溶け込む静寂
三度目の転校生。教室に入るまでの流れは変わらない。だから霧香は考えた。
“変えるのは自己紹介からだ”と。
霧香が担任に続いて教室に入ると、十夜が「よっしゃらァ!」と叫び声をあげて跳び上がり、途端にクラスが騒がしくなった。
霧香なら十夜をたしなめるところだ。
だが、今日の“転校生の洲本霧香”はそうしない。
「騒がしいが……洲本、自己紹介しろ」
「はい」
霧香はすっと教卓に歩み寄り、黒板に自分の名前を白のチョークで丁寧に書き始めた。その所作の整然さに、クラスメイトたちは自然と静まってゆく。名前を書き終えると、霧香はくるりと振り返り、スカートの揺れをそっと押さえて止めた。
「はじめまして、洲本霧香と申します。皆様どうぞよろしくお願い致します」
涼やかな声がまっすぐに耳に届く。静的な美しさの極みのような容姿と振る舞いに、誰もが言葉を失っていた。
「先生、私の席はあちらですか?」
霧香が最後方の窓際にある空き机を指して尋ねる。
「あ、ああそうだ」
「着席してもよろしいでしょうか?」
「お、おう」
担任の返事を聞くと、霧香は黒板に書いた名前を消した。
のんびりとは形容しがたく、機敏さを感じさせるわけでもないというなんとも不思議な早さで、霧香が自分の席へ歩いてゆく。その途中で憶人と十夜のそばを通ったが、霧香は目を合わせなかった。その行動で、憶人は霧香が変えようとしているものを察した。
休み時間になると、霧香の机に女子生徒が数人寄ってきた。
「はじめま~してっ、洲本さんっ!」
「はじめまして、えっと……」
困り顔になる霧香。
「あそっか、まだ名前なんて覚えらんないよね。一気に何十人だもんね」
「申し訳ありません」
霧香は少し深めに頭を下げた。
「いやいや、逆に覚えてたら引くって。覚えてないのが普通ふつう」
「なんだろ、洲本さんってなんかこう、うちのクラスの誰かに似てるんだよね」
「あ~分かる。沙那ちゃんあたりでしょ」
「サナさん?」
「城崎沙那って子。うちのクラスのマスコット」
「どの方ですか?」
「えっと……いたいた。あそこの、前のほうの席にいる子でね……お~い! 沙那ちゃ~ん!」
霧香の席から少し離れた席で舞と話していた沙那が、女子生徒の呼び声に振り向いた。
「こっち来て~!」
沙那がとてとてと歩いてくる。
「この子が沙那ちゃん」
「はじめまして、城崎さん」
霧香は微笑みながらあいさつをした。
「はじめまして……」
沙那は少し恥ずかしそうにあいさつを返した。
「んん? こう喋ってもらうとちょっと違う?」
「洲本さんはこう、トントンって感じで話すけど、沙那ちゃんは所々で間があるよね」
「あ~それだわ」
「あと、雰囲気的には、洲本さんは“凛っ”で、沙那ちゃんは“きゅんっ”だわ」
「なにその例え」
「どっちも静かでおとなしいってのが似ているけど、よく考えたらちょこちょこ違いもあるね」
「それが人間さぁね」
「だからなんなのよそれ~」
みんなが笑う中、沙那だけがきょとんとしていた。
「沙那だけだな、今のところ」
昼休み。例の階段。昨日と違うのは、二人が別々に教室を出て待ち合わせたことだ。
「うん。にしても、十夜は女の子が四人以上いたら絶対に近づかないってのが今も変わってないんだね。舞のほうは、沙那が私と仲良くなるならって感じで遠巻きに見ているだけだった感じ」
二人は階段に並んで座った。
「にしても、けっこうたくさん変えたな。大丈夫か?」
「余裕だよ。なんでかな? 本当に今は余裕なんだってはっきり分かるよ」
快晴の太陽に負けないほどの笑顔に、その余裕が現れていた。
「みんなから見たら、今日の私って沙那みたいなんだってさ」
「そう言われてたな」
憶人は弁当袋を開けながら思い出した。
「やっぱり沙那をお手本にしたらそうなるよね」
「でもやっぱり霧香だなって俺は思った」
「そうなの? どんなところが?」
霧香が憶人に身体を寄せる。
「どんなところって……」
憶人から見て、霧香がいるほうの反対側にはすぐに壁がある。霧香の接近を避けようがなかった。
「だってそれって憶人にしか分からないじゃない」
ほんの少しだけだったが、憶人は霧香の表情にいたずらっぽさを見た。
「えっとな……」
憶人は苦し紛れに手元の弁当へと視線を落とした。
「なんていうか……芯があるんだって分かった」
「芯?」
「沙那は芯があるのか見せてくれねえみたいで、霧香は特に意識してなくても“こういう意思でどうこうしている”っていう芯が見えた……分かるか?」
「う~ん……」
あまり表情はよくない。
「まあそんな感じのことを思ったんだよ」
憶人が再び弁当を食べ始める。
「あ、逃げた」
そう言いつつ、霧香はそれ以上追及をせず、憶人と同じようにパンを食べ始めた。
