8話
ゲームの説明書の人物紹介欄には攻略対象以外の人物も載っていた。
たとえば、モラン・グライナー。
イラストの傍の説明にはこうあった。
クラリッサの父親であり、グライナー商会の会長。怪しげな商売で莫大な財産を築いており、裏社会にも通じているため、人の恨みも多く買っている。
もちろん、「マルガレーテ」の経営者という記述はどこにもない。
スキンヘッドに黒い上下を着こんだ姿はどう見ても裏社会のボスにしか思えなかった。
わたしはゲームで見た極悪な笑顔を思い浮かべながら、新聞をくしゃくしゃに畳んでいる父さんを見る。
「父さ……お父様」
新聞を小脇に抱えた父さんはどこをどう見ても極悪からは程遠い、人の好さそうな笑みを浮かべている。
「どうしたんだ。クラリッサ。さっきからぼうっとしているな。ああ、もう、おなかがすいたのか? ええと、キャンディーがあったかな」
「親方。お菓子だったら、食堂に焼き立てのものがたくさんあります。ほら、早く行きましょう。お嬢さん」
「いいえ。ヨーゼフ。わたし、おなかがすいているのではないわ。もう、どうしてみんな、わたしがぼうっとしていたら、おなかがすいていると思うのかしら」
「だって、クラリッサって、おなかがすいているときは本当に元気がなくなるんだもの。いつか、アルフレート様がおっしゃっていたわ。クラリッサがすごくおなかがすいているときって、まるで死んだ魚――」
言いかけて、エリーゼは慌てたように口元を押さえる。
「死んだ魚? アルフレートはわたしが空腹のときは死んだ魚みたいだって、そんな風に言っていたの?」
「ち、違うのよ。クラリッサ。アルフレート様は、ほら、死んだ魚のような目をしているってそうおっしゃっていたの。死んだ魚ではないのよ」
「ぜんぜん違わないわ。エリーゼ」
むしろもっとひどい。
――覚えていなさい、アルフレート!
わたしは淑女にあるまじき動作――片手に拳を打ち付ける――をしながら、あとでアルフレートを問い詰めようと誓う。
年頃の淑女に向かって、その表現は何だ。失敬な。
だが、「死んだ魚のような目」というのは、あながち間違っていないかもしれない。スチルで描かれたクラリッサの瞳には光がないことが多く、
ゲームのファンサイトのクラリッサの愛称は「死んだ魚のような目の子」だったからだ。
つまり、わたしが「はかなげでたおやか」な少女にはなれなくとも、空腹時のみ「死んだ魚のような目」になるのなら、ゲームのクラリッサとわたしに少しくらいは共通点があるのかもしれない。
――ぜんぜんうれしくないけれど。
わたしは気を取り直して、おろおろしている父さんを見る。
「わたしがぼんやりしていたのは考え事をしていたからなの。もしもお父様の髪が全部なくなってしまったら、どんな感じかしらって」
「クラリッサ!」
父さんは悲痛な叫び声を上げる。
「朝っぱらから、そんな不吉な想像をしないでくれ! 私の髪はまだある! こんなにもいっぱいあるじゃないか!」
父さんは両手で頭を抱え込む。
もちろん、ゲームとは違って父さんの髪はまだ存在している。上の方はやや怪しくなって光り輝いているものの、ある程度は栗色の髪の毛が残っている。ゲームでは、父さんの髪はなぜなかったのだろう。悪そうに見せかけるために剃っていたのか、もしくは何らかのストレスで髪をすべて失ってしまったのか。
父さんは存在している髪を何度も確かめるうちに、なぜかうなだれてしまった。
「そんなに気を落とさないで。お父様。髪はいつか必ずなくなってしまうのだとしても、お父様はお父様だもの。何も変わるわけではないわ」
「そうよ! おじさま! たとえおじさまの頭が光り輝く日が来たとしても、それはそれで素敵だと思いますわ!」
「お前たちの気持ちはうれしいが、私、まだ、頭は光輝きたくない……。かっこいい言動で光り輝きたい……」
父さんはうなだれながら、とぼとぼと歩き出す。
「何を弱気なことをおっしゃっているんですか、おじさま! 言動に加えて、外見でも光り輝けば目立つではありませんか! おじさまはいつも目立ちたいとおっしゃっているでしょう!
