表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/23

第二章-5

 時を僅かに遡り、ベガ前。

 れんの力を把握した葉月は、矢継ぎ早に策を練り始めた。幼い少女──という表現が正しいのかはわからないが──まで危険に晒すことに激しい躊躇はあったが、すぐそばから流れ込んでくる強い意思を感じ取り、少女を自身の策の中心に据えることを決断する。

 ──そして、私にもまだ出来ることが残っている。

 葉月は自身の右手首を左手で掴んだ。この皮膚の下を流れる血──時に疎んじたこともあるこの力を、今はいくらでも使ってやろうと思う。でなければ、今後自分はれんの顔を真っ直ぐ見ることが出来なくなってしまう。どうしてか距離を置かれてしまっているあの子を、追いかけて捕まえて、抱きしめることが出来なくなってしまう気がするのだ。

(だから──)

 うん、と一つ頷くと、葉月はれんを目立たない位置に移動させ、代わりにハクを呼び寄せた。

 攻めあぐねて苛立ちを募らせていたのだろう、神獣は不機嫌さを隠しもせず葉月を睨みつけてくる。

 ──何用だ。

 下らない用なら噛み殺すとばかりの声が、『リンク』を通じて伝わってきた。

 だが葉月は全く怯まずに──ハクの眼前に、自身の腕を突き出した。

「この腕をあげる」

 その方が貴方の力が増すはずだから。不足ならもう片方の腕も、と、そう目で告げる。

 ──愚かな。役立てぬ身を嘆き、我に捧げて慰めとするか。

「いいえ」

 ハクの言葉に、葉月はゆっくりとかぶりを振った。いいえ、いいえ、それは違う。私は自分に出来ることをしているだけだと。

 彼女は気付いていたのだ。自分は花でも太陽でもないことに。咲き誇る花のそばに控える葉であり、太陽を追いかけて決して叶わぬ月でしかないことに。

 だけど、それでも花のそばにいることが出来るのなら。太陽と共に空を巡ることが出来るのなら。

 そのためになら、自分はどのような痛みにも耐えてみせようと思うのだ。

 神獣は喉を唸らせながらそんな葉月を睨み据えていた。だがやがて、何を思ったのかその牙を差し出されていた腕に突き立てる。

「──ッ」

 激しい痛みが腕に生じた。だが声は出さない。誰もが怯えを見せずにいるこの戦い。この程度で──と彼女は歯を食い縛る。

 牙は肉に深く食い込んでいた。やがて骨を砕き、食い千切るのだろう。失われていく血液に意識が遠のきそうになるが、何があろうと最後まで気絶しないと心に誓う。

 だが不意に、痛みが薄れた。ハクが牙を抜いたのだ。そして腕を咥えたまま幾度か傷に舌を這わせから、口を離す。

 ──我の唾液には止血の効がある。無駄に血を捨てられるのは惜しいのでな。

 そんな彼の声に、葉月は青ざめた顔で微笑んだ。

「意外と優しいのだな」

 ──見くびるな、娘。我はこれで事足りると申しておるのだ。我は斑駒。八草白雷ハチクサノシロイカヅチなり。無為に永らえし色なき色の身なれど、見事勤めを果たしてみせようぞ。

 ハクは空に向け遠吠えをした。単なる咆哮ではないのか、それは遠くの山々にまで木霊し木々を揺らす。全身の体毛が炎のように逆立って揺らめき、一回り体躯を大きく見せる。鉄騎と真っ向から渡り合えるのではとすら思わせるその威風に、葉月は一つの指示をした。意外なことに、彼は素直にそれに頷いてみせ、その場で四肢を張り詰めると地の底から響くような唸り声を上げ始めた。

 ──離れておれ。

 葉月にそう言い捨てる合間にも、その身がばちばちと帯電していく。そして全身が白く発光するに至って、彼は『戦車』に向けて大きく吼えた。直後、その背より走った雷が、英一に剣を振り下ろそうとしていた鉄の王子を貫いた。動きを止めた鉄騎は、そこで初めて、馬首をこちらに向ける。