午後からも霧香は“物静かな転校生”だった。休み時間は絶えず女子に囲まれ、男子は誰も霧香にほとんど話しかけることができなかった。
近い者はもちろん、遠い者の意識にも、霧香は映りこんでいた。クラスメイトたちに広まっている、そんな憧れに似た意識の存在に気づいた憶人は、それを霧香が意図したものかどうか知りたいと思った。だが、同時に知るのが怖いとも感じ、結局は霧香に尋ねるのを諦めた。
午前と同様に、十夜は霧香に声をかけることができず、舞はやはり遠くから見守るばかりだった。幼なじみの中で霧香と関係を持っているのが沙那だけであることに憶人は焦りを感じた。だが、霧香の意思を尊重しなければならないという思いで、自分を抑えていた。
ただ、どこかで納得はしていた。今まで舞と沙那は二人で固まっているのが当たり前だった。そこを分けてみるのはかなりの変化になるだろう。それこそ、不自然さを感じさせるほどに。
納得がそのまま力を持ち続けることを、憶人は願った。計算が尽くされてゆくのを目の当たりにしても、決して衰え、消えてしまうことがないようにと。
放課後になっても、霧香は十夜と舞に関わろうとはしなかった。
「城崎さん」
霧香に声をかけられ、荷物をまとめていた沙那が顔を上げる。
「どうしたの……?」
「城崎さんは部活動に入っていますか?」
「うん……放送部……」
「そうでしたか。部活が終わるのは何時ですか?」
「六時……」
「その時間までお待ちしますから、一緒に帰っていただけませんか? 方向が同じだと芦屋くんからお聞きしましたので」
「憶人が……」
沙那はしばらく視線を宙に泳がせ、おもむろに霧香へ視線を合わせ直した。
「じゃあ……憶人も巻き込んじゃえば……いいと思う……」
少し間が空いた。
「巻き込む、とは?」
「わたしと二人きりだと……すごく静かに……なっちゃうかも……」
「それで、芦屋くんを巻き込む……あっ、そういうことですか」
沙那が頷く。
「誘いづらいなら……わたしが誘う……」
「その前に、ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
「なあに……?」
「どうして芦屋くんなのですか?」
「幼なじみだし……それにまだ教室にいるから……」
沙那が教室を見渡す。十夜と舞はすでにおらず、憶人は机の引き出しの奥に手を突っ込んでいた。
「なるほど、分かりました」
「じゃあ……」
沙那が大きく息を吸う。
「憶人……」
声を張ったつもりだろうが、ほとんど変化がない。案の定、憶人は気づいていない。
「憶人ぉ……」
子犬を思わせる儚い呼び声は、二度目にしてかろうじて憶人の耳に届いた。
「なんだ?」
憶人が近寄る。
「今日ね……洲本さんと帰ろうか……」
「俺もか?」
意外そうな反応をしながら、さりげなく憶人が霧香を見やる。霧香は特に反応を示さなかった。
「わたしと二人だと……ね……」
「ああなるほどな。いいぞ別に。じゃあとう――――」
霧香の雰囲気が微妙に変わったのを憶人は感じた。
「いや、やっぱり洲本さんに学校案内でもしておくかな」
「それがいい……あんまり気まずくならない……」
それを本人の前で言うのはどうなのかと思った憶人だったが、相手が霧香ということもあり、流すことにした。
「芦屋さんがよろしいのでしたら、そうしていただきます」
霧香も気に留めなかった。
「じゃあ……六時に校門横で……」
「分かった」
沙那は憶人の返事を聞くと、カバンを持って放送室のほうへ去っていった。
教室に残るのは憶人と霧香だけになった。
「あと二時間くらいか」
憶人が黒板の上の時計を見やる。まもなく四時になろうとしている。
「なにをして待つ? 本当に学校を案内してやろうか?」
「いいよそんなの。私のほうがよく知ってるもん」
ほんの少しの対抗意識。
「そんなことないだろ」
「あるよ。だって憶人は部活中の吹部エリアに入ったことないでしょ?」
吹奏楽部は音楽室の周辺の教室をいくつか占拠している。校内ではその区画を“吹部エリア”と呼び、部員以外はよほどの事情がない限り、放課後にそこへ踏み入らない。
「音楽選択だったら授業で行くだろ」
「部活の時の空気は授業で使う時とまったく違うよ」
「そうなのか」
それは確かに憶人が知らないことだった。
「部活もなくなっちゃったんだね……」
憶人が霧香のほうへ顔を向けると、霧香は窓越しに吹部エリアのある副校舎を眺めていた。
「そりゃそうだよね。私は転校生なんだもんね。部活にはまだ入ってない……」
憶人には予想もつかないところから、霧香は思いを動かした。
「よくできてるなぁ、この世界って。こんなことになってもさぁ……」
その言葉には微塵の感心もなく、ただひたすらに諦めだけがあった。




