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九月四日。金曜日。午前七時。
登校するなり靴箱の位置と上履きの有無を流れるように確かめたところで、霧香は動きを止めた。確かめ方が板に付いていることを自覚してしまったからだった。
「なんなんだろうね……」
上履きは、やはりいつの間にか霧香の手に握られていた。
一組の教室に入る。憶人はおろか、まだ誰もいない。座席表を確認すると、やはり最後方の窓際に名前があった。
慣れ。今やそれが霧香にとって最も嫌いなものになっていた。
「今日も一番乗りか」
憶人がドアのそばから声をかける。霧香はすぐに振り向いた。
「おはよう」
「ああおはよう」
あいさつを終えるなり、霧香が席を立つ。
「どうした?」
「転校生は最初から教室で待っていたりしないでしょ」
そう言うと、霧香はカバンを持って教室を去っていった。
世界は変化していないということを、憶人は確かめた。同時に、変化しているのはずっと霧香のほうだったのだということに、憶人は気づいた。
こうして試し続けているうちに、いつかどれかが記憶に残る。そう信じる気持ちは、潰えてしまうにはまだ早い。霧香自身はそう思っていた。
だからこそ、冒険をするべきだと考えた。
「わっほい! やべえぞこれ! やっべえ!」
「うるさい朝来!」
担任が怒声を飛ばしたが、霧香が教室に入って騒ぎだしたのは十夜だけではなかった。憶人は相変わらず静かなようでいて、霧香のことをしっかり見守っている。変化があるのが当たり前なのだと言っているようで、霧香は悲しさを覚えた。
ただ、霧香はそんな感情をほんの少しも顔に出してはいなかった。
それどころか、朗らかに笑っていた。
「それじゃあ、自己紹介しろ」
昨日の雰囲気を淡い青だとするならば、今日の霧香は鮮やかな朱色だろうか。そう憶人には感じられた。
「はじめまして、洲本霧香です! 今日からこの学校でお世話になります。家の都合で少し中途半端な時期の転校生になっちゃったけど、気兼ねせずに接してくれるとうれしいです。というわけで、これからよろしくお願いします!」
誰を参考にしているのかすぐに分かってしまうほどに、霧香は大胆に変わってみせた。
ほとんど間を置かずに舞が先陣を切って拍手を始め、一瞬でクラス中に広がった。
「やっぱり舞にしたのか……」
無意識に声に出ていた憶人の呟きは、拍手の音に隠された。
最初の休み時間。霧香は話しかけられるのを待つのではなく、逆に話しかけに行った。
向かったのは、舞の机。舞と沙那がなにやら話をしていた。
「大河内さんと城崎さん……で合ってるよね?」
舞と沙那が振り向く。
「うんそうだよ」
舞はすぐに返事をした。やや遅れて沙那が頷く。
「洲本さんすごいね、もうクラスメイトの名前覚えてるんだ」
舞が素直に感心する。
「あ~……違うの。憶人くんに教えてもらったんだよ」
聞き耳を立てていた憶人は、霧香が今日は憶人を巻き込むつもりであることを悟った。
「えっ、憶人……てか『憶人くん』!?」
舞と沙那が目を丸くする。
「憶人と……どういう関係……?」
「う~ん……“同志”かな?」
話の流れが変わったのを憶人は察した。
「なんの同志なのか訊いてもいい?」
「えっとね――――」
「なんの話だ?」
危険を感じて、憶人は話に割って入った。
「ちょっと憶人どういうことよこれ!? なんであたしらが知らない間にあんたがこんなかっわいい子と、えっと……なんだっけ?」
「同志……」
沙那が舞にそっと呟く。
「そうそう! なんでそういうのになってるわけ?」
「それは……」
「ピアノの先生が同じで、たまに一緒に弾いたりしてるんだよ」
霧香はあっさりと嘘をついた。
「憶人のピアノの先生って確か市外だよね?」
「えっ? あ、ああ……」
確かに憶人は母親の友人に月二でピアノを教わっている。霧香もピアノを習っていたが、霧香が教わっていたのは別の先生だった。
「私、先生と同じ市に住んでて、こっちに引っ越してきたの」
「ほえ~面白い成り行きだね」
「じゃあ……憶人とどっちがうまい……?」