 だがハクの攻撃は一度ではなかった。間を置かずに、幾筋も、幾筋も。彼が吼えるたびに雷が生まれ、両者の間を疾走る。

 無尽蔵のエネルギーがその身から放たれていくようだった。神の僕たる獣の、その名の由来となった雷光が異国の王子を数限りなく打ち据え続ける。

 だが、それでも鉄騎は怯んだ様子を見せなかった。尋常ならぬ雷圧に動きこそ止めているものの、傷を負ったようには見えない。

 そもそも、あの魔術の化身はどうすれば傷つくのか。馬が欠けた際のピエレッタの驚きようは異常なほどだった。あれは、傷つくはずのないものが傷ついたことによる驚きだったのではないか。英一はそれだけのことをしでかしたのではないか──それこそ人の領分を踏み外すほどのことを。

 不意に浮かんだその想像に身の凍る思いがした。しかし葉月はかぶりを振って、場の趨勢を見ることに努める。

 全くダメージが通らないとまでは思わなかった。だが想定の範囲だとも言える。元々、ハクの攻撃の狙いは『戦車』を倒すことにはない。

 鉄の王子は剣で雷を薙ぎ払っていた。裁ききれずに幾本かをその身に受けるも、周囲にその残滓ざんしが散る。ピエレッタに直接向かったものは『月』のカードに弾かれるが、地面に突き刺さったものが大きく土を抉る。

 今やピエレッタの周辺は、雷の発する光と土煙で覆い尽くされていた。葉月の位置からは勿論、中心付近では自身の手すら見えないほどに視界が制限されているはずだ。

 そしてこのチャンスに、英一が動いた。土埃を鬱陶しげに払うピエレッタの頭上に飛び、拳を落とす。『塔』の効果は対象に下方向の圧力を加えるものであるため、真上からの攻撃には使用出来ない。その弱点をついたのだ。

 だがそこで、道化師は唇の端をつり上げた。してやったとその目が語っている。意地の悪いギャンブラーのようににんまりと笑みを浮かべ、彼女は次のカードを切った。

 それは今までにない手札。伏せていた手の内。描かれた図柄はランタンを目の前にかざした老人──すなわちカード名『隠者《L'Hermite》』。

 隠者が意味するのは慎重、滞留、遅々とした歩み。カードをかざされた英一の落下速度が突如に遅くなった。周囲の時間を緩やかにされたのだ。

「さようなら」

 ピエレッタは余裕を持って剣を構え、愚かしく誘いにかかった英一に嘲りの視線を送ってから、一気にその腹を切り裂いた。

 血飛沫が舞い、その優美な顔に降りかかる。口の端に垂れた血を舐め、凄惨に笑う。

 だがその表情が次の瞬間、驚愕に凍り付いた。

「!?」

 道化師は我が目を疑った。たしかに腹を裂き、地に這わせた英一の──その姿がこの視界に入ったままだというのに、今、どうしてか、間近にその顔がある。右の拳を弓矢のごとく引き絞り、唇を堅く噛みしめたその顔が。

(──なぜそこにいる!?)

 ピエレッタは声にならない叫びを上げた。


 ◇


 『場の制約』についてありさから告げられてすぐ、葉月には気づいたことがあった。ありさは既にカードは出し尽くされたように語っていたが、相手はあの道化師である、確実に伏せ札があるだろうということだ。

 ただしその札も、『制約』を逸脱しないものでなければならない。場を支配するのが第6のカード『恋人』であるならば、その数はたがえてはいけないのだ。

 そしてこの条件を満たすカードはある。『奇術師』、『戦車』、『塔』、『月』で42。この状態を維持しつつ、更に場に出しても問題のないカードが。

 まず、10の位と1の位を足して6になる組み合わせは、06、15、24、33、42、51、60の7つだ。だが既に42になっているため、それ以下は除外。すると、42を51ないし60にする数は9か18しか残らない。そのうち18は既に場に出ている。つまり、伏せ札は第9のカード『隠者』に限定されるのである。

 これまでの戦いから、カードの効果の推測は難しくなかった。ありさに問い合わせ、それが『遅延』だと結論づけた葉月は、ピエレッタならば最も効果的なタイミングでこの伏せ札を使うだろうと予測する。

 しかし、英一とハクだけではどうしても手札が足りなかった。仮にピエレッタを追いこんで『隠者』を使わせても、その後が続かないのだ。

 あと、一つ。そしてここに手を差し伸べたのが、れんだったのである。


 ◇ 


 英一の拳は、狙い違わずピエレッタに突き刺さった。『隠者』の効果を多少受けてしまったものの、彼の突進力は埒外のものだ。伏せ札を開示した直後の一瞬の油断をついて、『塔』を使用される前に痛撃を与えることに成功する。

