序章-3
「そうか。今朝はれんが来ていたのか」
「ああ」
自転車のペダルをこぐ足を緩めながら、英一は背中越しの声にそう返した。病院から墓地へと向かう道は長い下り坂になっている。その先は海だ。塩気を孕んだ夏風が先ほどの一件の憂さを多少晴らしてくれたため、二人の話題は自然と共通の知人の方へと向く。
だが、れんの名前を出したのは失敗だったかもしれない。
葉月はかすかに溜息をつきながら言う。
「たまには私だって会いたいのに。なぜなのか、あの子は私を避けてくる」
「偶然だろ」
そう応えつつも、内心では英一も偶然だと思っていなかった。いくらなんでも5回も10回もすれ違いが続くはずがないのだ。だがれんの行動には普段から不可解な点が多い。
(何でなんだろうな)
英一がぼんやり考えている間、後ろの彼女は無言だった。背中に頬を当てられているため顔は見えないが、内心では相当不満に思っているようだ。
(以前は仲良かったと思ったんだけど)
姉妹のような関係の二人を微笑ましく見ていた時期もたしかにあったのだが、何がきっかけでそれがこじれたのだろうか。英一には見当もつかなかった。
「おっと」
「むっ」
考え事をしていたら、小さな窪みに突っ込んでしまった。一瞬、車体が大きくつんのめる。腰に回された手の力が強まり、背中にぎゅっと葉月の体が押し付けられた。その上、道が安定してからもぴったり密着させたまま離れる気配がない。
(ったく)
英一は苦笑した。
男らしい口調や怜悧な美貌と相まって普段は人を寄せ付けない葉月だが、何かしら納得出来ないことに直面すると、彼女はやたらと合法的に英一との身体的接触を図ってくる。昔からそうだったため慣れっこになっているせいもあるが、どうにも抗しきれず、時々厄介だ。葉月が衆目を集める存在であることは間違いなく、結果として英一に妬みの視線が向けられることもあるだけに、彼にはやや歯がゆいものがあった。
だがそれでも、先ほどのような出来事の後では、誰かが近くにいると実感できるのはそれだけで安心できるものであって──
「いい天気だな」
「ああ」
空を見上げての呟きに、安心しきった声が返った。すっかり機嫌も直ったようだ。夏も盛りだが、海風は心地よく、互いの体温を不快に感じることもない。
「けど、少し急がなきゃまずいか」
時計を見ての呟きには、答えがなかった。葉月としてはこの時間を長く続けたいのだろう。だが英一は気付かないふりでブレーキを緩めた。舗装の途切れた下り坂を、速度の増した自転車が駆け抜けていく。
周囲には濃密な緑が溢れていた。せり出した枝が道に斑の影を落とす。時折、埋もれたような地鎮祭の祠が顔を覗かせた。前方の海面は陽の光を受けてきらきらと輝きを放っている。
それは、かつて日本という国が留めていた美しい姿。
そして同時に、それから数百年を隔てた今。地表に残された幾つかのコロニーの一つ、ここ『揺籃都市ポラリス』が再現した、仮初の理想郷の姿だった。