社交界でも注目の的になって、間違いなく『マルガレーテ』のためになりますわ!」
エリーゼに背中をばしばし叩かれながら元気づけられても、父さんはまだ落ち込んでいる。
だが、きっと今の父さんなら、たとえ髪の毛が全部なくなったとしても、あんな極悪な顔にはならないだろう。
そして――ヨーゼフ。
わたしは傍らを歩く背の高い姿を見上げる。
彼はただ「ヨーゼフ」と名乗った。ゲームでも、この世界でも。
頬に古傷のある名字のない正体不明の男。
ヨーゼフはモランの用心棒を兼ねた片腕であり、悪事なら何でもこなす男だと紹介されていた。
黒の上下を着こんだ鋭い眼光の姿は、モラン・グライナーと同じようにどう見ても裏社会の人間、もしくは暗殺者にしか思えなかった。
「お嬢さん。昨日、本当は俺も見舞いに行きたかったんですが、エリーゼさんからお嬢さんがもう休まれていると聞いて、遠慮させていただいたんです。その代りと言っては何ですが、今日はお嬢さんのためにお好きなケーキを作りますから、たくさん召し上がって行ってください」
わたしを見下ろして、彼は穏やかに言う。
「ああ、そうだ。エリーゼさんから聞きましたよ。お嬢さんの考えられた新しいケーキ。名前はええと、確か」
「『スチル』ですわ! ヨーゼフさん」
お店の裏口の階段を踊るように上りながらクラリッサが振り返る。誇らしげな答えに、ヨーゼフは破顔する。
「そうだ。『スチル』でしたね。いい名前だと思いますよ。お嬢さん」
「ヨーゼフ。あれは、わたしが意識のないときに寝ぼけて言ったときの言葉だから、ケーキにはふさわしくないと思うわ。新しいケーキには、もっと別の素敵な名前をつけたいと思うの」
「あら、意識のないときに、そんなに素敵な言葉を言えるなんて、それこそすばらしいと思いませんか。ヨーゼフさん」
「そうですね。俺も良い響きの名前だと思いますよ」
なぜ、皆そんなに「スチル」を支持するのだろう。「スチル」という言葉の響きに良いも悪いもないと思うのだが。
まだうつむきがちな顔の父さんが裏口の扉を開けて、エリーゼを先に通す。
「ほら、お嬢さんも」
扉を押さえて穏やかに微笑んでいるヨーゼフを見上げて、不意に泣きそうになった。
店内に入って従業員用の食堂に続く廊下を歩きながらも、わたしは隣を歩くヨーゼフを何度も見上げる。
あのヨーゼフが笑っている。もちろん、この世界のわたしの記憶の中のヨーゼフはいつも笑顔だ。
ヨーゼフは幼い頃からいつだって、わたしに甘かった。目が合えばいつだって微笑んでくれて、焼き立てのお菓子をくれた。たぶん、わたしに甘い父さん以上にもっとたくさん、甘やかしてくれた。
ゲームのヨーゼフは笑わない男だった。決して笑わない彼が唯一笑顔を見せたのは、クラリッサルートの駆け落ちエンドだ。
クラリッサとエリーゼが手に手を取って駆け落ちしてすぐに追手がかかった。だが、その追手は明らかに二人の命を狙っており、何度も銃を向けられた。命からがら逃げながら、そこまで父親に憎まれていたのかと絶望するクラリッサの前にヨーゼフが現れる。
『親方の命で助けに来ました。お嬢さん』
彼女たちを追う追手は父親の差し向けたものではなく、彼を恨む同業者だったのだ。父もまたその同業者に撃たれたのではないかという描写があったが、詳しくは言及されていない。
容赦なく銃を向け続ける追手から二人をかばい続けたヨーゼフは、ついに撃たれてしまう。彼はひどい怪我を負いながらも港まで逃がしてくれて、最後に彼は笑う。決して笑わなかった彼が、最後の最後だけ笑ってくれるのだ。
『お嬢さん。俺は頑丈ですから、こんなことでは死にません。どうか逃げてください。お二人で逃げて幸せになってください。なあに、俺は大丈夫ですよ。お嬢さん』