 直前まで気づかれないよう身を屈めて突進したため、狙ったのは腹部だ。意識を刈り取ることこそ出来なかったものの、道化師の身体は大きく吹き飛び、せき込んで血を吐いていた。内臓へのダメージは甚大だろう。

 本来は今こそ追撃すべきなのだろうが、英一にはその前にどうしても確かめたいことがあった。

「れん!」

 彼は少女の名を呼びながら、自分自身を探した。ハクの力で一時的に彼の姿格好になっているという少女を。

 ピエレッタの刃を受け、すぐそこに倒れていたはずだが──

「ハク……?」

 見ると、ハクがその背にもう一人の彼の身体を抱え上げていた。そして理性を宿した目で英一を一瞥してから、身を翻して葉月のいる場所へと走っていく。

(そうか)

 その後ろ姿を見送り、自分に出来ることがないと悟った彼は、「頼む」と呟いてからうずくまるピエレッタに向けて足を踏み出した。


 ◇


 駆け寄る葉月と合流した時、ハクの背に乗せられた英一の姿は別のものに変化していた。

 それは、一匹の小さな狐。身を丸めて腹から血を流しながら、息も絶え絶えに喘いでいる。ピエレッタの剣には魔術による呪いが篭められており、実体化した肉体のみならず霊体にも直接傷を刻んでいた。

「れん!」

 葉月は子狐の身体を抱き上げてからそっと地面に下ろした。そして先ほどハクに噛ませた腕の傷に爪を立てて、溢れ出た血をその口元に落とす。

「お願いだ、飲んでくれ……!」

 葉月は祈るように呼びかけた。このまま消えられてしまうのが許せなかった。だからリンクした心を繋げてれんを叱咤した。──お前はまた私達を置いていくのか!


 れんの最初の記憶はあまり楽しいものではなかった。西暦二○○○年の山間を再現しているとはいえ、ポラリスの自然はあくまで人間に向けて作られたものである。小動物が悠々と暮らしていけるような安全な棲み処も餌場も存在していない。親狐の存在は知らず、小さな身で限られた僅かな場所を巡って争っても敵うはずなく、市井しせいに降りて餌をくすねては人間に追われる日々を過ごしていた。

 そして、当然のようにそんな綱渡りは長続きしなかった。子供が投げた小さな石であっても、子狐の体で思い切りぶつけられれば怪我を負う。血こそ流れなかったものの、大きなあざが浮かんでじんじんと痛みを訴えられてしまうと、身動きが取れなくなる。山に戻ることも出来なくなったれんには、何とか草むらに身をひそめるのが精一杯で、人に見つからないよう怯えながら夜を迎えた。

 だが、夜闇に紛れて山に戻ることは出来なかった。──近くでものおとがする。にんげんのあしおとだ、と理解したれんは小さな体を竦ませてやり過ごそうとした。気付かれてないと思いたいのに、足音は近づいてきている気がする。れんの心臓が激しく脈を打った。どんどんと強まり、張り裂けんばかりになった。でも希望は叶えられなかった。足音は近くに止まった。ちかく。ううん、わたしのめのまえで。

 れんは目を瞑って祈った。祈る相手がわからないので、おかあさん、とだけ。と、不意に風の動きを感じた。恐る恐る瞼を開いてみると、目の前に人間の男の子の顔があった。お腹の下には温かい手のひらの感触。それでようやく、自分が抱き上げられていることを知った。


 それが、英一達とれんの出会いだった。れんを見つけたのは葉月で、抱き上げたのは英一だ。二人が暮らしていた施設は、一般の居住地からは離れていた。れんが隠れた草むらは、普通ならば見つからない場所にあったのだ。訓練の合間に外に抜け出した二人に偶然見つかったのは、運が悪かったということなのだろう。

 その運が実は良かったのだとれんが知ったのは、このすぐ後のことだ。勿論はじめは信じられなかったのだが、葉月に傷の手当をされている間に英一が持ってきたミルクをおっかなびっくり啜っているうちに、不思議な気持ちになっていったのだ。そしてミルクを全部平らげた後、お皿から顔を上げると目の前で手を叩いて喜んでいる二人がいて──その時、れんは生まれて初めてこう思ったのだ。

