物語る者
ただ黙っていることしかできなかった憶人に、霧香はおもむろに声をかけた。
「ねえ憶人。たまにはさぁ、本を読んでみない?」
唐突さを抜きにしても、その提案は憶人にとって意外なものだった。
「お前、普段は滅多に本を読まないだろ?」
「あっ、違う違う、声に出すほうだよ」
「ああなんだそっちか」
それでも意外なことには変わりなかった。
そして、憶人はふと気づいた。
「で、なにを読むんだ?」
霧香は楽しそうに笑って、こう答えた。
「『霧の中の記憶』」
物語の舞台は、欧州のとある村。
ある夜、主人公の男の子は、村の中でさまよい歩く女の子を見つける。男の子は女の子の危なっかしい様子を見かね、男の子がひとりで住んでいる家に女の子を招き入れる。
男の子から手厚い介抱を受けた女の子は、疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
そして次の日。目を覚ました女の子は、助けてくれた男の子に感謝を告げようとするが、目を覚ました男の子は、その女の子のことを忘れてしまっていた。
女の子はなんとかして男の子に自分を思い出してもらおうと様々なことを試みる。だが、どうしても思い出してもらえない。
それでも、何日も、何日も、女の子は男の子に自分を思い出してもらおうと努力した。あの夜、自分を助けてくれたことのお礼を言うために。
「『ねえ! こんな寒い日にどうして外にいるんだい?』」
男の子のセリフを憶人が読む。
「ところが、女の子はなにも答えません。ただふらふらと歩を進めるばかりです」
地の文を霧香が読む。
「『君がわたしを助けてくれたんだね。ありがとう!』」
女の子のセリフも霧香が読む。
「『ほら、この服に見覚えはない? あの夜に君がくれたんだよ』」
「『……ごめんよ、覚えていないんだ』」
互いに視線は前に掲げる誌面に向けたままだ。
「『じゃあ、今のわたしを覚えていってくれない?』」
「『今の君を?』」
「『そう。いつか君がわたしを思い出した時、ずっと待ってたんだって分かるように』」
霧香と憶人は文芸誌を片方ずつ持っている。ページが終わると必ずどちらかがスッとページをめくった。
「いつまでも待ち続けられないと分かってはいても、女の子は一日ずつを積み重ねました」
「『もう少しだけ待ってあげるからね。まだできることは残ってるから』」
霧香の手に力が入る。
「なにも進んだ気にならなくても、女の子はいつも、眠っている男の子にそう言い続けました」
誌面に落ちた雫が円状に広がる。
ひとつ、またひとつ、円が描かれてゆく。
「『たったひとつの願いのためだけに、わたしは君を待っているんだよ』」
それでも静かに言葉を続け、霧香は読み進めていった。
「『こんなに長い間、君を待たせてごめんね。それと……ありがとう。僕を待っていてくれて』」
結末が訪れる。二人を照らす陽光はもうずいぶん紅くなっている。文芸誌は閉じられ、二人は互いに向き合っている。もうその先は二人ともが覚えきっている場面だった。
「『わたしが君に言いたかったのは、わたしが願ったことは、ひとつだけだよ』」
霧香は笑顔で、涙を目に湛えながら、女の子の最後のセリフを言葉にした。
「『ありがとう』」
本当は、あと一文で完結だった。だが、今さらながら、憶人はその一文を不要だと思った。目の前の霧香を見ていると、そう思わずにはいられなかった。
最後の一文が霧香に読まれることはついになく、二人に語られた物語の結末は、感情と願望を揺さぶられた霧香の、いくつもの意味を溶け込ませた涙となった。




