきが上がる。すかさず監視員の笛が響いた。
「飛び込まないでくださーい!」
十夜が水中から顔を出す。
「ごめんなさーい! ……って、みんなどこ行った?」
十夜は憶人たち四人の姿を見失っていた。
「ほんっとあいつはガキの頃からまるで変わらねえな……」
憶人たち四人が十夜を放置して向かったのは競技用の五〇メートルプールだった。
「にしても、普通その水着で真面目に泳ごうとするか?」
見るのか見ないのかはっきりしない態度で、憶人が舞に訊いた。
「開放してるほうで遊ぶんだよん。水球しよ水球。あ、でもやり方知らないから“水球もどき”になるのかな?」
大会等が無い日は五〇メートルプールが一般にも解放される。半分はコースロープを張ってタイム測定などのためのコースにされ、もう半分はやや深めのプールとして比較的自由な用途で利用できるようになっている。
「てか憶人、あんたさっきから霧香ちゃんのことほとんど放置してない?」
舞が憶人の耳元に顔を近づける。
「え、そうか?」
憶人は少し離れたところにいる霧香のほうを見やった。沙那となにやら談笑しながらストレッチをしている。先ほどの様子を鑑みるに、霧香は早くも舞や沙那とかなり仲良くなっているようだと憶人は察した。更衣室でなにがあったのかを考えるのは――――やめておいた。
「まあ、お前らと楽しそうにしてるならいいんじゃ――――」
「しゅとっ!」
舞が憶人の胸の上に手刀を振るった。
「なんだよ?」
「デートにあたしら巻き込んだって分かってからまさかとは思ってたけど、憶人あんたねぇ……」
腰に手を当てて盛大にため息をつく舞。
「いい? まあ確かに今のところ霧香ちゃんのほうもそんなに憶人といちゃつきたいって感じは無いけどさ――――」
「いちゃつき!?」
憶人の声が上ずった。
「なんて声出してんのよ」
「あ、いや……」
憶人はまた霧香と沙那のほうを見やったが、二人は憶人の奇声に気づいていなかった。
「まあとにかく、あの子がどんだけ隠そうとしても、きっとそういう気持ちがふっと出ちゃう時があると思うのよ。そういう時はあたしが合図出すから、ちゃんと二人になってあげること。いい?」
「お、おう……」
舞の面倒見のよさに、憶人は圧され気味だった。
「で、ボールはどうするんだ?」
「あ……」
五人ともが、ボールはおろか、浮き輪のひとつも持参していなかった。
「レンタルかぁ……思わぬ出費だね」
「俺に出せと?」
「そういう目に見える?」
そういう目に見せていた。
「ああ」
そう答えるほかなかった。
「やっぱり洞察力はさすがだね小説家はっ!」
舞が憶人の背中をバシっと豪快に叩く。その微妙な痛みに、十夜を放置しなければよかったと憶人は後悔した。
憶人と舞が「ちょっとボール借りてくるね」と言って背後を通り過ぎたのを確認すると、沙那は霧香に囁いた。
「予想どおりだった……とは言えないね……」
「あ~確かにね。せっかく誰もデザインから色までまったく被らなかったのにね」
霧香がパレオを脱ぎながら答える。
「甲斐性なしというか……なんかごめんね……憶人があんなふうで……」
霧香はパレオをさっとたたむと、苦笑いになりながら背伸びをした。
「まあプールは五年ぶりなんでしょ? 戸惑うのも分からなくはないよ」
「わたしだって……五年分成長したのに……」
「こんなにかわいいのにねっ!」
霧香が沙那の背後にまわって抱きしめる。
「わ……!?」
太陽の熱。遊びが誘う高揚感。それでも、霧香は冷静だった。
男子どうしよりは身体が触れあうことへの抵抗が小さいとはいえ、それなりの親密さがなければ女子どうしであってもやはり反射的に触られたり抱擁されたりするのを嫌がってしまうものだ。
だが、沙那は驚いたものの、ほとんどされるがままになっていた。
「なんだろう……霧香ちゃんって……しっくりくる……」
「えっ?」
沙那が少し力を抜いて、霧香の腕に身体を預ける。
「わたしって……けっこういろんな子から……こういうことされるの……でも……舞にされるのと……他の子にされるのとだと……なんだか違う感じなの……霧香ちゃんは……舞とおんなじ感じ……」
驚きは霧香の目を見開かせたが、それは誰にも見えていなかった。
「それって……どういうこと?」
「なんだろう……自分でも……あんまり分からない……」
「……ふふっ、変なの」
霧香が沙那の両腕を掴んで上へ引っ張る。バンザイのような格好にされた沙那だったが、抵抗はしない。それどころか――――
「ストレッチガ~ル……見……参……」
沙那はクイッと顔を上げて、どうにも決まらない決めセリフを言った。
間が少し空き――――
「くっ……ふふっ……あはははっ!」
霧香は沙那の腕を放し、腹を抱えて笑い始めた。沙那もつられて笑顔になる。霧香がなぜ笑っているのかは分かっていなかったが。
ひとしきり笑ったあと、呼吸を整えながら、霧香は何気なく訊いた。
「はぁ~……そういえば、沙那はなんで一緒にストレッチしてくれてるの?」
「え……?」
「だって――――」
その瞬間に、霧香は気づいた。ごく当然のように出かかっているその言葉が、今の霧香にとっては言えるはずのない言葉であることを。
立場の反映。それは、状況が始まってから今までずっとこなせていたことだった。その突然の瓦解に、呆然としている暇はなかった。
止めなければ。思考は追いついていた。
だが――――
「遊びだとこの深さのプールには入らないでしょ?」
滑るように、言葉は出てしまった。
「え……?」
同じ言葉。違う意味。
「なんで……知ってるの……?」
沙那にとってその事情は、いざプールに入ろうと誘われた時に打ち明けるか、舞に言ってもらおうと思っていたことだった。なぜなら、それは“幼なじみしか知らないこと”だったからだ。
互いが言葉に詰まる。一方は得体の知れない不安。もう一方は閉じゆく扉を前にするような焦燥。ただ、沈黙を破らなければならないのがどちらなのかは、すでに決まっていることだった。