 なんだかわからないけれど、なんでだかもわからないけれど、でも、なんだかあったかいな、と。

 そこから先はあっという間だった。あっという間に二人と一匹は仲良くなった。施設暮らしの二人は外出時間も限られていたが、れんの棲み処が近くの山にあることを幸いに、頻繁に出向いては共に時間を過ごした。ある寒さ厳しい冬の日、震える体に不意に被せられた布の暖かさをれんは今でも忘れないでいる。

 けれど、自然の世界は無情だった。ポラリスにおける小動物の生存率はどれほどなのだろう。少なくとも、安全な場所に隔離されでもしない限り生き抜くのは困難なのだということを、れんは知ってしまったのだ。その小さな身で。

 ただ虫の居所が悪かったのだろう。その狼は、れんに傷を負わせた後、静かに去っていった。だがそれゆえに、れんは痛みに苦しみながら死を待つことになった。いっそ食われてしまう方が楽だったかもしれない。あるいは、もう少し世界が優しかったなら、翌日の英一達の来訪が間に合ったのかもしれない。

 けれど運命はどちらにも転ばなかった。翌日れんは、動かなくなった自分の体を抱きしめて涙を零す英一と、その背後でぎゅっと唇を引き結んで耐えている葉月の姿を、少し高い位置から見下ろすことになった。

 そして、あれ、と思った。あれ、自分はなんでここにいるんだろう?

 無論、子狐の頭では幽霊だのなんだのといった概念が理解出来るはずもない。ただれんは、出来るなら大好きな二人のそばにいたいと思った。それだけをよすがに幼い魂は現世に残り、まるで理解出来ない状況と向き合うことになったのだ。

 そしてれんの苦闘が始まった。すぐに二人を呼んで自分がいることを伝えようとしたが、突然何かに引っ張られるような感じがして引き離されてしまう。みるみるうちに視界が移り変わり、気付いた時には目の前には大きな獣がいた。

 獣はハクと名乗り、山の主だと告げた。そしてれんに、無闇に人の前に姿を現すことを禁じた。獣の霊は人に見つかれば祓われてしまうのだとハクは語ったが、れんには理解出来なかった。

 だが、ハクは街に下りることを許さなかった。悩んだれんは、ハクに一つの提案をする。狐の変化の術を覚えて、人の姿で会うのなら許してもらえるかと。

 そしてハクはこの条件を呑んだ。そこには彼なりの思惑があった。すぐに覚えることなど出来はしない。その間に、人間のことなと忘れてしまうだろうと。

 しかし彼の予測は外れた。たしかにれんは変化できるようになるまで10年の歳月を費やした。だが英一達のことは一日たりとも忘れなかったのだ。大喜びで成果を見せたれんを前に、ハクもとうとう折れた。

 それからすぐに、れんは二人に会いに町へ降りた。せっかく人間の姿になれたのだからと、正体は明かさなかった。同じ人間として仲良くなれればいいと考えたのだ。特に英一には──人間の姿だと不思議と顔が火照ってしまうのだけど──どうしても狐の姿を見せたくなかった。だからばれないように、ちゃんと喋れるようになるまで口が利けないふりをしようと決めた。

 一方で葉月には、なぜだか顔を合わせるのに躊躇いを感じるようになった。どこかで失敗をしたのか正体を悟られてしまったせいもある。でも何よりも、英一を見る目が自分と同じであることに気付いた時からだ。昔からずっとずっと大好きなのに、どうしてなのかれんにはわからず、時々胸がしくしくと痛むような思いに沈んでしまうことがあった。

 けれど──。

 

 ──お前はまた私達を置いていくのか!


 けれど今、お腹を割かれてとても痛いけれど──。れんの頭の中には、葉月の気持ちが止め処なく流れ込んできていた。その激しさと暖かさに押し流されそうになって、少女は胸を詰まらせる。不意に涙が零れた。溢れて止まらない。

 ああ、と声が漏れた。苦しいからじゃない。それを証明するように、言葉になった。おねえちゃん、とそれは言っていた。こころがかたちになったんだ、とれんは思った。そして今自分を抱きしめてくれている人をこれ以上悲しませないために、喉に溜まった血をこくりこくりと飲み込み始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