序章-1
ひどく、血生臭い夢だった。
──軋む骨。──鬩ぎ合う肉。
──爆ぜる眼球。──剥がれ落ちる皮膚。
目覚めた後も、脳裏にこびりついたままのそれら不快な感覚が、今にも再び押し寄せてくるようだった。
森岡英一は、ベッドの上で無意識に身を縮こませようとした。だが、瞬間手首から生じた焼け付くような痛みに、束の間呼吸すら出来なくなってしまう。
手錠。
じゃらりと音を鳴らしたそれは、ベッドの支柱に巻き付いて彼の両手を拘束していた。輪も鎖も血で赤く染まり、昨夜の暴れようがいつになく激しかったことを物語っている。カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光は鮮烈で美しかったが、今に限っては血の色をより深めているだけだった。
「アンロック、2・4・5・9」
あらかじめ登録していた解除キーを呟くと、音声認識により手錠が外れた。半身を起こして包帯を外し、ぎざぎざの傷口を見つめ、ため息をつく。
カウンセラーの女性から渡された拘束ベルトなら傷を負う心配はないのだが、彼女の趣味なのかとても怪しいデザインをしていたため、英一はギークな友人から入手したこの手錠を使用していた。それでも包帯を間に挟んでおけば昨日までは問題なかったのだが、この有り様では今夜からはまた別の対応が必要かもしれない。
彼は枕元に備え付けた薬箱から消毒液を取ろうとした。と、横合いから別の小さな手が伸び、手首を掴まれる。
──幼い、少女がいた。数瞬前までは、確かに存在していなかったはずなのに。
だが英一は驚いた風もなく少女に語りかけた。
「いたのか、"れん"」
小さな頭がこくりと上下する。
いつからか、いた存在だった。特段のきっかけがあったわけではないはずだ。ただ、かつての日本にはそういうものがいたという文献を目にしたことがある。ならば、それでいいかと彼は思うし、いちいち気にするには彼の周りには奇妙なものが多すぎた。
ひっつめた着物。頬の横で切り揃えられたおかっぱ頭。ふいに姿を現し、かと思えば瞬きの間に消える。
いわゆる幽霊と呼ばれる存在である。しかしどうしてか人に触れることが出来るし、出会った当初は洋服だったのが、英一が見ていたホラー番組の影響かいつからか着物を着るようになって、遥か昔に存在していたという妖怪の子供のような風貌になっている。
れんはいつものように英一の顔を窺い、相手に拒む様子がないことを見て取ると、両手で捧げ持つようにして傷口に顔を寄せた。それから鉄臭い匂いを厭うでもなく舌を這わせ始める。
「痛……」
傷に染みて、つい声を漏らしてしまった。れんがぴくりと反応して動きを止める。見上げてくる瞳。だが英一が大丈夫だと頭に手を乗せると、再び舌を動かす。
人らしからぬ行為だった。獣に近いと言えるかもしれない。だが、不思議と嫌な感じはしないので、英一はいつもれんのしたいがままにさせていた。
「ありがとな」
一通り傷を舐め終え、身を離した少女の頭をそう言って撫でてやる。照れて俯くれん。その目は前髪で隠れて見えない。そもそも普段から表情に乏しい少女だが、この時ばかりははにかむように綻んだ口元が覗いた。