そんなヨーゼフをおいて逃げられないというクラリッサとエリーゼに彼は言う。
『お願いです。ここで逃げてくれないと、俺が困るんです。こんなこと、考えるだけでも不遜でしたが、お嬢さんのことを、俺は自分の娘のように思っていたんです。俺の娘が、もしも、生きていたら、たぶん、お嬢さんみたいな、かわいい、かわいい子になっていたかもしれません。俺は親方に拾われて、どうにかここまで生きてきました。どうせ捨てたような命です。お嬢さんの役に立てるのなら、お嬢さんを生かすことができるのなら、俺もここまで生きてきた甲斐がある。どうか、こんな目に遭っても、親方を恨まないでください。親方も、親方なりに、お嬢さんのことを大切に思われていたんです。さあ、逃げてください。お嬢さん。エリーゼさん、どうか、お嬢さんを頼みます』
言いながらも、彼は二人を突き飛ばし、追手に向かって突然走り出す。止める間もなく、銃声が響く。エリーゼに手を引かれて、わたしは泣きじゃくりながら、船に向かって走り出す――。
「ヨーゼフ。もしも、もしもね。『マルガレーテ』がなかったら、皆、どうなっていたのかしら」
わたしは思わず傍らを歩く彼の腕をつかむ。
「どうしたんですか、お嬢さん」
何か言うと涙がこぼれそうで、わたしは顔をうつむけた。
ゲームの記憶と共に、わたしの中の黒歴史がよみがえる。
――あああああ、ごめんなさい! ヨーゼフ!
わたしは心の中で再び土下座した。
ヨーゼフに萌えて、萌えて、萌えたわたしは情熱が抑えきれず、やはり二次創作を書いてしまった。駆け落ちエンドがあまりにも悲惨だったため、クラリッサルートのベストエンド「希望の光」(お互いが気持ちを告げずに幸せを祈って別れる)後の世界で、ようやく気持ちの整理がついたクラリッサがヨーゼフと結婚する、という話を書いたのだ。「お嬢さん」呼びから「クラリッサ」呼びに変わるところが、自分で書いておいてなんだが、非常に萌えた。
エリーゼを主役に書くならともかく、わたしとヨーゼフの話を書くなんて、どうかしていたとしか思えない。だが、萌えとはそういうものである。どうかしているほどの情熱がなければ、二次創作なんて書けないのだ。それに、何よりも年の差と主従関係は萌える。ちなみに、今のわたしとヨーゼフの年の差は二十五歳差だ。
もちろん、この世界のヨーゼフとわたしがどうにかなりたいなんて思うはずがない。エリーゼの攻略対象ではないとはいえ、ヨーゼフはわたしのもう一人の父親であり、年の離れた兄のようなものだ。
それでも、見上げると、優しい笑顔が返ってくる。その笑顔にくらりとしそうになる。
ああ、大好きだった笑顔が目の前にある。ゲームでは一度しか見られなかったら、あまりにも悲しい場面だったのに直前でセーブして、何度も何度も繰り返し見た、あの笑顔。
「そうですね。もしも、『マルガレーテ』がなかったら、俺の人生も親方の人生もまったく違ったものになっていたでしょう」
「それは、どんな人生だったと思う?」
「たぶん、想像もしたくない人生です。お嬢さんはご存じないでしょうが、親方は一度、この店を畳もうとなさったことがあるんですよ」
「そうなの!? わたし、そんなこと、ぜんぜん知らなかったわ」
驚きのあまり、抱え込んでいた腕を放す。
「ええ。だから、本当にお嬢さんには感謝しています。親方も、きっとそうでしょう」
「どうして、わたしに感謝するの?」
「親方に聞いてみられるといいですよ」
ヨーゼフは笑って、わたしの頭をぽんと叩く。
「さあ、食堂に行きましょう。焼き立てのお菓子と一緒に、きっと皆、お嬢さんを待っていますよ」