「それは憶人くんだね。でも、ちょっとだけしか負けてないよ」
実際には霧香のほうがはるかにうまいのだが、それを明かす必要はないと、憶人は判断した。
「一緒に弾くってことは……連弾とかしたことあるの?」
「うん」
憶人は霧香との連弾の記憶を呼び起こしてみたが、幼い頃に数えるほどしかしていない。
「同じ椅子で……とかは……?」
「あ~……そんなこともあったね」
「おいやめろ」
そんな事実は過去を遡っても存在しない。憶人はかなり真剣に制止を試みたが、やってしまってから、それがどう捉えられるのかに考えが至った。
「うっは~、これは熱いっ! 熱いぞっ! うちわがほしいっ!」
舞が自分の顔を手で扇ぐ。
「おい違うって――――」
「これは……言い逃れできないよ……」
沙那が目を閉じて呟く。諦めなければならないことを悟った憶人は、誰にも見えないように霧香を軽く小突いた。霧香は笑っただけだった。
舞や沙那、そして時々、憶人を巻き込んで、霧香は休み時間を談笑して過ごした。
十夜を始めとする他のクラスメイトたちは、霧香に話しかけようとそわそわしていたが、舞や沙那との仲のよさそうな雰囲気に腰が引けていた。霧香はそんなクラスメイトたちの様子に気づいていたが、自分から巻き込もうとはしなかった。
舞、沙那、憶人と、そこまで巻き込むのなら十夜も巻き込んでやればいいのにと憶人は思ったが、霧香の意図をまだきちんと把握できていなかったこともあって、それを言葉にはしなかった。
ただ、霧香たちに呼び寄せられる度に十夜から恨めしげな目を向けられていることに、憶人はしっかり気づいていた。
約束したわけではなかったが、昼休みになると、憶人と霧香は適当な理由をつけて別々に教室を出て、例の階段に向かっていた。
「なんで今日は舞を参考にしたんだ?」
先に着いていた憶人が、踊り場にやってきた霧香に訊いた。
「できるだけ目立ちたかったからだよ」
霧香は憶人の右隣に座り、パンの包装を開けた。
「でも舞と沙那以外にはほとんど話しかけてなかっただろ」
「微妙に距離があるほうが、なんだかもっとちゃんと知りたくなってくるでしょ?」
パンをちぎりながら、霧香が笑う。
「霧香がそのまま振る舞っても普通に目立つだろ」
「う~ん……否定はしないけど、そういうのじゃないんだよ」
嫌味をまるで感じさせない肯定。
「やっぱり私たちって五人とも少しずつ違ってるよね。似てるって言い切れないんだよ」
「あぁ……確かにそうだな」
「だから、近くにいたらそういう少しだけの違いがね、なんていうか……不思議な反応を起こして、すごく大きな違いに見えたりすることがあると思うの」
憶人にもその考えはそれなりに理解できた。
「十夜を巻き込んでないのはどうしてなんだ?」
「……あそっか、十夜もいたんだ」
「おいおい」
冗談でも十夜なら泣いてしまうような扱いだ。霧香に別の計画があることを憶人が察しているだけ救いはあるというものだが。
「十夜メインでいくのはもうちょっと先の話だね。男子中心ってけっこう難しいから。あっ、そういや土日はどうしよっかな」
「あぁ……そういや考えてなかったな」
憶人は思案しようとしたが、言い出した霧香がぼうっと前を向いたままでいることに気づいた。
「霧香?」
「ふあっ!?」
霧香が驚いて飛び跳ねる。
「あぁ……ごめんごめん」
霧香が困り笑いをしながら謝る。
「午後は休むか?」
憶人の提案に、霧香は首を横に振った。
「疲れたんじゃないから、平気だよ」
「や――――」
「約束、ね」
「……」
憶人が俯く。
「すねたの?」
「んなわけあるか」
霧香の明るい笑い声に、憶人は心配を諦めるしかなかった。
「そもそもさぁ、午後は目立つのにうってつけの授業があるんだし、休むなんて考えられないよ」
「うってつけ……あっ」
パンを口に入れようとしていた霧香の手が止まる。
「えぇ……なんで私のほうが覚えてるかなぁ……」
二人ともが苦笑いになった。
“うってつけの授業”とは、体育のことだ。そして、今日は六月から続いていたダンスの授業の締めくくり、グループごとの発表会が行われることになっていた。




